和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

おーい、水島。

2013-06-18 | 短文紹介
私が、竹山道雄氏を意識したのは、
徳岡孝夫著「『戦争屋』の見た平和日本」(文藝春秋)のなかに入っている
「『ビルマの竪琴』と朝日新聞の戦争観」を読んでからでした。
ということで、その箇所をもう一度読み返すと、こんな箇所が

「竹山さんの『ビルマの竪琴』が本になって出た戦後のあのころのことは、はっきり覚えている。昭和23年の、谷崎潤一郎『細雪』の出たのと同じころだったと思う。・・・あの本が出た当時、それよりもっと切実な響きを持っていたのは、戦友たちの『おーい、水島。一しょに日本にかえろう!』という叫びだった。なにしろ、何十万という父や兄が、まだシベリアにいた時代である。
戦友の呼びかけよりさらに強烈だったのは、『ああ、やっぱり自分は帰るわけにはいかない!』という水島の拒否の声であった。当時の日本人には、それはほとんど信じられないほどの異常な意志に聞こえた。『流れる星は生きている』が好例だが、あのころの日本人は、とにかく何がなんでもいったん故国に帰り、まだ存在している山河を確認してからでないと生きていけなかった。それほど打ちのめされていた。ビルマに残って日本兵の遺体を弔いたいという水島の意志の強さは、今日の人が想像できないくらいであり、その水島を創造し得た竹山さんも強かった。あの小説を書いた前後のことは、竹山さん自身が『ビルマの竪琴ができるまで』の中で述べている。・・・・『当時は、戦死した人の冥福を祈るような気持は、新聞や雑誌にはさっぱり出ませんでした。人々はそういうことは考えませんでした。それどころか、『戦った人はたれもかれも一律に悪人である』といったような調子でした。日本軍のことは悪口をいうのが流行で、正義派でした。義務を守って命をおとした人たちのせめてもの鎮魂をねがうことが、逆コースであるなどといわれても、私は承服することはできません。逆コースでけっこうです。あの戦争自体の原因の解明やその責任の糾弾と、これとでは、まったく別なことです。何もかもいっしょくたにして罵っていた風潮は、おどろくべく軽薄なものでした』
空には同じような夏雲があるが、あの夏から実に四十年もの歳月が経った。一つの風潮が終わればコロッとそのころのことを忘れてしまうのはわれわれの常だから、こう言われても信じない人がいるだろう。・・・・」


うん。夏雲の下、今年は竹山道雄を読むんだ。
コメント
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