徒然草の第20段。2行ほどの短い文を島内裕子さんは評して、
「『空の名残』という名句が刻印された段。空の名残とは、
夕暮に次第に暮れゆく空の変化を指すと考えられる。 」
( p57 文庫 )
つぎの第21段では、『空の名残』がどのようにつながるのか?
まず、島内裕子さんの評を引用。次に訳・原文へとたどります。
『評』
「 心は、いかにして慰めることができるのか。
『わが心慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て』
という『古今和歌集』の古歌もあるように、
いつの時代にも、誰にとっても、
心身の癒しがたさ、慰めがたさがある。
それでも、月・露・花・風・水などと触れ合う
ことによって心が慰められる、と述べている。
・・・・ 」
つぎに、島内裕子さんの訳は
「 どんな時も、月を見れば心が慰む。
ある人が『月ほど心惹かれるものは、他にはないだろう』と言ったところ、
もう一人は、『自分は月よりも露の方こそ、心に沁みる』と
論争になったのは面白いことだった。
その時々の琴線に触れれば、何であれ、あわれでないものはない。
月や花は言うまでもない。むしろ、
風こそ、人の心に感動を生じさせるし、
岩に砕けて清らかに流れる水の様子こそ、
時節を特定せず、いつも素晴らしいのだ。
『・・・』という漢詩を読んだ時、私は感慨深いものがあった。
嵆康(けいこう)も『・・・・・』という詩を書いている。
人里から遠く離れて、水草が清らかな沢辺を
さまよい歩くことくらい、心が慰められることはないだろう。」
うん。最後に徒然草第21段の原文全文引用。
「 万(よろづ)の事は、月見るにこそ慰む物なれ。
或る人の、『月ばかり、面白き物はあらじ』と言ひしに、
また一人、『露こそ、哀れなれ』と争ひしこそ、をかしかれ。
折に触れば、何かは哀れならざらん。
月・花は、更なり、風のみこそ、人に心は付くめれ。
岩に砕けて清く流るる水の気色こそ、時をも分かず、めでたけれ。
『沅・湘、日夜、東に流れ去る。愁人の為に、留まる事、小時もせず』
と言へる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。
嵆康も、『山沢に遊びて、魚鳥を観れば、心楽しぶ』と言へり。
人遠く、水草清き所に、逍遥ひ歩きたるばかり、心慰む事はあらじ。」
( p58 文庫 )
この段の、歌仙でいうところの他の句(段)との
付け・繋がり具合はどうなっているのか?
はい。ガイドさんは『評』の後半で指摘されておりました。
「自然の中で、清新な空気や風景に溶け込んでこそ、
たとえ一時的にもせよ、俗塵を洗い流せるのだ。
第19段あたりから一連のものとして捉えるならば、
このあたりの兼好の書きぶりは、自然との融合に
よる心身の回復が模索されており、それらはさらに
大きく第15段あたりからも繋がっていよう。
ただし、次の段からは、視点が少し変化して、
季節や自然といったものから、
止めようもなく変化する時間への感慨、
つまり現在と過去の対比に関心が移動してくる。」
( p59 ちくま学芸文庫 )
うん。こうして次の段、次の段へと進んでゆく段々の間の飛躍の、
見えない余白の魅力を、思うに芭蕉の歌仙も秘めてるんだろうな。
そう思えば、日本における言葉のバトンはつながっておりました。
段と段との余白の豊穣を味わう貴重で贅沢な時間。
ということで、徒然草の第243段までの連続読みも、
先達の島内裕子さんと一緒に歩けば苦にはならない。
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