和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

品が良くなった。

2013-06-23 | 前書・後書。
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の、あとがきは、この本ができる経緯から書かれておりました。

「当初『諸君!』に連載を予定していた。その『諸君!』が突然停刊となった・・」と、あとがきははじまっておりました。
このあとがきは2013年2月24日に書かれておりまして、
そのあとがきの最後を引用。

「竹山道雄の周辺にいた旧知の人々は次々と消えていく。・・・・
竹山夫人保子は2008年、材木座から渋谷区西原の私どもの家に移り老を養っている。新聞を見て『祐弘さんの文章はわかりやすくていい』などと依子にいっている。また『テレビはつまらなくなったが、国会中継だけは第二次安倍内閣になって品が良くなった』などともいっている。本書がつつがなく刊行され満97歳の竹山夫人の手に無事に届けばよいがと著者は祈っている。竹山は『ビルマの竪琴』の「あとがき」で屍を異国にさらし、絶海に沈めた若い人々の名をあげた。従弟の田代兄弟も何の形見もかえってこなかった。・・・」

うん。ここらは、新刊を読む楽しみでもあります。


本文の第八章「ビルマの竪琴」は、第一話が
米国占領軍の民間検閲支隊の検閲にひっかかってしまうことへと言及しておりました。

「当時、検閲実務に従事した要員はおおむね日本人で、占領軍の指令に従いチェックしていた。・・・英語力に秀でた日本人五千人以上が勤務していた。滞米経験者、英語教師など・・・その要員募集はラジオを通して行なわれ、給与金額まで放送されたから、少年の私にも比較的高給が支払われることは聞いてわかった。費用は敗戦国政府の負担である。その検閲業務をした人でのちに革新自治体の首長、大会社役員、国際弁護士、著名ジャーナリスト、大学教授などになった人々もいた。が仕事の性質を恥じたせいか、検閲業務に従事した旨後年率直に打明けた人は少ない。その体験を公表した人は葦書房から書物を出した甲斐弦など数名のみである。タブーは伝染する。・・・占領軍の検閲の非を問わないという禁忌が、連合国側によって流された歴史解釈を正当とする風潮を生むにいたる・・・」(p186~187)


うん。ここでは、「ビルマの竪琴」の第一話について、

「比較的に短い30頁足らずの第一話『うたう部隊』だけがまずできた」(p184)
「第一話の原稿を書きあげたのは昭和21年9月2日だった。藤田(圭雄)からすぐこんな速達が届いた。『御原稿すばらしいです。土曜日に高崎の家へ持つてかへつて拝見しましたがあまりのすばらしさにぢつとしてゐられない気持でした。十分の期待は持つてゐましたがあんなにいいとは思ひませんでした。うれしさに胸ふくらましてゐます。どうぞ是非つづきを御かき下さい』。」(p184~185)

この藤田圭雄が、日系二世の士官に訴えて、検閲が通るのでした。
コメント
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