とりあえず、後ろから読んだり、最初から読んだりで、
福間良明著「司馬遼太郎の時代」(中公新書)を読む。
大切なことが散りばめられていそうなのですが、
読みおえてしまうとすっかり忘れるのが私の常。
それでも、司馬遼太郎の『余談ながら』を
取り上げた指摘箇所は、忘れたくないなあ。
忘れないためにここは引用しておくことに。
新書から、そこを引用するまえに、ちょこっと、
内藤湖南を解説した、桑原武夫の文からの引用。
「 『私は日本歴史の専攻者でありませんので、
素人でありますから、私の話は余興だと
思っていただきたい』
などというマクラを湖南はよく使うが、
それは自信のほどを示す逆説的レトリックなのである。
第二次大戦前に、日本文化について
この『日本文化史研究』ほどの鋭い
洞察を示した作品はないといっても
過言ではないであろう。 」
( p177~178 講談社学術文庫「日本文化研究㊦」の桑原武夫解説 )
はい。内藤湖南の『私の話は余興だと思っていただきたい』
という言葉を引用したあとに、司馬さんの『余談ながら』への
この新書が、指摘して引用している部分をもってくることに。
では、新書のp174~175から、抜き出すことに。
「司馬の余談から掻き立てられる知的関心について、
作家の田辺聖子は次のように述べている。
私たちは司馬さんの小説に頻出する
『この時期』とか『余談ながら』という
自作自注をどんなにたのしみ、期待して読んだことでしょう。
自注がそのまま小説の血肉となり、
主人公の独白や思惑とひびき合い、
小説の魅力をいっそうたかめました。
もはや従来の時代小説、歴史小説の枠をこえ、
小説と評論の垣根もとりはずされていました。
自注によって小説は奔馬のように躍動しました。
余談という名の『自作自注』を通して、
小説のなかに『評論』が読み込まれ、
そこに作品の魅力が見出されている。
作家の有吉佐和子も、余談には直接言及しないものの、
『坂の上の雲』について、
『ああ、そうだったのかと教えられることが余りにも多かったので、
小説を読んでいるという気がしなかった』
『司馬さんの書かれるものは日本外史とでも呼ぶべき種類の
史書ではあるまいか。膨大な材料を明晰に分類し判断し、
しばしばユーモアを湛えて平明に綴っていく』と評していた。
司馬作品のなかに見出されたのは、
『小説』というより、『史書』という名の教養だった。 」
はい。これが第3章「歴史ブームと大衆教養主義」にありました。
このあとが、面白くなるのですが、私には手に負えないここまで。