水墨画というのでしょうか、
墨絵というのは、どうしても
絵と私との間に、うすい膜がかかっているような
ボンヤリした印象しかありませんでした。ですから、
京都で襖絵の前を通っても、素通りしていただろうなあ。
それが墨絵を見る糸口がどうやら出来ました(笑)。
海北友松(かいほうゆうしょう)から入れば理解できる。
うん。そんな水先案内人と出会いました。
ゴッホを理解するのに、ゴッホの手紙が参考になるように、
墨絵を理解するのにも、案内人の言葉が必要でした(笑)。
秦恒平氏にも、案内人がおりました。
「私の場合、そんな『学問』の極く手はじめに、
よく土居次義先生に連れていただいて建仁寺内を
いろいろ観てまわった。・・・・・奥床しげな寺の内へ
・・・ひっそりと隠れいる沢山の佳い障壁画を、
土居先生は我々不勉強な大学生に実に丹念に
紹介し解説し、鑑賞のための道をつけて下さった。
そのお蔭で、私が建仁寺を書くといえば海北友松だろう、
長谷川等伯や俵屋宗達の話だろうと思う読者もあった
かもしれないほど、私はそんな16,7世紀頃の日本の絵が
好きになってしまい、臆面なく熟さない感想もこの数年間に
沢山書いてきた。」(p76「古寺巡礼京都⑥」建仁寺)
はい。秦恒平氏の本は、もっていないので、ここまで。
バトンを竹山道雄氏つなげてみたいと思います。
うん。絵の紹介はやめて、竹山道雄氏による
海北友松を紹介した箇所のみを引用。
「海北友松は近江源氏の武将の家に生まれ、
少年時代から東福寺に入って禅の修行をし、
絵を元信に学び、梁楷を好んだ。時は戦国の世であり、
・・・このころの武人の生活がいかに一瞬の油断も隙も
ならないものであったかを、われわれはいま西本願寺に
ある飛雲閣に見ることができるし、またもっと時代は下るが
二条陣屋でも見ることができる。こういうところではつねに
襲われる用心をして、家屋を隅から隅まで防衛のために
細心の工夫をしている。そして、この危険な生命を、豪華な
金碧画で飾ったり、幽玄な能を舞ってなぐさめたりした。
・・・・・
友松が41歳のとき、天正元年に、織田信長が浅井長政を
小谷城に滅ぼした。このときに、友松の父海北善右衛門綱親も
自刃したが、友松は東福寺にいたので難をまぬかれた。
このような戦乱の世に生きて、友松は武士であることを願い、
武将に親しくして、自分の芸術にはそれほど重きをおかなかった。
子の友雪が父の肖像を描き、その賛に
『敢てその芸を専らにすることを欲せず、志は武道に在り、
努めて弓馬を学んだ』とあるそうである。
親友の斎藤利三が、山崎の合戦で捕らえられて
粟田口で磔にされたときには、友松は槍をふるって衛兵を追って、
利三の屍をうばって真如堂に葬った。こういう人の絵に
みなぎっている命がけの気合は、このころの時代精神だった。
・・・」(p140・竹山道雄著「京都の一級品」新潮社・昭和40年)
はい。竹山道雄氏は、この文に
「・・描いたのは海北友松である。いまはみな軸にして、
京都博物館にある。博物館だからちょうど展覧の際に
行きあわなければ見ることができないが・・・」(p139)
ともありました。
うん。出かけても見ることができないのならば、
美術集の本でもいいやと思う私がいます(笑)。
講談社の「水墨画の巨匠④」(1994年)が友松でした。
はい。古本で京都博物館開館120周年記念「海北友松」
の持ち重りするカタログ冊子とともに、買いました。
ちなみに、「水墨画の巨匠④」の最後の図版解説に
建仁寺の襖を床と天井とをふくめて取った写真が
掲載されておりました。その竹林七賢図が、忘れられません。
建仁寺の襖絵としては、もう見ることができないからかも
しれないのですが、その部屋のたたずまいと
襖絵とのバランスの中での絵の構図が鮮やかです(p99)。
建仁寺とともに、呼吸しているような襖絵なのでした。
これももう、写真でしか見ることができないのなら、
安い古本の美術書も捨てたものじゃありません。