和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

山崎正和の京都。

2020-07-20 | 京都
山崎正和氏は「洛北、洛東に生まれ育った」とあります。
一時「少年期の数年を大陸で過した」ともあります。
その山崎正和氏の京都。

「・・銀閣寺の門前町で産湯を使ひ、長じては、高校から大学院までを
吉田界隈で暮らしたのだから、私はまづ、一応の京都人といふことに
なるのだろう。・・」

こうはじまるのは、「洛南遊行」と題する文です。
「昭和27年の1年間を・・・宇治分校」へ通ったと記したあとに、

「洛北、洛東に生まれ育った私にとって、国鉄京都駅から南は、
それまで訪れる機会も必要もない、異郷だったのである。

もっとも、京都はそれだけでひとつの完結した『世界』であるから、
京都人にとっては、もともとこの町はいくつもの異郷に分かれて
ゐるといへる。私の場合、京都とはせいぜい、東山の山裾から
西は烏丸通りまで、北は下鴨一円から南は七条通りにいたる、
細長い長方形のなかに限られてゐた。・・・・・・・・
中京の商家も、西陣の織物街も、東西本願寺も、祇園の色街も、
私の生活には縁のない、何やら異様な風俗の別天地であった。

そして、おそらくこれは程度の差こそあっても、大部分の京都定住者が、
お互ひのあひだで感じてゐる実感であるやうに思はれてならない。
西陣の工人にとっては、京都大学近辺は不可解な異邦であろうし、
祇園の芸妓にとっては、上賀茂の農村はもの珍しい別世界にちがひない。
伝統的な町には、たぶん伝統的な空間感覚が残るのであって、
典型的な京都人なら、たとひニューヨークに移住することはあっても、
京都の内部を転々と移り住むことは、あまり考へられない。」

はい。こうして京都の歴史を紐解いてゆかれるのですが、
そこは、カットして、あと一か所引用。


「気候風土の点でも、また、人びとの気風の点でも、京都は今日でも、
北陸、山陰の末端としての性格を残してゐる。万葉時代から、
京都文化はまづ日本海側に向かって伸びてをり、室町時代まで、
京都を落ちのびた敗軍の兵は、琵琶湖西岸を通って北陸へ抜ける
ものが少なくなかった。面白いことに、京都の代表的な食用魚は、
鯖、鰈、鱈の塩干物であるが、かうした海産物すら、
瀬戸内海や太平洋からではなく、日本海から山越えで
運ばれて来たことは注目に値ひしよう。

京、大阪の距離は、俗に十六里といはれるが、江戸時代においても、
その間の心理的な距離は大きく、文化的には、ほとんど京都と江戸の
へだたりに匹敵するものとさへ見なされてゐる。
当時の歌舞伎役者の心得書きを読んでも、江戸、京、大阪は均等に
質の違ふ三都であり、観客の気風も、その間で同程度に違ってゐる
と感じられてゐたことがわかる。明治以後の百年を見ても、
新興の神戸と大阪間がたちまち発展して、芦屋、西宮の住宅街を
生んだのにたいして、京阪間の茨木、高槻などが成長を見せたのは、
やうやく第二次世界大戦後のことだったのである。」


以上は「山崎正和著作集④」(中央公論社・昭和57年)から
引用しました。この④に「室町記」も入っておりました。
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