山崎正和について、何か本棚にあるかなあと見てみる。
司馬遼太郎が亡くなって特集が各雑誌に掲載された際の、
そのひとつに「司馬遼太郎の跫音(あしおと)」(中央公論)と
いう追悼特集があったのでした。その雑誌のなかに
「再録・司馬遼太郎名対談選」とあり、その再録のひとつに
山崎正和氏との対談『日本人と京都』があったのでした。
はじまりは司馬さんでした。
司馬】 ちかごろ嵯峨野について書く必要がありまして、
あれこれ調べていますと、明治の東京の知識人は京都に対し、
拍子ぬけするほど関心がなかったようですね。・・・・
こうして、夏目漱石と正岡子規のエピソードを引用したあとに
司馬】 ・・・ともあれ、明治末期に京都大学のできた意味は大きいですね。
東京をはね飛ばされた学者たちがやって来て、初めて京都を認識する。
また、国家事業ですから、何千人もの給与生活者が集まり、その給料が
町に落ちて、経済的にも京都を活気づける。そこからでしょう、
復興し始めるのは。・・・・・
あとは、飛び飛びに引用してゆきます。
山崎】 私の祖母は生粋の京都人でしたが、思い返してみますと、
彼女の話題には、宇治の平等院も苔寺も竜安寺も、
およそ代表的な観光地はでてきたことがありません。
また、信仰していたお寺といえば、知恩院は別格として、
あとはどのガイドにも載っていない小さなお寺ばかりです。
司馬】 そうでしょうなあ。
この対談は、いろいろな京都が語られていて、
目移りするのですが・・・・
大阪と京都ということで引用すると、
山崎】 ただ、大阪の人は京都を支援することがある。・・・・
ところが、京都人は一向に大阪に関心がない。・・・・・
司馬】 まったく・・・(笑)。京都で飲んでいて、
こちらが小説家だとわかると、『杉並どすか』(笑)。
『いや、大阪や』というと、もう馬鹿にして(笑)・・・。
神戸でもそうですがね。『東大阪や』なんていったら、
他の大阪人までが優越感を持つ(笑)。
しかし、そういう東大阪の居住者だからこそ
よけいに京都のよさがわかる面もあるんです。・・・・
司馬】 自分の考えをある時間まとめて述べるのは
明治の東京から興ったものですが、今でも土俗というか方言は、
やりとりが基本ですね。『司馬さん有難う』『何がですか』
『この間ああしてこうして』と続く。京都弁でも大阪弁でも、
漫才のようなやりとりをして初めて言語的雰囲気が生まれます。
もし東京の人が何かの交渉で京都に来て、長々と
基調方針演説をしたとすると、まず誰も聞いていませんな。
『何か御仕着せのことをいうてはる』という感じです(笑)。
あとの座談になってからものをはっきりさせようと思っている。
山崎】 座談会という形式を思いついたのは菊池寛だそうですが、
たしかにあの人は京都大学で学んでいる。(笑)
山崎】 しまいには内容がなくてもいいことになる(笑)。
こういう笑い話があるでしょう。京都では町内を歩いていると
『どちらへ』と声を掛けられる。
司馬】 あれは必ず聞きますな。
山崎】 京都人なら、近所だろうとニューヨークだろうと、
『ちょっとそこまで』と応える。それでいいんです。
ところが江戸っ子は『よけいなお世話だい』と怒る。(笑)
司馬】 『南座の顔見世に行きますのや』などといったら、
もう野暮になってしまう。やりとりの雰囲気だけで十分なんですね。
司馬】 ・・・・京都での記者生活を終える日に、
京都を足もとから観察してみようと思って祇園に出掛けたんです。
ちょっと歩いて気が付いたんですが、あそこにはゴミ箱がない。
昔はどこにもよくあったでしょう、モルタール塗りの・・・・。
山崎】 ええ、東条英機が開けて歩いたやつ。
司馬】 祇園の人に尋ねたら、
『そんなきたないもんが大阪にはおすのか』と(笑)。
知ってるくせにね。そこで祇園を一巡してみたら、
二十軒に一軒ぐらいは玄関先にありました。
ただ、それは並のものじゃなくて、お金のかかった
見事なゴミ箱なんです。他人様を不愉快にしちゃいけない
という配慮でしょう。そういう市民意識がここにはある
と思いました。・・・・・・
うん。この対談は、また読み直してみたくなります。
(初出 『新潮45』昭和60年4月号)