産経新聞2月2日の「正論」欄は
竹内洋氏が書いておりました。
題して「阿部次郎、高貴なる落魄の精神」。
そこに安倍能成氏について触れられております。
その文の最後の箇所を引用。
「ところで昭和34年10月の『朝日新聞』に
能成が(阿部)次郎の追悼文を書いている。
次郎の才能や功績を揚言しながらも、
我が強く自己中心的な性格とか、
学内行政にも色気をもっていたが、
人望がなかったなどと書いている。
この追悼文には次郎の遺族を怒らせた
いわくがある。
次郎がこれを読んだとしたらどうだろうか。
激高などせず、ただ苦笑したように思える。
次郎存命の時から、能成は誰にでも
率直な物言いをしていたが、そんな能成を
『善良なる野人』と日記に書いていたからである。
次郎の振る舞いには高貴なる落魄(不遇)という
不敗の精神を思い起こさせる。」
これを読んだら、どう読んでも、
竹内洋氏は阿部次郎氏を浮かび上がらせるのに、
安倍能成氏のエピソードを引用したように
読めてしまうなあ。
そんなことを思って
昨日は竹山道雄著作集をとりだす。
けれども昨日は寝てしまう(笑)。
今日は、きちんと引用。
竹山道雄著作集4「樅の木と薔薇」(福武書店)
に「安倍能成先生のこと」と題する文があります。
その文のはじまりは
「安倍さんはよほど特別な人で、
没後十何年たった今になっても懐かしい。
思い出さない日はほとんどないかもしれない。
去る者日々に近しである。」(p198)
せっかくなので、この箇所も
「昭和15年の秋に一高校長としてこられた・・・
挨拶がすんで懇談となった。先生は私の前に来て、
『あんたは船田君の奥さんの兄さんじゃそうですね』
と言われた。
船田享二というのは、京城大学でローマ法を受け持って
いたので、後になって芦田内閣だったかの無任所大臣となり、
一頃は三木武夫とならんで呼ばれていた。
私の妹がその妻だった。安倍さんがそれまで
京城の法文学部長をしていたときに同僚だった。
こう問われて私は答えた。『はい、そうです』。
そして言った。『先生は京城で船田とよく
おつき合いをなしましたか?』
すると安倍さんは答えた。
『いや、つき合わん。気が合わんからつき合わん。
あれは先天的な嘘つきじゃ』
私は驚いた。初めて会った者にむかって、
こういうことを言う人があるのだろうか。
・・・・
安倍さんのこの複雑さをわれわれが理解するまで
には、かなり暇がかかった。」(~p200)
残念ですが、中をはぶいて
最後を引用することに、
「監督能力が非常にあった。
晩年に大きな勲章をもらわれたとき、
門下生が三百人も集まってそれを祝ったが、
そのとき先生の挨拶が心をうごかすものだった。
『みなさんがすることを草葉の蔭から見ています・・・』。
このころはさすがにお年で、うす暗い電灯の下に
立っている姿には多年の労苦の疲労憔悴の翳が
さしていた。あの沈痛な俤が目の底にのこっている。
これを聞いてから、
私は今だにどこかから見ていられているような
気がしてならない。いま私は老いて疲れて、
もはや先生の期待にはそえずその監督に
堪えることはできなくなってしまった。
頭の中ではたえずさまざまな考えが立ちのぼるのだが、
それを形成するだけの気力がない。
ただ湧いてくる考えを唇に浮べて、
独言して呟くだけである。そして、
その独言は安倍さんにむかって話しかけている。
先生は私の言うことにも耳を傾けてくださったから・・・。
・・・・
安倍さんに接しなかった若い人々は、
あの直接人を呪縛する比類ない人間味を
知ることができない。
残念だけれども仕方がない。
あの心と心のつながりを伝える方法がないのである。」(p222~223)
ところで、
竹内洋氏の正論の文には
こんな箇所がありました。
「能成は誰にでも率直な物言いをしていた」。
「率直」といえば
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の
「あとがき」で平川氏はこう書いておりました。
「文章を書くとは選ぶことである。
選ぶからこそめりはりもつく、人生も選ぶことである。
『(東京の)有名な府立中学といえば一中、三中、
四中、五中、六中などであった』と私が第二章に書いたら、
慎重な人から『そんな書き方をすれば府立二中の関係者の
反感を買いますよ』と注意された。その種の気配りを
良しとお感じの方も多いであろう。しかし
そのような風潮に気兼ねするかぎり、
戦前の日本のエリート校であった旧制第一高等学校の
教授であった人を語ることは難しくなってしまうではないか。
