和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

都踊りはヨイヤサアー。

2020-07-22 | 京都
清水誠規著「京洛物語」(昭和56年丸善京都支店出版サービス)。
はい。こんな古本を買いました。あとがきは娘さんなので亡くなって
出版にこぎつけたような感じです。

そのあとがきに「父が商家の跡取りでさえなかったならば・・・・
今も惜しまれるけれど、文を書く愉しみが愉しみであるためには、
これでよかったのかも知れない。・・・」とあります。

うん。こういう本に出会えるのですから、
古本は愉しみです(笑)。

「人の世はまことそらごとまざる故
  史(ふみ)見るほどに面白きかな  誠規 」

こうあってから、次の頁が目次でした。
ここには、最初の文『都踊り』から引用します。
ちなみに、『京都』誌所載とあるので、
雑誌に掲載されていた文をまとめて本にしたようです。
『都踊り』は昭和45年4月号所載とあります。

「・・・・・都踊りの歴史は古い。
明治維新で東京に遷都となって、一千年来の都が廃され、
京都は一ぺんに虚脱状態に陥った。主上や公卿、政府諸機関が
全部、東京に移ったので、それに従って人口も七分の一に減じ、
火の消えたような寂れ方だった。
『このままでは京都は田舎になる』と京の人達は誰もが長嘆息した。
ちょうどこの時、東京政府から明治6年にフランスのパリで開かれる
万国博に、古くから種々な古美術の在る京都からも出品せよとの通達が来た。」

はい。めずらしいでしょうから、
詳しく引用してゆきます(笑)。

「時の京都府知事は長谷信篤で、この人は公卿出身であるが、
その下に大参事として槇村正直という敏腕な行政官が控えていた。
この人は後、知事となって新京極を開くなど、京都の発展のために、
大いに進歩的な政策を示した人である。彼は早速当時の京都の富豪で、
維新の際、私財を献納した功労者でもあった三井八郎右衛門・小野善助・
熊谷直孝(鳩居堂主人)を集めて相談の上、出品物を集めることにした。

何しろ京は古い王城の地である・・・・そこで一策を考えて、
京都にもまだこれだけのものが残っているぞと人心を鼓舞激励する意味
にも、これらをパリに出品する前に一般に公開することを思い立ち、
明治4年の秋、西本願寺の白書院で展観した。・・・・・・・

予想外の利益を挙げることができた。これに当時者達はすっかり
気をよくし、パリ博の了ったあと、翌年、明治5年3月7日から5月30日迄、
これらの集った品に、さらにガラス細工、外国貨幣などを加え、計485点
を西本願寺、建仁寺、知恩院の三ヶ所で公開出品することにした。
これが日本で初めての『博覧会』である。

しかし何分にも今度は会期が二ヶ月にもわたり、京都だけでなく、
日本全国から来てもらわねばならぬので、この間、観覧者の足を
引きとめるには、単に品物を見せるだけでは興がなく・・・・・・・

これまで武士や富豪などの特権階級だけの占有物で、
普通庶民にはなかなか見られない祇園・宮川町・下河原の
美妓連の中から、選りすぐった名手の踊りを見せることとなった。
今でいうアトラクションである。

祇園新橋松の家席で三代井上八千代(片山春子)が踊り33人
地方唄11人・噺子10人・計53人を率いて、初めての試みである
京舞の集団舞踊をやることになった。さあー大変、京都の市民は喜んだ。
『祇園の芸者の総上げや』と肝心の博覧会はそってのけで、わあーと
ばかりに押し寄せた。これが『第一回の都踊り』となり、
以後年々隆盛になっていった。
  ・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・

なお都踊りの基調である京舞は・・・・
近衛家の所作・行儀・壬生狂言の所作・能楽の良いところを採り入れて、
舞の振付を編み出したもので、動きの少ない、静かな、それだけ上品な
舞として定評があるが、この都踊りに初めて伊勢音頭の形式を採り入れ、
地方(ぢかた)を正面の後列に、噺方をその前にならべ、左右の花道から
踊り子が出てくるという華麗な舞台を現出した。

当時の歌詞の題名は『都踊十二調』で
作詞は粋人槇村大参事と伝えられる。
また『都踊り』の名称はこの片山春子が命名したものである。
『都踊りはヨイヤサアー』今日も華かなその歌声が聞こえてくる。」


はい。古本を読む愉しみは、こんな文を出版サービスセンターから
出されていることで、京都の愉しみは、ここにもありました。




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