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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

勝っつぁん

2009-09-14 | 幸田文
季刊秋号文藝春秋special「賢者は歴史から学ぶ」。
この雑誌、近所の本屋に寄った時、つい買ってしまいました。
こういう雑誌は、何かひとつ印象に残る文が見つかればよいと、
そう私は思っております。
というか、隅から隅まで読むことが覚束ない。
ところで、ここに中島誠之助氏の「勝海舟から受け継いだ江戸弁」という文が読めました(p40~42)。
平成5年に統廃合して、今はない港区立氷川小学校を卒業した中島氏は、その小学校校歌の引用からはじめておりました。

「  英傑海舟住みにしところ
   我等が学舎ぞ厳(いか)しく立てる  」

こうしてはじまる文の最後は、こうでした。

「私の江戸弁は勝っつぁんの氷川清話の語り口から受け継いでいる。勝っつぁんはなんてったって小気味いいんだ。私の父方の祖母は土井半兵衛という御家人の娘で、浅草の善照寺には嘉永四年建立の先祖の墓がある。お袋は浅草のパン屋の娘で小町といわれた美人だ。だからきっと、私(あたし)の体にゃあ勝っつぁんと同じ血が流れているに違げぇねぇんだ。」


ちなみに、中島誠之助は昭和13年(1938年)、東京市赤坂区青山高樹町生まれ。
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和漢朗詠集

2009-09-13 | 他生の縁
古典へと、他生の縁を足がかりにして踏み込む、
その古典の入口に参入するきっかけ探し。

事典を引くときに、まずは、引きたい事柄・言葉がある。
というように、古典の本を読むときに、
まずは、気になるきっかけがあったりします。
そのタイミングを「他生の縁」ということで
書き込んでみようというこころみ。
さいわい、というか何といいましょうか、私は古典に疎い。
その疎さからすると、見えない古典の入口は、
ここかしこに、ゴロゴロしているようでもあります。


徳岡孝夫著「五衰の人 三島由紀夫私記」(文藝春秋)
松岡正剛著「日本という方法」(NHKブックス)

この二冊に共通する古典として「和漢朗詠集」が登場しておりました。
まずは、「五衰の人」から引用。

昭和42年の話。
「香港取材中に『8月1日付、バンコク特派員』の辞令を東京からの電報で受け取った。・・・帰ってすぐ単身バンコクに赴任した。」(p82)
「日本を発つ前、公団住宅の我が貧弱な書棚を見て、どの一冊を持って行こうかと思案した。前にアメリカの大学に留学したときは『方丈記・徒然草』を持参したが、学校の宿題(アサインメント)に追われるあまり読む暇がなかった。・・・結局、少し迷ったすえ、岩波の日本古典文学大系から『和漢朗詠集・梁塵秘抄』一冊を抜き出して荷物に加えた。バンコクは、ただ暑いだけの熱帯だが『和漢朗詠集』には日本の四季、風土、人情の精髄が詰め込まれている。万葉古今の秀歌もあれば、王朝の才女たちが愛してやまなかった唐詩の佳句もある。白氏文集からの引用は、補注を見れば長恨歌など原詩全文が載っている。千年前、いわば平安朝のリーダーズ・ダイジェストだが、それは繊細微妙な日本文化の色合いの溢れる花籠である。その本をバンコクで誰かに貸そうなど、そのときは考えてもみなかった。」(p83)

この本を読み終わってから、すこしたって、そういえば、和漢朗詠集について松岡正剛著「日本という方法」に面白い記述があったと気づきました。
なんのことはない、この二冊を最近続けて読んだから、気づいたまでのことです。
では松岡氏の本から引用。
その第3章「和漢が並んでいる」に、こんな箇所があります。

「日本文化史でたったひとつ決定的な【発明】を言えと問われたら、私は迷うことなく仮名が発明されたことをあげます。」(p57)

さて、その同じ章に和漢朗詠集への記述があるのでした。

「私は、菅原道真が『新撰万葉集』で漢詩と和歌を対応させて編集したと言いました。この方法はとても重要なもので、それをさらに発展させたのが関白頼忠の子の藤原公任(きんとう)が編集した『和漢朗詠集』でした。
勅撰ではなく、自分の娘が結婚するときの引出物として詞華集を贈ることを思いついて作ったものです。当時、貴族間に流布していた朗詠もの、つまりは王朝ヒットソングめいたものに自分なりに手を加え、新しいものをふやして贈ることにした。それだけでは贈り物にならないので、これを達筆の藤原行成(こうぜい)に清書してもらい、粘葉本(でっちょうぼん)に仕立てます。まことに美しい。
材紙が凝っていました。紅・藍・黄・茶の薄めの唐紙に雲母(きらら)引きの唐花文(とうかもん)を刷りこんでいる。行成の手はさすがに華麗で変容の極みを尽くし、漢詩は楷書・行書・草書をみごとな交ぜ書きにしています。和歌は行成得意の草仮名です。これが交互に、息を呑むほど巧みに並んでいる。
部立(ぶたて)は上帖を春夏秋冬の順にして、それをさらに細かく、たとえば冬ならば『初冬・冬夜・歳暮・炉火・霜・雪・氷付春氷・霰・仏名』と並べています。・・・・これをアクロバティックにも、漢詩と和歌の両方を交ぜながら自由に組み合わせたのです。漢詩が588詩、和歌が216首。漢詩一詩のあとに和歌がつづくこともあれば、部立によっては和歌がつづいて、これを漢詩が一篇でうけるということも工夫している。・・」(p69)


さて、ここまでが、私が出会った「和漢朗詠集」への入口。
この門を入るかどうか?
それは、すでにご存知のように、また別のことなのでした(笑)。
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五衰?

