岡康道・小田嶋隆対談「いつだって僕たちは途上にいる」(講談社)に
こんな箇所があったのでした。
小田嶋】 東日本大震災とその後の災害で一番怖かった瞬間はいつかといえば、俺の場合は、アメリカ軍が逃げた情報を聞いたときだった。
岡】 逃げたね。80キロ圏外。震災後6日目にね。
小田嶋】 あれだけの装備と知識と力と肉体を持った人たちに逃げられたら、俺たち、やっぱりもう終わりだな、って背筋がゾッとした。
東日本大震災から2年を過ぎると、こういう「背筋がゾッとした」感覚も、私はすっかりとわすれてしまっております。
そして、ドナルド・キーン氏が、ほかならぬ、日本国籍を取得したいと申し出るニュースが流れた時の何とも言えない心持も忘れています。
瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン対談「日本を信じる」(中央公論新社)に
キーン】 私はニューヨークにいました。あちらのテレビでも24時間、日本の震災のことを報道していて、いつもはあまりテレビを見ないんですが、あのときばかりはずっとテレビから目が離せませんでした。・・・被災した人々はどうしただろう、今、どんな気持ちでいるかと考えると眠れませんでした。・・・日本人になると決めた私の気持ちを表現するなら、第二次大戦中に作家で詩人の高見順が日記に書いた思いと重なるでしょう。
戦時下でいちばん情勢が厳しいときに、当時、鎌倉に住んでいた高見順さんは、アメリカ軍が鎌倉を攻撃するという噂を耳にします。心配して、自分のお母さんを田舎へ帰したいと大船まで見送った後、妻を連れて東京大空襲の跡を見に上野駅に行くのです。しかし着いてみると群衆があふれ、大変な混雑となっていました。みんな、安全なところに逃げたいという同じ気持ちにかられて。高見さんが驚いたのは、誰もが静かに整然と並んで汽車の順番を待っていたことです。待つのは当然だというように。我先にと列を乱す人はいない。その光景を目にして、『私はこうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った』と日記に書くんです。
私も同じ気持を抱くようになりました。むしろ、どうしてもっと早く日本国籍を取ることを考えなかったのか、自分でも不思議に思ったくらいです。・・・」(p13~18)
こんな箇所があったのでした。
小田嶋】 東日本大震災とその後の災害で一番怖かった瞬間はいつかといえば、俺の場合は、アメリカ軍が逃げた情報を聞いたときだった。
岡】 逃げたね。80キロ圏外。震災後6日目にね。
小田嶋】 あれだけの装備と知識と力と肉体を持った人たちに逃げられたら、俺たち、やっぱりもう終わりだな、って背筋がゾッとした。
東日本大震災から2年を過ぎると、こういう「背筋がゾッとした」感覚も、私はすっかりとわすれてしまっております。
そして、ドナルド・キーン氏が、ほかならぬ、日本国籍を取得したいと申し出るニュースが流れた時の何とも言えない心持も忘れています。
瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン対談「日本を信じる」(中央公論新社)に
キーン】 私はニューヨークにいました。あちらのテレビでも24時間、日本の震災のことを報道していて、いつもはあまりテレビを見ないんですが、あのときばかりはずっとテレビから目が離せませんでした。・・・被災した人々はどうしただろう、今、どんな気持ちでいるかと考えると眠れませんでした。・・・日本人になると決めた私の気持ちを表現するなら、第二次大戦中に作家で詩人の高見順が日記に書いた思いと重なるでしょう。
戦時下でいちばん情勢が厳しいときに、当時、鎌倉に住んでいた高見順さんは、アメリカ軍が鎌倉を攻撃するという噂を耳にします。心配して、自分のお母さんを田舎へ帰したいと大船まで見送った後、妻を連れて東京大空襲の跡を見に上野駅に行くのです。しかし着いてみると群衆があふれ、大変な混雑となっていました。みんな、安全なところに逃げたいという同じ気持ちにかられて。高見さんが驚いたのは、誰もが静かに整然と並んで汽車の順番を待っていたことです。待つのは当然だというように。我先にと列を乱す人はいない。その光景を目にして、『私はこうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った』と日記に書くんです。
私も同じ気持を抱くようになりました。むしろ、どうしてもっと早く日本国籍を取ることを考えなかったのか、自分でも不思議に思ったくらいです。・・・」(p13~18)