和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

枯野・大根の葉。

2022-12-08 | 詩歌
「書き初め」と「百人一首」と続きましたので、
つぎは、「年賀はがき」かなあ。とはじめます。

「俳句用語の基礎知識」は、古本で200円でした。
うん。昭和59年初版で、カバーも、ページもきれい。
角川選書の一冊で、編者は村山古郷+山下一海。
あとがきのはじまりを引用しておくことに。

「『挨拶句・存問』から『わび・さび』まで、
 本書におさめられた61項目の俳句用語は、
 明治から昭和の現在に至る近代・現代俳句史の上に、
 それぞれ花とひらき実を結び、あるいは美しく点じられた
 燈し火のような事項ばかりであるといえよう。・・・  」(p305)

はい。本文のはじまりは『挨拶句・存問(そんもん)』でした。
私などは、年賀はがきのことを思うと近頃このことが浮びます。
ということで、はじまりから引用しておくことに。

「・・『存問』は心に存して忘れず、安否を問い、
  慰問するの意で挨拶とほぼ同義。

  したがって挨拶句も存問もともに人間と人間との関係、
  すなわち慶賀・弔意、またはある出来事についての感懐
  の俳句であることはいうまでもないが、

  その土地の風光・歴史など一切に対する親愛の情をも
  含むといった広い意に解釈すべきであろう。     」(p7)

はい、これが定義として書かれておりました。
後に、続いて歴史として書かれているのは、
『三冊子』の中からの引用からですが、端折ります。
そのつぎに

「 山本健吉は
  《 俳句は滑稽なり。俳句は挨拶なり。俳句は即興なり ≫
 と三つの命題の上に俳句は存立すると明言。(「純粋俳句」昭和27)

 存問については『虚子俳話』の中に二編、次のごときものがある。

 《 ――お寒うございます、お暑うございます。
   日常の存問が即ち俳句である。

   ・・・・・・・・
   平俗の人が平俗の大衆に向っての存問が即ち俳句である。≫
          ( 高浜虚子「朝日新聞」昭和32・12・29 ) 

 《 ――曾つて「存問」と題する一項目を書いた。
  「お暑うございます」「お寒うございます」
   日常存問が即ち俳句であると。

   山本健吉氏は新潮文庫の「虚子自選句集」の解題に
  「日常の存問が即ち俳句である」といふ私の説を引いてかう書いてをる。

  「おそらく氏(虚子)の存在の揺るぎなさは、
   俳句を『日常の存問』として、刻々のうちに
   俳句に生きてゐることに在るのであろう。」

   さうして次の数句(節録)を挙げてをる。

  
   遠山に日の当りたる枯野かな    虚子
   桐一葉日当りながら落ちにけり   同
   流れ行く大根の葉の早さかな    同
   旗のごとなびく冬日をふと見たり  同
   天地の間にほろと時雨かな     同
   彼一語我一語秋深みかも      同
   去年今年貫く棒の如きもの     同

   然り、四季の自然、人間に対する私の存問である ≫
        
           ( 高浜虚子「朝日新聞」昭和33・5・11 )


はい。この頃私は、年賀はがきを積極的に書いておりません。
けれど、年賀はがきは舞いこむ。そんな少数相手に書きます。
年賀はがきを書かずに、こうして『存問』のことを思い浮かべています。              

コメント (4)
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