和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

和歌こそ、なお、おかしき物なれ。

2022-06-18 | 古典
沼波瓊音著「徒然草講話」で、連鎖を指摘する箇所は忘れがたい。

「枕草紙と徒然草とには、断つべからざる一條の連鎖がある。
 そうしてこの同じ連鎖が、徒然草と俳諧とをも繋いでゐる。

 ・・芭蕉は如何に兼好を慕うたか。その各の作品と、
 徒然草とを読比べると、誰でも其程度が直ぐ解る。

 ・・・支考は、芭蕉庵で師翁と徒然草を論じたことを
 書いてる。このような事はしばしばあったのであろう。 」


はい。ここに『誰でも其程度が直ぐ解る』とあるのでした。
うん。素人の私には分からないとしてもですが、
ここはひとつ、簡単に言葉尻をとらえてみます。

ということで、まず気づくのは『細道』でした。
徒然草第11段には

「神無月の頃、栗栖野といふ所を過ぎて、
 或る山里に尋ね入る事はべりしに、
 遥かなる苔の細道を踏み分けて、
 心細く住み成したる庵あり。   」

うん。言葉の連想から、単純に楽しめば、
細道つながりで、『苔の細道』と『奥の細道』。

第12段の最後は

「まめやかの心の友には、遥かに
 隔たる所の有りぬべきぞ、侘しきや。」

この段を、島内裕子さんは『評』して

「第11段の草庵も第12段の人々も、所詮は兼好の心と
『遥かな隔たり』があることを描き出している点で、
 一続きのものと言えよう。

 第11段の『遥かなる苔の細道』は、求めて止まぬ理想が、
 簡単には手が届かない存在であることの象徴としての
 様相を帯び、真の心の友もまた、『遥かに隔たる所』がある。

 ・・『徒然なるまま』に『由無し事』を書き綴ることが、
 まずは兼好にとって、みずからの満たされない思いを
 紛らわす心遣(こころや)りなのだ。・・・・

 誰に見せようとして、『心にうつりゆく由無し事』を
 書き継げようか。相手を意識しないからこそ、
 
 連想の広がりも、また、突然の転調も、自在にできるのであって、

 この書き方のスタイルは、徒然草の最後まで、一貫している。・・」
                 ( p41 文庫 )

つぎの第13段の本文は3行ほどの短いものですが、
そのはじまりはというと

「一人、燈火(ともしび)の下(もと)に、文(ふみ)を広げ、
 見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰む業(わざ)なる。」

はい。島内裕子さんの『評』はというと、

「この段の冒頭の一文だけを切り離して読めば、
 『読書の楽しみ』となるが、前段から連続読みすれば、

 心の友を求める兼好の孤独が色濃く漂う。・・・・

 ここに挙げられているのは、物語や和歌ではなく、
 思索に耽る古人たちの書物なのだ。・・・」 (p42 文庫)

つぎの
第14段のはじまりは、和歌からなのでした。

「 和歌こそ、猶、をかしき物なれ。
  あやしの賤(しず)・山賤(やまがつ)の仕業(しわざ)も、
  言ひ出(い)でつれば面白く、

  恐ろしき猪も、『ふす猪(ゐ)の床』と言へば、優しく成りぬ。」

この箇所の島内裕子訳は

「 和歌ほど、素晴らしいものはない。
  身分の低い人々の仕事ぶりも、
  和歌に詠み出せば生き生きとするし、
  恐ろしい猪も『臥猪(ふすい)の床』
  と言えば、優美になる。      」

うん。この段の『評』を島内さんは、こうはじめます

「前段で愛読書を挙げ終わった途端に、『和歌こそ、猶』という
 言葉が口を衝いて出て来るのが徒然草の面白さである。

 何か物を書くということは、あることを書けば、
 それ以外のものは同時には書けないことを意味している。

 その排除された言葉や思い、あるいは連想を誘うことがらが、
 続いて心に浮上してくるから、徒然草は次々とさまざまな
 話題が連なり出て来る。・・・        」( p45 文庫 )

このあと、第15段のはじまりの一行はというと、

「いづくにもあれ、暫(しば)し旅立ちたるこそ、目覚むる心地すれ。」

こうして第15段ははじまるのですが、あとの原文はカットして、
うん。この第15段の「評」を全文引用。

「ここで兼好は、周りの自然の風景のみならず、
 持参の品々や同行者に対する新鮮な感動まで語っている。

 型に嵌らない、自分自身の感覚を書いていて、
 急に外気が入ってきたような解放感がある。

 この段以前の記述が、現実に対する違和感や、
 それゆえに理想を求める姿勢が前面に出ていたのに対して、
 兼好の物の見方に変化の兆しを感じさせる。

 日常生活を離れて、旅先で感じる新鮮な感覚について述べているのは、
 現代人の感覚にもそのまま通じる。しかし、

 旅に出ると心が生き生きとリフレッシュするということは、
 古典和歌では詠まないことである。和歌に詠まれる旅の心は、
 辛さや心細さや、故郷への恋しさを詠むのが約束事だからである。」
                  ( p47 文庫 )

はい。ガイドさんの名調子に聞きほれておりました。
島内裕子校訂・訳『徒然草』(ちくま学芸文庫)を
第15段まで来ました。うん。次の第16段の始まりは

「神楽(かぐら)こそ、艶(なま)めかしく、面白けれ。」

とあります。うん。私はもうくたびれて、これ以上、
ガイドさんの言葉についてゆけない。ここらで休憩。

徒然草と芭蕉との連鎖ということでは、怠惰な私の身に引き寄せれば、
芭蕉とて、徒然草全文を読破したとは思わないし、思いたくない(笑)。
それでも、この引用した段章などは味読・再読・精読・輪読を
支考らと、繰り返していたんじゃないかと、自分にひきよせて、
ついあらぬことを、思い浮べてしまいます。



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