『しずけさ』ということで、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)と
大村はま著「国語教室通信 昭和44年ー48年」(資料篇2)とを引用。
梅棹忠夫著「知的生産の技術」に、詩を口ずさむような、
一読忘れ難い箇所があります。まずは、そこを引用。
「・・・生活の『秩序としずけさ』がほしいからである。
水がながれてゆくとき、
水路にいろいろなでっぱりがたくさんでている。
水はそれにぶつかり、そこにウズマキがおこる。
水全体がごうごうと音をたててながれ、泡だち、波うち、渦をまいて
ながれてゆく、こういう状態が、いわゆる乱流の状態である。
ところが、障害物がなにもない場合には、
大量の水が高速度でうごいても、音ひとつしない。
みていても、水はうごいているかどうかさえ、はっきりわからない。
この状態が、いわゆる層流の状態である。
知的生産の技術のひとつの要点は、
できるだけ障害物をとりのぞいてなめらかな水路をつくることによって、
日常の知的活動にともなう情緒的乱流をとりのぞくことだといっていいだろう。
精神の層流状態を確保する技術だといってもいい。
努力によってえられるものは、精神の安静なのである。」
( p95~96 )
つぎは、教室のしずけさ。ということで
大村はまの「国語教室通信」(昭和46年6月19日)から引用。
見出しは『いきいきとした静けさ』とあります。
「・・みんなが、じっと、思いをこらして、
それぞれのカードを見つめ、
『ことば』ということばの意味を考えていたとき、
異様(いよう)なといいたいほどの静けさが、
へやに満ちていました。
ただ、音がしないというだけの静けさではない。
目に見えないものが、はげしく動いている。
心がはつらつと活動している。
そういう静けさでした。
区別しにくいものを区別しようとし、
ことばに表わしにくものを、ことばにしようとして、
力いっぱい、考えている、
―――いきいきとした静けさでした。
すばらしいひとときでした。 」
この大村はまの「国語教室通信」の言葉を、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」の言葉とむすびつけるのは
突拍子もないと思われるかもしれませんが、
うん。『国語教室通信』には、こんな箇所もあったのでした。
♢ D組、『知的生産の技術』と『読書論』、
返してない人、大至急。
今度はA組で使うので、本をもてない人ができてしまいます。
忘れたら、とりに行ってもらいます。
( 昭和46年10月23日「国語教室通信」 )
はい。梅棹忠夫著「知的生産の技術」を読んでも
いまひとつ、私には理解しにくいところがあって、
「大村はま国語教室」はそこを教えてくれている。
そう思えば、読みすすむのにも楽しみがふえます。