和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

東寺の御影堂の前で。

2020-07-01 | 京都
グレゴリ青山の「深ぼり京都さんぽ」(集英社インターナショナル)。
この漫画は、たのしくて、何度もひらきたくなります(笑)。

本のはじまりは、東寺からでした。
「今日は京女の友人田中貴子さんと
毎月21日に開かれる東寺の『弘法市』にやってきた」。
と東寺で待ち合わせて、はじまります。

「古寺巡礼京都①東寺」(淡交社・昭和51年)。
ここに、司馬遼太郎の文がありました。
題して、「歴史の充満する境域」。
写真は、浅野喜市。

司馬さんの文の最後には、こうありました。

「私は毎年、暮から正月にかけて京都のホテルですごす
習慣をもっている。訪ねてくるひとに京都のどこかの寺を
そのときの思いつきのままに案内するのだが、
たいてい電話での約束のときに、
 ―――東寺の御影堂の前で待ちましょう。
ということにしている。
京の寺を歩くには、やはり平安京の最古の遺構である
この境内を出発点とするのがふさわしく、また
京都御所などよりもはるかに古い形式の住宅建築である
御影堂を見、その前に立ち、しかるのちに他の場所に移って
ゆくのが、なんとなく京都への礼儀のような気がして、
そういうぐあいに自分をなじませてしまっている。
空海に対する私の中の何事かも、こういう
御影堂へのなじみと無縁でないかもしれない。(昭和51年9月)」

はい。この文はまた
「司馬遼太郎が考えたこと 8」の最後に掲載されておりました。
この文のなかで司馬さんは、こうも書いておりました。

「私は戦後、兵隊から帰ると新聞記者になり、
京都支局で宗教を満六年担当した。
当時、京都のたいていの社寺の神職や僧たちを
知っているつもりでいたが、ただ東寺の僧ばかりは知らない。

東寺の境内には何度足を運んだかわからないが、
一人の僧も知らず、また『空海の風景』を書くにあたっても
何度か足を運んだ。ゆくごとに堂搭を見たり、仏像を仰いだり
するばかりで、この伽藍に住む僧にはついに会っていない。
わがことながら説明もつかず、奇妙というほかない。

真言宗東寺の密教は、天台宗叡山の密教が台蜜と
いわれるのに対し、東蜜といわれた。台蜜と東蜜は、
平安期以後、天皇家の宗旨といってよく、宮廷で病人が出たり、
お産があったり、その他異例のことがおこるとかならず
この両派の僧が加持祈祷をした。最澄の法統はともかく、
さまざまな思想的展開をおこなったが、
東寺における空海の法統のひとびとというのは、
ただそれだけで千年ちかくも終始したかと思うと、
まことに複雑な可笑(おかし)味を感じたりする。

明治後は、
皇室は神道のみになり、密教から離れた。東寺はそれ以後、
精神の昂揚も沸騰も見ることなく、こんにちに至っている。
むろんそれがよくないというわけではない。
僧というのは伽藍を保全し、境内を清めているだけで十分に多忙で、
当人自身も精神がそれで充足するものだということを私は知っている。
妙に娑婆(しゃば)っぽいやり手の僧が出るよりも、
こういう僧伽のふんいきはわれわれ俗人にとって
はるかに清らかさを感じさせる。」(文庫本p461~462)

はい。まだまだ司馬さんの文はつづくのですが、
わたしはこれだけで満腹。

はい。じつは(笑)。この「古寺巡礼京都」第一期全20巻を
つい最近古本で購入しました。
20冊揃いで3000円+送料1200円=4200円。
つまり、一冊が210円。
はい。昭和51年の新刊定価は一冊2800円とあります。
大正3年京都市生まれの浅野喜市。その東寺の写真。
見れてよかった(笑)。




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