親しくさせていただいている家の娘さんの旦那さんが
今南極へいっているそうなのでした。
それではと、西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書・1958年7月)
をとりだす。
ここは『あとがき』のはじまりを引用。
「南極へ旅立つにあたって、わたしは親友の桑原武夫君から宣告をうけた。
『帰国後に一書を公刊することはお前の義務である』と。・・・
しかし・・わたしは生来、字を書くことがとてもきらいである。・・・
かれの意見に従おうと思ったけれど、時間の余裕があった南極越冬中でさえ、
何一つ書きまとめることもできなかったわたしである。
帰国後のものすごい忙しさの中で、とうてい桑原君のいうようなことが
できようはずがない。・・・・
桑原君は、いろいろと手配をして、指図をしてくれた。・・・
ちょうど、みんなが忙しいときだった。
桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、
カラコルムへ向け出発してしまった。しかし、運のいいことに、
ちょうどそのまえに、東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。
・・・・ 」( p267~268 )
このあとは、梅棹忠夫著作集第16巻へと、バトンタッチ。
そのp496
にありました。
「西堀さんは元気にかえってこられたが、それからがたいへんだった。
講演や座談会などにひっぱりだこだった。越冬中の記録を一冊の本に
して出版するという約束が、岩波書店とのあいだにできていた。
・・・・桑原さんがいわれるには、
『 西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、
君がかわりにつくってやれ 』という命令である。・・・
・・・材料は山のようにあった。大判ハードカバーの横罫の
ぶあついノートに、西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。
そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、さまざまなエッセイの
原稿があった。このままのかたちではどうしようもないので、
全部を縦がきの原稿用紙にかきなおしてもらった。
200字づめの原稿用紙で数千枚あった。これを編集して、
岩波新書の一冊分にまでちぢめるのが、わたしの仕事だった。
・・・全体としては、越冬中のできごとの経過をたどりながら、
要所要所にエピソードをはさみこみ、いくつもの山場をもりあげてゆくのである。
大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとにクリップでとめた
原稿用紙をならべて、それをつなぎながら冗長な部分をけずり、
文章をなおしてゆくのである。・・・・ 」
せっかくなので、昨日引用した司馬遼太郎の講演「週刊誌と日本語」
から、西堀栄三郎氏が登場している箇所を引用しておきます。
「 西堀栄三郎さんという方がいます。・・・
大変な学者です。探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。
桑原さんと西堀さんは高等学校が一緒です。
南極探検から帰ってきて名声とみに高しという時期の話です。
西堀さんはすぐれた学者ですが、しかし文章をお書きにならない。
桑原さんはこう言った。
『 だから、お前さんはだめなんだ。自分の体験してきたことを
文章に書かないというのは、非常によくない 』
西堀さんはよく日本人が言いそうなせりふで答えたそうですね。
『 おれは理系の人間だから、文章が苦手なんだ 』
『 文章に理系も文系もあるか』
『 じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ 』
私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うからすごいと思うのです。
『 お前さんは電車の中で週刊誌を読め 』
西堀さんはおたおたしたそうです。
『 週刊誌を読んだことがない 』 」
ちなみに、この司馬さんの講演の最後に正岡子規がでてきておりました。
さいごに、そこを引用しておくことに。
「子規よりも漱石のほうが後世に与えた影響は大きいですね。
しかし、読み比べてみますと、子規の文章のほうが
はるかに柔軟で、非常に透明感が高く、明晰でもある。
国語解釈上の諸問題を出す余地がないくらいに明晰なのです。
そういう文章をわれわれは喜ばなくてはならない。
わかりにくい文章を喜んではいけません。
国語の教育者は、非常に難解な、偏波(へんぱ)な
過去の文章の解釈を喜ぶよりも、共通の文章語を
教えなくてはなりませんね。
先生方ご自身が考えていくことですね。
平易さと明晰さ、論理の明快さ。
そして情感がこもらなくてはなりません。
絵画でも音楽でもそうですが、
文章もひとつの快感の体系です。
不快感をもたらすような文章はよくありません。・・・・ 」
ちなみに、司馬さんの『週刊誌と日本語』は
1975年11月松山市民会館大ホールでおこなわれた
「第49回全国大学国語教育学会」での講演でした。
それで『先生方』という言葉がでてくるのだなあ。