司馬遼太郎と安岡章太郎の対談を
本棚から取り出してくる。うん。読み直したかった。
安岡章太郎が『流離譚』を書いた直後の対談です。
こうはじまります。
司馬】 『流離譚』はいい小説でした。ああいうのは、
何十年に一作というようなものですね。
安岡】 おそれいります。・・・・・・・
後半には、こんな箇所。
司馬】 ・・・いま一つは、さっき郷士の役割ね。よく言われるんだけど、
薩摩郷士は顔を上へ向けている、土佐郷士は下に向けている、
つまり百姓のために働くんだ、という意識がある。
薩摩郷士は、お家とか城下士がどういうふうに動くか見る。
『流離譚』に出てくる風土というのは、荒っぽく言えばそういうことになる。
うん。そういえば、門田隆将さんは高知出身でした。門田さんの
ジャーナリストの資質は、土佐の風土と関係がありそうですね。
前後があちこちしますが、司馬さんはこうも指摘します。
司馬】 ・・・・よくわからなかったけど、だんだんわかってきたのは、
簡単に言うと土佐には曖昧言葉がないということ。
イエスかノー。これは、土佐人の明晰性と関係があるね。
シンガポールの山下奉文、バーシバルに『イエスかノーか』と言ったでしょう。
あれは同時代でも評判悪かった。旅順開城のとき乃木さんはステッセルに
そんな態度はとらなかったもんだとか非難されたけど、あれは一つは、
土佐ーー山下奉文は土佐人ーーはまず型の文化に敏感でない。
いま一つは土佐弁の特徴なんだ。イエスかノーしかない。
土佐弁がそうであるように、土佐の人間は進退までが明晰すぎるんだよ。
そのために幕末の騒乱でずいぶん死ぬ。・・・・
イエス・ノーの中間発想がないからだ。・・・・・
ぼくにはわからない。わからないけれども、日本では非常に不思議なことだね。
・・・・言語文化というものが乏しいのかといえば、違うんだね。
土佐には昔から名文家が多い。科学者では寺田寅彦がいますね。
末裔には安岡章太郎がいる。とにかく曖昧な文章じゃない。
もっとも安岡の場合は非常にデリケートな文章なんだが・・・。
安岡】 ロジックはありますよ(笑)。
司馬】 ロジックの問題を言ってるんじゃないんだ。
土佐風の明晰さがあるということ。それはね、
近代社会に入るのに、非常に便利がよかった。
憲法の条文一つでも、明晰ですからね。
・・けれども、山内家というのは非常に非文化的な家で、
ただ関ヶ原の勝ちに乗って(土佐へ)きただけだから、
京都文化が入ってない。たとえば土佐はお正月でもお節料理はしない。
安岡】 そう。
司馬】 ・・・・地生えの土佐人いうのはお節料理をしない。
近頃はそうでもなくなったけど、三世代前ぐらいの昔は
お客が来てもお茶を出さなかった・・・・・
お客が来ればお茶を出すのはよその県のことだ。
飲みたくなくてもお茶を出す、これはマナーでしょう。
そういうマナーは、隣りの徳島県にも愛媛県もある。
ところが土佐はない。それは土佐の大きな特徴だし、
幕末に志士を出し、明治になって自由民権の志士を
出すという風土は他県はない。土佐だから出る。
対談の最後の方には、岩崎弥太郎を語っていました。
司馬】 ・・・・・若いころの岩崎が何かのことで人にくっついて
江戸に行く。江戸いうところは、田舎から出て来たら、
今なら青山か六本木に行ったりするが、
当時は桜田門の近くで大名行列を見る。
あれは加賀様、こちらは井伊様と見物する。
そのときに、岩崎はこんな馬鹿なことをやってる
江戸はいずれ滅びると考えた。つまり、
さっき言った京都文化が土佐には薄くしか来なかったということと、
地下浪人という場所から見ると、江戸城の周辺という、
マナーだけでできあがってる権威ある風土を見せられたときに、
それにいかれてしまうか、逆に反撥するか、どっちかでしょう。
岩﨑というやつは、生半可な商人ではないですね。・・・・・・
はい。この対談を、はじめて読んだ際に印象に残った箇所が
ありました。せっかくですから、そちらも引用しておくことに。
それは対談の最初の方にありました。
司馬】 ・・・有名な話だけれど、勝海舟がはじめ
洋学の先生のところに行ったら、きみは江戸っ子だから
こういう馬鹿な暗記ものは無理だ、これは根気でやらなきゃ
しょうがない、田舎のやつがいいんだと言われる。
まあそう言わないで教えてくれと言うんですね。・・・