和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「この時期」とか「余談ながら」。

2022-12-15 | 短文紹介
とりあえず、後ろから読んだり、最初から読んだりで、
福間良明著「司馬遼太郎の時代」(中公新書)を読む。

大切なことが散りばめられていそうなのですが、
読みおえてしまうとすっかり忘れるのが私の常。

それでも、司馬遼太郎の『余談ながら』を
取り上げた指摘箇所は、忘れたくないなあ。
忘れないためにここは引用しておくことに。

新書から、そこを引用するまえに、ちょこっと、
内藤湖南を解説した、桑原武夫の文からの引用。

「 『私は日本歴史の専攻者でありませんので、
   素人でありますから、私の話は余興だと
   思っていただきたい』
 
   などというマクラを湖南はよく使うが、
   それは自信のほどを示す逆説的レトリックなのである。

   第二次大戦前に、日本文化について
   この『日本文化史研究』ほどの鋭い
   洞察を示した作品はないといっても
   過言ではないであろう。  」

( p177~178 講談社学術文庫「日本文化研究㊦」の桑原武夫解説 )

はい。内藤湖南の『私の話は余興だと思っていただきたい』
という言葉を引用したあとに、司馬さんの『余談ながら』への
この新書が、指摘して引用している部分をもってくることに。

では、新書のp174~175から、抜き出すことに。

「司馬の余談から掻き立てられる知的関心について、
 作家の田辺聖子は次のように述べている。


  私たちは司馬さんの小説に頻出する
 『この時期』とか『余談ながら』という
  自作自注をどんなにたのしみ、期待して読んだことでしょう。

  自注がそのまま小説の血肉となり、
  主人公の独白や思惑とひびき合い、
  小説の魅力をいっそうたかめました。

  もはや従来の時代小説、歴史小説の枠をこえ、
  小説と評論の垣根もとりはずされていました。
  自注によって小説は奔馬のように躍動しました。


 余談という名の『自作自注』を通して、
 小説のなかに『評論』が読み込まれ、
 そこに作品の魅力が見出されている。

 作家の有吉佐和子も、余談には直接言及しないものの、
 『坂の上の雲』について、
 『ああ、そうだったのかと教えられることが余りにも多かったので、
  小説を読んでいるという気がしなかった』
 『司馬さんの書かれるものは日本外史とでも呼ぶべき種類の
  史書ではあるまいか。膨大な材料を明晰に分類し判断し、
  しばしばユーモアを湛えて平明に綴っていく』と評していた。
 司馬作品のなかに見出されたのは、
 『小説』というより、『史書』という名の教養だった。  」


はい。これが第3章「歴史ブームと大衆教養主義」にありました。
このあとが、面白くなるのですが、私には手に負えないここまで。
コメント (2)
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