大村はまさんは、講演でこう語っておりました。
「 私たちの毎日毎日やっています
一つ一つの小さなことを、
技術と言っていいと思います。 」
「 ふつうの時は、私たちとしては毎日毎日の、
聞いたり、話したり、読んだり、書いたりする
子どもの生活を一歩でも向上させるために
自分の技術をみがくこと、それが教育愛だと思います。
技術ということばは聞き慣れないせいか、何かこう
浅い表面的なことのように聞こえていやだという
気持ちの方もあるようです。・・・ 」
( p6 「大村はま国語教室」第11巻 )
『技術』で、思い浮かぶのは梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)。
ということで、この新書をとりだしてくる。
「まえがき」の1ページ目には、こうあります。
「 研究のすすめかたの、ちょっとしたコツみたいなものが、
かえってほんとうの役にたったのである。
そういうことは、本にはかいてないものだ。 」
それからあとには、こうもありました。
「 最初の連載をはじめるときに、題名に苦労した。
かきたいことが頭のなかに、もやもやとあるのだが、
それを適切に表現することばが、なかなかみつからなかった。
・・・・・
そのころ、湯川秀樹先生が、わたしのプランのことをつたえきかれて、
これはやはり一種の『技術』の問題ではないか、というヒントをくださった。
たしかにいわれてみると、これは『技術』だ。
しかし、なんの技術だろうか。
『勉強の技術』というのでは、すこしものたりない。
もっと創造的な知的活動の技術だというつもりで、
『知的生産の技術』ということにしたのである。 」
ちなみに、最初に引用した
大村はまさんの講演は、昭和31年12月広島での講演。そして、
『知的生産の技術』は、昭和44年7月第1刷発行。
技術を語る。この年度差をどう埋めてゆくかの楽しみ。
たとえば、谷内六郎の表紙絵ではじまる週刊新潮創刊号は、
いつ頃だったかといえば、昭和31年2月19日が創刊号です。
これについて、私に思い浮かぶ二冊があります。
桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社)のなかの
司馬遼太郎との対談。そして、
「司馬遼太郎が語る日本」未公開講演録愛蔵版Ⅱ(朝日新聞社)の
「週刊誌と日本語」。
はい。ここは、『週刊誌と日本語』から抜粋。
「・・戦争を経て、昭和30年代になりますと、
出版社の新潮社が、よせばいいのに週刊誌を出した。
これは大変にカネのかかる、危急存亡にかかわる道楽だったと思うのですが、
それが成功しました。するとほかの文芸春秋なども週刊誌を出し始め、
大変な乱戦状態になった。老舗の新聞社も太平をきめこむわけにいかなくなり、
いろいろ頑張った。一時期のはげしい週刊誌時代がつくられることになりました。
私もそのころ、週刊誌というのは不思議なものだなと思っていました。
いまの週刊誌とは違い、昭和30年代の週刊誌はまだ、
天下国家を憂えるといった顔をしておりました。
電車の中で大学の先生も読んでいれば、学生も読んでいる。
国語の先生も読んでいれば、左官の仕事を修業中の青年も読んでいる。
週刊誌を読むという、ひとつの共通の場が
できあがったんだなあと思ったことがあります。
だれが読んでも読み方が違うということはなく、
そこには週刊誌読者としての好奇心がある。
平均化され、いわば馴らされたものがある。
ちょっとレベルの高い週刊誌と低いレベルの週刊誌がありますが、
当時はまずほぼ同じレベルの週刊誌がひしめいていたから、
そう思ったのでしょう。
そのことを桑原さんもおっしゃった。
『 週刊誌が共通の文章日本語を作ったことに
いささかの貢献をしたのではないか 』
その次に桑原さんは少し語弊のあることをおっしゃった。
『 週刊誌に載っている作家の文章と、
週刊誌のトップ記事の文章とは、似てきましたね。 』
そこには相互影響があるということなのでしょう。さらに、
『 他の雑誌に載っている作家の文章も、
週刊誌の文章に似てきましたね 』
こういうことを言いますとですね、文芸批評家から、
『 だからけしからん 』
と言われることになります。
非常に広い心をもってこの問題を考えてみてください。
こういう話を聞いてもらって、みなさんのなかで
また違う答えを出してほしいと思います。
共通の日本語というものを、
国語の先生も、作家も、ジャーナリストも、
みんなで作りつつあるというのが、
いまの私の認識であります。 」( p69~70 )
はい。ながなが引用しちゃいました。
ここに出てくる『国語の先生も』という箇所。
今の私は大村はま先生に焦点を絞ってみたい。