平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の
第18章「東大駒場学派の人びと」を読む。
思い浮かんでいたのは、
池上彰著「学び続ける力」(講談社現代新書)のこの箇所。
「1991年、文部省(当時)が、大学設置基準の大綱化を実施したことで、従来型の一般教養科目が激減します。・・その結果、多くの大学で一般教養コースが解体され、専門科目が増える一方、教養科目は激減しました。
ところが、これ以降、大学卒業生を受け入れる企業の側から、『専門知識は持っていても、一般常識に欠ける学生が増えた』との不満が出るようになります。これにオウム真理教事件が追い打ちをかけました。常識で考えてありえない奇妙な教えを信じる学生が続出。
・・東工大の卒業生にも関与した人物がいます。これをきっかけに、やはり一般教養必要だ、ということになったのです。・・どうも日本の教育は試行錯誤が多すぎます。・・実は東工大には一般教養を重視するという伝統があります。・・・」(p45~47)
ここでは、池上氏が東工大で教えるキッカケから話がはじまっていて、その大学をふまえて語られております。
さて、「竹山道雄と昭和の時代」の第18章です。
そこに、
「教養学部という名称は旧制高等学校の教養主義とは切っても切れない観念である。」(p447)とあります。うん。一般教養とは違う『教養学部』を、ご自身を通じて語っておられます。
「竹山道雄と一番親しかった人々は、手元に残された手紙類を整理してみると、旧制一高の最後の生徒で新制東大の駒場に新設された後期課程へ進んだ面々である。一高で一年を過ごし、その伝統的な教養主義を奉じる気概ある若者が、授業内容は一高よりもはるかに上質である教養学部教養学科で鍛えられたということは稀なことであったのだ。・・・そしてその間に日本の軍部、ヒトラーのドイツ、共産主義のロシア、毛沢東の中国を批判してぶれない竹山道雄を身近で見てきたのである。それでいながら私たちは『時流に反して』意見を述べるその人が日本言論史の中で占めるべき位置をきちんと世間に説き明かさずに今日にいたってしまった。遅きに失したかとあやぶまれるが、しかし書かねばならない。そこには世間が一旦は忘れてもなお後世に残るなにかがあるとひそかに信じている。」(p461)
第18章「東大駒場学派の人びと」を読む。
思い浮かんでいたのは、
池上彰著「学び続ける力」(講談社現代新書)のこの箇所。
「1991年、文部省(当時)が、大学設置基準の大綱化を実施したことで、従来型の一般教養科目が激減します。・・その結果、多くの大学で一般教養コースが解体され、専門科目が増える一方、教養科目は激減しました。
ところが、これ以降、大学卒業生を受け入れる企業の側から、『専門知識は持っていても、一般常識に欠ける学生が増えた』との不満が出るようになります。これにオウム真理教事件が追い打ちをかけました。常識で考えてありえない奇妙な教えを信じる学生が続出。
・・東工大の卒業生にも関与した人物がいます。これをきっかけに、やはり一般教養必要だ、ということになったのです。・・どうも日本の教育は試行錯誤が多すぎます。・・実は東工大には一般教養を重視するという伝統があります。・・・」(p45~47)
ここでは、池上氏が東工大で教えるキッカケから話がはじまっていて、その大学をふまえて語られております。
さて、「竹山道雄と昭和の時代」の第18章です。
そこに、
「教養学部という名称は旧制高等学校の教養主義とは切っても切れない観念である。」(p447)とあります。うん。一般教養とは違う『教養学部』を、ご自身を通じて語っておられます。
「竹山道雄と一番親しかった人々は、手元に残された手紙類を整理してみると、旧制一高の最後の生徒で新制東大の駒場に新設された後期課程へ進んだ面々である。一高で一年を過ごし、その伝統的な教養主義を奉じる気概ある若者が、授業内容は一高よりもはるかに上質である教養学部教養学科で鍛えられたということは稀なことであったのだ。・・・そしてその間に日本の軍部、ヒトラーのドイツ、共産主義のロシア、毛沢東の中国を批判してぶれない竹山道雄を身近で見てきたのである。それでいながら私たちは『時流に反して』意見を述べるその人が日本言論史の中で占めるべき位置をきちんと世間に説き明かさずに今日にいたってしまった。遅きに失したかとあやぶまれるが、しかし書かねばならない。そこには世間が一旦は忘れてもなお後世に残るなにかがあるとひそかに信じている。」(p461)