和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

癒しがたさ。慰めがたさ。

2022-06-20 | 古典
徒然草の第20段。2行ほどの短い文を島内裕子さんは評して、

「『空の名残』という名句が刻印された段。空の名残とは、
  夕暮に次第に暮れゆく空の変化を指すと考えられる。 」
                  ( p57 文庫 )

つぎの第21段では、『空の名残』がどのようにつながるのか?
まず、島内裕子さんの評を引用。次に訳・原文へとたどります。

『評』 
「 心は、いかにして慰めることができるのか。
 『わが心慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て』
  という『古今和歌集』の古歌もあるように、

  いつの時代にも、誰にとっても、 
  心身の癒しがたさ、慰めがたさがある。

  それでも、月・露・花・風・水などと触れ合う
  ことによって心が慰められる、と述べている。
   ・・・・                 」

つぎに、島内裕子さんの訳は

「 どんな時も、月を見れば心が慰む。
 ある人が『月ほど心惹かれるものは、他にはないだろう』と言ったところ、
 もう一人は、『自分は月よりも露の方こそ、心に沁みる』と
 論争になったのは面白いことだった。

 その時々の琴線に触れれば、何であれ、あわれでないものはない。

 月や花は言うまでもない。むしろ、
   風こそ、人の心に感動を生じさせるし、
   岩に砕けて清らかに流れる水の様子こそ、
   時節を特定せず、いつも素晴らしいのだ。

 『・・・』という漢詩を読んだ時、私は感慨深いものがあった。
 嵆康(けいこう)も『・・・・・』という詩を書いている。

 人里から遠く離れて、水草が清らかな沢辺を
 さまよい歩くことくらい、心が慰められることはないだろう。」

うん。最後に徒然草第21段の原文全文引用。

「 万(よろづ)の事は、月見るにこそ慰む物なれ。
  或る人の、『月ばかり、面白き物はあらじ』と言ひしに、
  また一人、『露こそ、哀れなれ』と争ひしこそ、をかしかれ。
  折に触れば、何かは哀れならざらん。

  月・花は、更なり、風のみこそ、人に心は付くめれ。
  岩に砕けて清く流るる水の気色こそ、時をも分かず、めでたけれ。

 『沅・湘、日夜、東に流れ去る。愁人の為に、留まる事、小時もせず』
  と言へる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。
  嵆康も、『山沢に遊びて、魚鳥を観れば、心楽しぶ』と言へり。
  人遠く、水草清き所に、逍遥ひ歩きたるばかり、心慰む事はあらじ。」
                       ( p58 文庫 )

この段の、歌仙でいうところの他の句(段)との
付け・繋がり具合はどうなっているのか?

はい。ガイドさんは『評』の後半で指摘されておりました。

「自然の中で、清新な空気や風景に溶け込んでこそ、
 たとえ一時的にもせよ、俗塵を洗い流せるのだ。

 第19段あたりから一連のものとして捉えるならば、
 このあたりの兼好の書きぶりは、自然との融合に
 よる心身の回復が模索されており、それらはさらに
 大きく第15段あたりからも繋がっていよう。

 ただし、次の段からは、視点が少し変化して、
 季節や自然といったものから、
 止めようもなく変化する時間への感慨、
 つまり現在と過去の対比に関心が移動してくる。」
              ( p59 ちくま学芸文庫 )

うん。こうして次の段、次の段へと進んでゆく段々の間の飛躍の、
見えない余白の魅力を、思うに芭蕉の歌仙も秘めてるんだろうな。

そう思えば、日本における言葉のバトンはつながっておりました。
段と段との余白の豊穣を味わう貴重で贅沢な時間。

ということで、徒然草の第243段までの連続読みも、
先達の島内裕子さんと一緒に歩けば苦にはならない。

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