世の一部の人の反感を過度におそれるならば、
当り障りのないことしか書けなくなってしまう。
それでは自縄自縛である。
私は『竹山道雄と昭和の時代』を率直にありしがままに
書きたいと思っていただけに、そのような注意を受けたことに
逆に驚き、不安を覚えたのであった。・・・」
うん。ここももうちょっと引用しないと、
意味が通じないかもしれないのですが、
ここまでといたします(笑)。
「率直」というキーワードで、
もう一冊引用したい本があります。
池永陽一著「学術の森の巨人たち」(熊本日日新聞社)。
そこに平川祐弘先生との出会いが語られた箇所でした。
「私が先生と初めてお会いしたのは、
(講談社)学術文庫で新渡戸稲造の『西洋の事情と思想』
の解説をお願いした時である。そもそも解説は、
読者のために当該の本の特徴や優れた点、
著者の学問や思想の位置付け、どう読めばいいか
などについて無難にまとめる方が多いのだが、
先生の解説を頂いて目を通したとき、
実は大いに驚いた。
それまで私は新渡戸稲造を、『太平洋の架け橋』
を説き、日米両国の新時代をひらいた優れた偉人の
一人だと思っていたのだが、先生はこの本の解説では
新渡戸の人物や思想を彼のプラスの面だけでなく、
こちらが予想もしないマイナスの面も遠慮なく書いておられ、
文庫の解説にしては極めて厳しい内容になっていたのだ。
今思えば先生の学問的姿勢からすれば当然のことだった
のかもしれないが、さすがにこの時は、
『この本の対象は、一般の読者ですから』と
無理にお願いして、新渡戸のプラスの面も
いくらか強調して書いていただいた。
この時まで平川先生のように率直に自分の考えを
表明される先生にはお会いしたことがなかったので、
驚くと同時に、これからは心して接しないと
大変だと思った。しかし、その時から
平川先生の著書を学術文庫に収録したら
面白くなるのではと思ったのだ。・・・」(p113~114)
うん。「率直」の系譜を思う。
たしか、柳田國男著「故郷七十年」の
はじまりの方に、
利根川に舟を浮かべて、
飲み水を汲みにいく場面がありました。
いくつかの川が合流してくると、
きれいな水が帯のように流れてゆく
箇所があるのだそうです。
そこをめざして水を汲みにゆく。
竹内洋氏が書いておりました。
題して「阿部次郎、高貴なる落魄の精神」。
そこに安倍能成氏について触れられております。
その文の最後の箇所を引用。
「ところで昭和34年10月の『朝日新聞』に
能成が(阿部)次郎の追悼文を書いている。
次郎の才能や功績を揚言しながらも、
我が強く自己中心的な性格とか、
学内行政にも色気をもっていたが、
人望がなかったなどと書いている。
この追悼文には次郎の遺族を怒らせた
いわくがある。
次郎がこれを読んだとしたらどうだろうか。
激高などせず、ただ苦笑したように思える。
次郎存命の時から、能成は誰にでも
率直な物言いをしていたが、そんな能成を
『善良なる野人』と日記に書いていたからである。
次郎の振る舞いには高貴なる落魄(不遇)という
不敗の精神を思い起こさせる。」
これを読んだら、どう読んでも、
竹内洋氏は阿部次郎氏を浮かび上がらせるのに、
安倍能成氏のエピソードを引用したように
読めてしまうなあ。
そんなことを思って
昨日は竹山道雄著作集をとりだす。
けれども昨日は寝てしまう(笑)。
今日は、きちんと引用。
竹山道雄著作集4「樅の木と薔薇」(福武書店)
に「安倍能成先生のこと」と題する文があります。
その文のはじまりは
「安倍さんはよほど特別な人で、
没後十何年たった今になっても懐かしい。
思い出さない日はほとんどないかもしれない。
去る者日々に近しである。」(p198)
せっかくなので、この箇所も
「昭和15年の秋に一高校長としてこられた・・・
挨拶がすんで懇談となった。先生は私の前に来て、
『あんたは船田君の奥さんの兄さんじゃそうですね』
と言われた。
船田享二というのは、京城大学でローマ法を受け持って
いたので、後になって芦田内閣だったかの無任所大臣となり、
一頃は三木武夫とならんで呼ばれていた。
私の妹がその妻だった。安倍さんがそれまで
京城の法文学部長をしていたときに同僚だった。
こう問われて私は答えた。『はい、そうです』。
そして言った。『先生は京城で船田とよく
おつき合いをなしましたか?』
すると安倍さんは答えた。
『いや、つき合わん。気が合わんからつき合わん。
あれは先天的な嘘つきじゃ』
私は驚いた。初めて会った者にむかって、
