和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

文章に理系も文系もあるか。

2022-12-27 | 本棚並べ
親しくさせていただいている家の娘さんの旦那さんが
今南極へいっているそうなのでした。

それではと、西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書・1958年7月)
をとりだす。

ここは『あとがき』のはじまりを引用。

「南極へ旅立つにあたって、わたしは親友の桑原武夫君から宣告をうけた。
 『帰国後に一書を公刊することはお前の義務である』と。・・・
 しかし・・わたしは生来、字を書くことがとてもきらいである。・・・

 かれの意見に従おうと思ったけれど、時間の余裕があった南極越冬中でさえ、
 何一つ書きまとめることもできなかったわたしである。
 
 帰国後のものすごい忙しさの中で、とうてい桑原君のいうようなことが
 できようはずがない。・・・・
 桑原君は、いろいろと手配をして、指図をしてくれた。・・・

 ちょうど、みんなが忙しいときだった。
 桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、
 カラコルムへ向け出発してしまった。しかし、運のいいことに、
 ちょうどそのまえに、東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。
 ・・・・         」( p267~268 )


このあとは、梅棹忠夫著作集第16巻へと、バトンタッチ。
そのp496


にありました。

「西堀さんは元気にかえってこられたが、それからがたいへんだった。
 講演や座談会などにひっぱりだこだった。越冬中の記録を一冊の本に
 して出版するという約束が、岩波書店とのあいだにできていた。

 ・・・・桑原さんがいわれるには、

 『 西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、
   君がかわりにつくってやれ 』という命令である。・・・

 ・・・材料は山のようにあった。大判ハードカバーの横罫の
 ぶあついノートに、西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。

 そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、さまざまなエッセイの
 原稿があった。このままのかたちではどうしようもないので、

 全部を縦がきの原稿用紙にかきなおしてもらった。
 200字づめの原稿用紙で数千枚あった。これを編集して、
 岩波新書の一冊分にまでちぢめるのが、わたしの仕事だった。

 ・・・全体としては、越冬中のできごとの経過をたどりながら、
 要所要所にエピソードをはさみこみ、いくつもの山場をもりあげてゆくのである。
 大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとにクリップでとめた
 原稿用紙をならべて、それをつなぎながら冗長な部分をけずり、
 文章をなおしてゆくのである。・・・・    」


せっかくなので、昨日引用した司馬遼太郎の講演「週刊誌と日本語」
から、西堀栄三郎氏が登場している箇所を引用しておきます。


「 西堀栄三郎さんという方がいます。・・・
  大変な学者です。探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。

  桑原さんと西堀さんは高等学校が一緒です。
  南極探検から帰ってきて名声とみに高しという時期の話です。

  西堀さんはすぐれた学者ですが、しかし文章をお書きにならない。
  桑原さんはこう言った。

 『 だから、お前さんはだめなんだ。自分の体験してきたことを
   文章に書かないというのは、非常によくない 』

 西堀さんはよく日本人が言いそうなせりふで答えたそうですね。

 『 おれは理系の人間だから、文章が苦手なんだ 』

 『 文章に理系も文系もあるか』

 『 じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ 』

 私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うからすごいと思うのです。

 『 お前さんは電車の中で週刊誌を読め 』

 西堀さんはおたおたしたそうです。
 
 『 週刊誌を読んだことがない 』       」


ちなみに、この司馬さんの講演の最後に正岡子規がでてきておりました。
さいごに、そこを引用しておくことに。

「子規よりも漱石のほうが後世に与えた影響は大きいですね。
 
 しかし、読み比べてみますと、子規の文章のほうが
 はるかに柔軟で、非常に透明感が高く、明晰でもある。

 国語解釈上の諸問題を出す余地がないくらいに明晰なのです。

 そういう文章をわれわれは喜ばなくてはならない。
 わかりにくい文章を喜んではいけません。

 国語の教育者は、非常に難解な、偏波(へんぱ)な
 過去の文章の解釈を喜ぶよりも、共通の文章語を
 教えなくてはなりませんね。
 先生方ご自身が考えていくことですね。

 平易さと明晰さ、論理の明快さ。
 そして情感がこもらなくてはなりません。

 絵画でも音楽でもそうですが、
 文章もひとつの快感の体系です。

 不快感をもたらすような文章はよくありません。・・・・ 」

ちなみに、司馬さんの『週刊誌と日本語』は
1975年11月松山市民会館大ホールでおこなわれた
「第49回全国大学国語教育学会」での講演でした。

それで『先生方』という言葉がでてくるのだなあ。
コメント (2)
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