はじめに、高田敏子の詩「海」を引用。
少年が沖にむかって呼んだ
『おーい』
まわりの子どもたちも
つぎつぎに呼んだ
『おーい』『おーい』
そして
おとなも『おーい』と呼んだ
子どもたちは それだけで
とてもたのしそうだった
けれど おとなは
いつまでもじっと待っていた
海が
何かをこたえてくれるかのように
( 高田敏子「月曜日の詩集」から )
はい。この詩に登場する「おとな」は何歳ぐらいでしょうか?
わたしは、65歳をすぎてから、その答えらしい言葉を読みました。
中公文庫「日本史のしくみ」(昭和51年)をめくっていると、
その山崎正和氏の文に「日本島国の成立」という3頁ほどの文が
ありました。そのはじまりは
「日本は島国だが、日本人はどうやら本来的に海洋民族とは
呼べないように思われる。・・・・・・・日本はいくたびか完全な
鎖国を経験する。明治以降は海軍国になることが夢見られたが、
国民の心が本当に海に開かれたかどうかは疑わしい。
『われは海の子・・・』などと歌っていても、そのなかでひとびとが
実際に覚えているのは海岸の風景ばかりである。
『椰子の実』の歌にせよ、『出船』の歌にせよ、海はむしろ、
無限の外界を象徴する不可知の世界にすぎなかった。
歌というものは正直なものであって、日本人は本質的に、
海洋民族ならぬ海岸民族だったといえそうである。
・・・・」(p22~23)
はい。これが短文のはじまりの箇所でした。
もどって、高田敏子の詩について、
その「月曜日の詩集」に、村野四郎氏が序を書いておりました。
その序のなかで、高田敏子の詩「布良海岸」をとりあげながら、
こう指摘されておりました。
「この詩集のすべての作品に通ずる精神的な主題は何かといえば、
それは『生活の中の知恵』です。それは、やさしい母の愛と美しい
詩人の心だけが人間に教えてくれる知恵なのです。
この知恵の本質は、現代を没落と崩壊とから救うことのできる
唯一のものですが、それが、私たちの生活のどんなに些細な場所にも、
どのように息づいているかを、この詩集ぐらい、やさしく温かく
教えてくれるものはないでしょう。・・・・」
うん。こういう序文を書く村野四郎さんの詩も
さいごに、引用したくなります。
花を持った人 村野四郎
くらい鉄の塀が
何処までもつづいていたが
ひとところ狭い空隙(すきま)があいていた
そこから 誰か
出て行ったやつがあるらしい
そのあたりに
たくさん花がこぼれている