淡交社の「古寺巡礼京都⑫」は南禅寺。
杉森久英(明治45年石川県生れ)氏の文が10頁。
そこから、摘まんで引用。
「京童はむかしから皮肉な人間観察家がそろっていて、
信仰と求道の場である寺院に、それぞれ現世的性格に
応じた綽名をつけた。妙心寺の算盤面(づら)、
大徳寺の茶人面、東福寺の伽藍面等々である。そして、
彼等の判定によると、南禅寺は武家面ということになるらしい。
(ある人は役人面というと、私に教えてくれた。・・・・
封建時代、武士は同時に役人だったから。)いわれてみると、
この寺と役人、もしくは武家とのつながりは、
なみなみならぬものがあったようだ。」
はじまりは、楼門でした。
「この山門がまっすぐ御所の方を向いているということは、
なにか意味ありげである。・・・・・」
はい、興味深い内容なのですが、
このくらいで切り上げて、気になる疏水へとゆきます。
「この寺には・・・門を入って、まっすぐ奥へむかうと、
右手の木立の間に、赤煉瓦を積んだ巨大な城壁のような
ものがみえる。下はアーチになっていて、通り抜けられるが、
上には溝が通っていて、きれいな水が流れている。
いわゆる疏水で、琵琶湖の水を京都へ導くため、
明治21年ごろ築造されたのだそうだ・・・・・
もちろん寺では反対を表明したが・・・・・・・
この対立は今日の高速道路や高層ビルの建設をめぐる
企業や体制側と住民側との争いに似ているが、今日にくらべて
政府権力の格段に強かった明治のことなので、
寺側の抵抗はほとんど功を奏せず、簡単に押し切られて、
疏水は建設された。それが今日まで形をとどめて、
南禅寺風物のひとつになっている。
建設当時は、煉瓦の赤い色もなまなましく、
継ぎ目の漆喰(しっくい)もあざやかで、
おそらく周囲のやわらかな自然と反撥しあって、
異様な空気を醸し出したのだろうが、百年の歳月は
煉瓦の色を褪せさせ、漆喰を風化させ、全体の色調をくすんだ
落着きあるもにして、周囲の木立の中へ融け込ませてしまった。
もっとも、今日南禅寺を訪れる人のほとんどが、
この古代ローマ風の水道を見ても、べつに奇異に感じないのは、
ひとつには、われわれがあまりに多く洋風のものに取り巻かれて
いて、いちいち目くじらを立てていられないからだろう。
京都にしろ奈良にしろ、コンクリートや煉瓦の建造物はあまりにも多く、
・・・・木立ちの中にわずかに見え隠れする灰色の廃墟のような建造物など、
まったく目障りにならないどころか、それなりにふしぎな安定感さえ
漂わせているのである。・・・・」
はい。杉森氏の文は、このテーマを細かく分かりやすく
書き進められておられます。そこからの摘まみ食いの引用で
もうわたしは満腹。
それにしても、京都のビル群が建ちならんだ、
その百年後に、つい思いを馳せてしまいます。