こういうことを言う人があるのだろうか。
・・・・
安倍さんのこの複雑さをわれわれが理解するまで
には、かなり暇がかかった。」(~p200)
残念ですが、中をはぶいて
最後を引用することに、
「監督能力が非常にあった。
晩年に大きな勲章をもらわれたとき、
門下生が三百人も集まってそれを祝ったが、
そのとき先生の挨拶が心をうごかすものだった。
『みなさんがすることを草葉の蔭から見ています・・・』。
このころはさすがにお年で、うす暗い電灯の下に
立っている姿には多年の労苦の疲労憔悴の翳が
さしていた。あの沈痛な俤が目の底にのこっている。
これを聞いてから、
私は今だにどこかから見ていられているような
気がしてならない。いま私は老いて疲れて、
もはや先生の期待にはそえずその監督に
堪えることはできなくなってしまった。
頭の中ではたえずさまざまな考えが立ちのぼるのだが、
それを形成するだけの気力がない。
ただ湧いてくる考えを唇に浮べて、
独言して呟くだけである。そして、
その独言は安倍さんにむかって話しかけている。
先生は私の言うことにも耳を傾けてくださったから・・・。
・・・・
安倍さんに接しなかった若い人々は、
あの直接人を呪縛する比類ない人間味を
知ることができない。
残念だけれども仕方がない。
あの心と心のつながりを伝える方法がないのである。」(p222~223)
ところで、
竹内洋氏の正論の文には
こんな箇所がありました。
「能成は誰にでも率直な物言いをしていた」。
「率直」といえば
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の
「あとがき」で平川氏はこう書いておりました。
「文章を書くとは選ぶことである。
選ぶからこそめりはりもつく、人生も選ぶことである。
『(東京の)有名な府立中学といえば一中、三中、
四中、五中、六中などであった』と私が第二章に書いたら、
慎重な人から『そんな書き方をすれば府立二中の関係者の
反感を買いますよ』と注意された。その種の気配りを
良しとお感じの方も多いであろう。しかし
そのような風潮に気兼ねするかぎり、
戦前の日本のエリート校であった旧制第一高等学校の
教授であった人を語ることは難しくなってしまうではないか。
世の一部の人の反感を過度におそれるならば、
当り障りのないことしか書けなくなってしまう。
それでは自縄自縛である。
私は『竹山道雄と昭和の時代』を率直にありしがままに
書きたいと思っていただけに、そのような注意を受けたことに
逆に驚き、不安を覚えたのであった。・・・」
うん。ここももうちょっと引用しないと、
意味が通じないかもしれないのですが、
ここまでといたします(笑)。
「率直」というキーワードで、
もう一冊引用したい本があります。
池永陽一著「学術の森の巨人たち」(熊本日日新聞社)。
そこに平川祐弘先生との出会いが語られた箇所でした。
「私が先生と初めてお会いしたのは、
(講談社)学術文庫で新渡戸稲造の『西洋の事情と思想』
の解説をお願いした時である。そもそも解説は、
読者のために当該の本の特徴や優れた点、
著者の学問や思想の位置付け、どう読めばいいか
などについて無難にまとめる方が多いのだが、
先生の解説を頂いて目を通したとき、
実は大いに驚いた。
それまで私は新渡戸稲造を、『太平洋の架け橋』
を説き、日米両国の新時代をひらいた優れた偉人の
一人だと思っていたのだが、先生はこの本の解説では
新渡戸の人物や思想を彼のプラスの面だけでなく、
こちらが予想もしないマイナスの面も遠慮なく書いておられ、
文庫の解説にしては極めて厳しい内容になっていたのだ。
今思えば先生の学問的姿勢からすれば当然のことだった
のかもしれないが、さすがにこの時は、
『この本の対象は、一般の読者ですから』と
無理にお願いして、新渡戸のプラスの面も
いくらか強調して書いていただいた。
この時まで平川先生のように率直に自分の考えを
表明される先生にはお会いしたことがなかったので、
驚くと同時に、これからは心して接しないと
大変だと思った。しかし、その時から
平川先生の著書を学術文庫に収録したら
面白くなるのではと思ったのだ。・・・」(p113~114)
うん。「率直」の系譜を思う。
たしか、柳田國男著「故郷七十年」の
はじまりの方に、
利根川に舟を浮かべて、
飲み水を汲みにいく場面がありました。
いくつかの川が合流してくると、
きれいな水が帯のように流れてゆく
箇所があるのだそうです。
そこをめざして水を汲みにゆく。