和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

なだめすかし。はげましつつ。

2022-12-31 | 本棚並べ
今年の後半に、大村はまを読もうと思った。
そう思っただけで全集も買ったまま年越し。
ということで、今日12月31日のブログです。

大村はまさんは、戦前の女学校から、
戦後、中学の先生として過ごします。

「それから、若い時は集められて研修会がありますけれど、
 年をとってくれば、自分で自分を研修するのが一人前の教師です。

 ・・学生は、教える人がいて、『 やりなさい 』と言われ、
 『 はい、はい 』とやるわけですが、一人前の人というのは、

 自分で自分のテーマを決め、自分で自分を鍛え、
 自分で自分の若さを保つ。

 これを一人前の教師というのではないでしょうか。
 研修に呼び出されなくたって、自分のことは自分でやる、

 そして子どもと同じ世界にいるということを
 いつも考えることが、ずっと大事だと思います。 」

 ( p32~33 大村はま著「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )

上記の文は、1970年8月富山県新規採用教員研修会での
大村はまの講演からの引用です。


はい。ボンヤリと思い浮かんだのは、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の日記の箇所でした。

「・・・・
  技法や形式の研究なしに、意味のある日記がかきつづけられるほどには、
 『自分』というものは、えらくないのがふつうである。

  いろんなくふうをかさねて、『自分』をなだめすかしつつ、
  あるいははげましつつ、日記といういうものは、かきつづけられるのである。
  
 ・・・・『自分』というものは、
  時間とともに、たちまち『他人』になってしまううものである。
 
 ・・・・日記というものは、時間を異にした
 『自分』という『他人』との文通である、とかんがえておいたほうがいい。

     ( p162 )


さてっと、『自分』という『他人』との文通である。
と梅棹さんは指摘しております。
大村はまさんは、子どもを語って、先の文庫でこう語ります。

「 子どもというものは、恐ろしくあきやすい人間なので、
 『二度』ということは大きらいなのです。・・・・   」( p141 )


ただたんに、馬齢をくわえているだけなのですが、自分の中に、
『 子どもという、恐ろしくあきやすい人間 』が居座ってる。
そんな、自分の中の子どもの『他人』とどう折り合いをつける?

『 なだめすかしつつ、あるいははげましつつ 』

来年も、ブログを更新してゆきます。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

来年こそ『大村はま国語教室』を読めますように。

コメント
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