和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

しずけさ。

2022-12-05 | 本棚並べ
『しずけさ』ということで、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)と
大村はま著「国語教室通信 昭和44年ー48年」(資料篇2)とを引用。


梅棹忠夫著「知的生産の技術」に、詩を口ずさむような、
一読忘れ難い箇所があります。まずは、そこを引用。

「・・・生活の『秩序としずけさ』がほしいからである。
 
 水がながれてゆくとき、
 水路にいろいろなでっぱりがたくさんでている。
 水はそれにぶつかり、そこにウズマキがおこる。

 水全体がごうごうと音をたててながれ、泡だち、波うち、渦をまいて
 ながれてゆく、こういう状態が、いわゆる乱流の状態である。

 ところが、障害物がなにもない場合には、
 大量の水が高速度でうごいても、音ひとつしない。

 みていても、水はうごいているかどうかさえ、はっきりわからない。
 この状態が、いわゆる層流の状態である。

 知的生産の技術のひとつの要点は、
 できるだけ障害物をとりのぞいてなめらかな水路をつくることによって、
 日常の知的活動にともなう情緒的乱流をとりのぞくことだといっていいだろう。
 精神の層流状態を確保する技術だといってもいい。
 努力によってえられるものは、精神の安静なのである。」
                  ( p95~96 )

つぎは、教室のしずけさ。ということで
大村はまの「国語教室通信」(昭和46年6月19日)から引用。
見出しは『いきいきとした静けさ』とあります。

「・・みんなが、じっと、思いをこらして、
  それぞれのカードを見つめ、
  『ことば』ということばの意味を考えていたとき、
  異様(いよう)なといいたいほどの静けさが、
  へやに満ちていました。

  ただ、音がしないというだけの静けさではない。
  目に見えないものが、はげしく動いている。
  心がはつらつと活動している。
  そういう静けさでした。

  区別しにくいものを区別しようとし、
  ことばに表わしにくものを、ことばにしようとして、
  力いっぱい、考えている、
  ―――いきいきとした静けさでした。
 
  すばらしいひとときでした。 」


この大村はまの「国語教室通信」の言葉を、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」の言葉とむすびつけるのは
突拍子もないと思われるかもしれませんが、
うん。『国語教室通信』には、こんな箇所もあったのでした。

 ♢ D組、『知的生産の技術』と『読書論』、
   返してない人、大至急。
   今度はA組で使うので、本をもてない人ができてしまいます。
   忘れたら、とりに行ってもらいます。
         ( 昭和46年10月23日「国語教室通信」 ) 


はい。梅棹忠夫著「知的生産の技術」を読んでも
いまひとつ、私には理解しにくいところがあって、
「大村はま国語教室」はそこを教えてくれている。
そう思えば、読みすすむのにも楽しみがふえます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちょとしたコツみたいなもの。

2022-12-05 | 道しるべ
今はどうなのでしょう?
私の小学生の頃は『書き初め』は当然のようにありました。
中学では、ちょこっとあったかなあ。

大村はまの国語通信を読んでいて、思ったのですが、
私の『書き初め』は、書く言葉のお手本があって指定されていた。
そこが気になり書いてみます(昨日のブログの続きになります)。

まずはここから。
苅谷夏子さんは、大村はまの授業をこう語っておりました。

「学校という場は、すでにできあがった知識体系を、
 疑う余地も残さず、あたりまえの顔をして教えてしまう。
 立派な知識のお城を前に、生徒は委縮した
 未熟な存在にならざるをえないところがある。

 ところが、この『ことば』という平易な、しかし
 やっかいなことばの分類をしてみたことで、私は 
 しゃんと背筋が伸びた気がしたわけだ。
 過去に知的遺産を築いた人々と同等の資格を持って、
 堂々と勉強を進める楽しさを教えられたのかもしれない。

 実際、大村国語教室の私たちは、
 生意気とも思えるほど一人前の
 『学ぶ人たち』だったのではなかろうか。 」
           ( p48 「教えることの復権」ちくま新書 )

『書き初め』で、自分が書く言葉を、自分で選ぶところからはじまる。

うん。この引用は途中からで、わかりずらい箇所もありますが、
まあいいか、つぎを続けます。

苅谷夏子さんは、1956年生まれ。
13歳の二学期でした。
こうあります。

「私は中学生になった。相変わらず理数系のほうが肌に合うと思っていた。
 一年生の夏休み、父の転勤に伴い石川県金沢市から東京都大田区へと
 引っ越して、区立石川台中学校に転入することになる。

 夏休み明けのじりじりと暑い日、私は国語教室として使われていた
 図書館で、当時63歳だった国語教師大村はまに出会った。」
               ( p18~19 同上 )


断捨離されずに、大村はまさんの、その頃の「国語教室通信」は残され、
しかも手書きのままの資料が、大村はま国語教室資料篇②として読める。

苅谷夏子さんは、昭和44(1969)年の二学期に大村はまと出会います。
ちなみに、この昭和44年(1969)7月21日に出版された本はといえば、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)がある。
すこし前の、1965年に
梅棹忠夫は、電通の依頼でセミナーの講師をしております。
その演題が『知的生産の技術』でした。こうあります。

「わたしの演題は、『知的生産の技術』ということであった。
 わたしの著書『知的生産の技術』が刊行されたのは1969年のことであるから
 このときはまだ姿をあらわしていない。しかし、わたしはすでに、

 1965年の4月から岩波書店の雑誌『図書』に
 『知的生産の技術について』という連載記事を
 断続的に発表しはじめていたのである。
 それに電通の担当者が注目したのであろう。・・・」

         ( p177 「梅棹忠夫著作集」第11巻 )


はい。岩波の雑誌『図書』と、『知的生産の技術』というキーワードが
大村はまの国語教室通信を、パラパラとめくっていると出てきました。

昭和46年10月9日の国語教室通信のはじまりに

「岩波の図書10月号に、『本と子どもと図書館と』という題で
 『いぬい・とみこ』さんの文章がのっています。読みましたか。・・」

はい。大村はまさんが、雑誌『図書』を注目していたとわかる箇所です。

同じ年の46年10月23日国語教室通信には、裏面にこんな箇所がありました。

 ♢D組、『知的生産の技術』と『読書論』、返してない人、大至急。
  今度は、A組で使うので、本をもてない人ができてしまいます。
  忘れたら、とりに行ってもらいます。



はい。はじまりへと戻るとすると、

梅棹忠夫著「知的生産の技術」の『まえがき』に
こんな箇所があり。思い浮かびます。

「 ・・ちょっとしたコツみたいなものが、
 かえってほんとうの役にたったのである。
 そういうことは、本にはかいてないものだ。・・」


学校の『書き初め』というのは
私の場合、前提として『書き初め』言葉が決められていて、
それを書くものだとばかり思って今にいたっておりました。

それが大村はまさんの国語教室では、自分で自分の言葉を選び
その選んだ言葉を、大村先生がお手本を書いては見本としてる。

『ちょっとしたコツみたいなもの』ということから、
わたしは、まど・みちおの詩の一行が思い浮かびます。

『 なんでもないことが たいへんなことなのだ 』

ちょっとしたコツという、何でもないことが、大変なことなのだ。
生徒ひとりひとりの言葉を、おてほんとして見本を書いてあげる、
そんな『ちょっとしたコツ』を、実行する大村は何者なんだろう。
はい。知るためには、そこに大村はま全集が待ち構えております。

うん。こうして自分で自分に言い聞かせ、全集を見あげます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする