今年の後半に、大村はまを読もうと思った。
そう思っただけで全集も買ったまま年越し。
ということで、今日12月31日のブログです。
大村はまさんは、戦前の女学校から、
戦後、中学の先生として過ごします。
「それから、若い時は集められて研修会がありますけれど、
年をとってくれば、自分で自分を研修するのが一人前の教師です。
・・学生は、教える人がいて、『 やりなさい 』と言われ、
『 はい、はい 』とやるわけですが、一人前の人というのは、
自分で自分のテーマを決め、自分で自分を鍛え、
自分で自分の若さを保つ。
これを一人前の教師というのではないでしょうか。
研修に呼び出されなくたって、自分のことは自分でやる、
そして子どもと同じ世界にいるということを
いつも考えることが、ずっと大事だと思います。 」
( p32~33 大村はま著「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )
上記の文は、1970年8月富山県新規採用教員研修会での
大村はまの講演からの引用です。
はい。ボンヤリと思い浮かんだのは、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の日記の箇所でした。
「・・・・
技法や形式の研究なしに、意味のある日記がかきつづけられるほどには、
『自分』というものは、えらくないのがふつうである。
いろんなくふうをかさねて、『自分』をなだめすかしつつ、
あるいははげましつつ、日記といういうものは、かきつづけられるのである。
・・・・『自分』というものは、
時間とともに、たちまち『他人』になってしまううものである。
・・・・日記というものは、時間を異にした
『自分』という『他人』との文通である、とかんがえておいたほうがいい。
( p162 )
さてっと、『自分』という『他人』との文通である。
と梅棹さんは指摘しております。
大村はまさんは、子どもを語って、先の文庫でこう語ります。
「 子どもというものは、恐ろしくあきやすい人間なので、
『二度』ということは大きらいなのです。・・・・ 」( p141 )
ただたんに、馬齢をくわえているだけなのですが、自分の中に、
『 子どもという、恐ろしくあきやすい人間 』が居座ってる。
そんな、自分の中の子どもの『他人』とどう折り合いをつける?
『 なだめすかしつつ、あるいははげましつつ 』
来年も、ブログを更新してゆきます。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
来年こそ『大村はま国語教室』を読めますように。