2009-09-12 | Weblog
今月9月20日に出る文春新書新刊。徳岡孝夫著「完本 紳士と淑女」。内容は「30年間、雑誌「諸君!」の巻頭を飾ってきた辛口名物コラムの筆者が遂に正体を明かした。精選された決定版」とある。どうやら、選ばれたコラムが読めそうです。
ところで最近、徳岡孝夫氏への興味から、古本ですが「五衰の人 三島由紀夫私記」(文藝春秋)を読んでみました。三島由紀夫の小説を読んだこともない私なので、この題名だけでは、けっして買わない本。けれども、徳岡孝夫という名に惹かれて、読んでみました。みごとに、1970年という時代を掬い上げており、その時代を象徴するように三島由紀夫氏が登場する。そんな錯覚を抱きました。ということで、三島由紀夫を知らなくとも1970年という時代を知るための貴重な一冊となっております。ところで、割腹自殺をした三島由紀夫ということでは、どなたも御存知のはず、あれから四半世紀後に、この本が書かれている。そのタイミングも、内容のぶれない的確さが感じられます。

もっとも、「死後自分の文学は疎んぜられるはずだと見透した三島さん」とありますから、「五衰の人」が発売された1996年というタイミングでは、当時、売れなかったかもしれません。ここでは一箇所だけ引用。本の最後の方にあるのですが、昭和46年(1970年)11月26日市ヶ谷駐屯地のバルコニーの場面を引用してみます。

「・・・いまでも不思議でならないが、私はバルコニーの正面やや左寄りに立って、これだけのメモを取るのが可能だった。声は、張りも抑揚もある大音声で、実によく聞えた。演説をメモするかたわら、私は要求書の文言も写したが、そのうえさらに感想を持つ時間的余裕があった。・・・・自衛官の『なぜ同志を傷つけたのだ』との野次に対して、間髪を入れず『抵抗したからだ』とやり返した声と気迫は、とくに凄まじかった。
不思議なのは、現場に居合わせた同業者が、申し合わせたように、ヘリコプターの騒音と野次でほとんど聞き取れなかったと三島演説を評していることである。・・・思うに正午過ぎのあの時間帯は、夕刊の締め切りギリギリである。早版はすでに刷り上がり、遅版勝負のキワドイ一刻である。市ヶ谷に来た新聞記者の多くは、取材より送稿の方が大切で、少しでも早く現場の状況を書いて送ろうと気が逸っていたのではあるまいか。ためしに『毎日新聞』夕刊の最終版を見ると、第一面の本体の記事は明らかにデスクか警視庁の記者クラブで警察情報を基に作った記事である。市ヶ谷の現場からの報告は社会面にあるが、三島演説はごく短く二ヵ所引いてあるだけである。・・・しかし本人の発言をほとんど報じず、また本人の発言のほとんどない報道に基づいて識者が『三島の死の謎』の『分析』などして、何になるというのか。
その点、週刊誌記者である私は、急いで送稿する必要がなかったから恵まれていた。あとで思えば、私のそばに立って同じように演説をメモする同業者は、あまり見かけなかった。腰を据えて聞きもせずに『ほとんど聞き取れなかった』はないだろう。
演説が終わり・・三島さんがバルコニーの縁から消えると、それを合図にしたように建物の前に待機していた数十人の警察機動隊が玄関から中へなだれ込んだ。・・・・」


このように、張りと抑揚のある三島の肉声と、現場のマスコミの生態を、活写して今でも鮮やかです。写真でしか知らないバルコニーでの三島由紀夫の姿が、思わず動き出してくるようでした。
う~ん。もう一箇所引用したくなります。
そのまま、雑誌コラム「紳士と淑女」の魅力の基幹を、読み解くような読後感がある箇所なのです。

「1969年5月には、クアラルンプールで人種暴動を取材した。マレー人とシナ人の衝突で、主に後者が殺されたが、何百人または何千人やられたかは今も分らない。24時間外出禁止令で人っ子ひとり通らない都会を、警官同伴とはいえトラックで走る恐ろしさは、ベトナムの前線とはまた別種のものだった。・・・・
東京から届く新聞には、ほとんど信じられないことが載っていた。すでに人間二人を射殺した犯人が、人質を取って温泉旅館に籠城しているところへ、文化人が訪ねていって共鳴したりしている。この世のこととは思えなかった。ベトナムでもタイでも、いやラオス、マレーシア、シンガポール・・・私の知る東南アジアの国なら、金嬉老は一発で警官隊に射殺されていたことだろう。人質が巻き添えになって死ねば、お気の毒でしたで片付けられていただろう。日本では殺人犯が差別反対闘争の英雄になっているのだった。
酷暑の東南アジアから振り仰ぐ日本は、平和と繁栄の中で人命第一、人権を何より優先する結構至極な湯加減の湯に浸った特異な国に見えた。成田闘争、国際反戦デー統一行動、佐世保の『エンプラ帰れ』、安田講堂などと新聞は大騒ぎしているが、ベトナムの前線を見ている者にとっては、お嬢様のお遊戯の域をさほど出ないように思えた。誰も命を投げ出していないではないか、本気ではないんじゃないか、と疑いたくなった。日本のやり方が良いとか悪いとかではなく、それは東南アジアの『常識』に照らし、あまりにも異質に見えた。サイゴンの米大使館をベトコンから奪還するためには、コンクリートの塀の外から両手で自動小銃を差し上げ、引き金を引いて盲滅法に掃射しておいてから突入したのである。・・・日本の新聞は明らかに感傷的な共感をこめて三派全学連の『闘争』を囃していた。だが、東京の大学紛争など比較にならない本物の戦争の現場でそれを読むと、正直のところ阿呆らしかった。まだしもアメリカの若者はベトナムの戦場へ行くか投獄されるかの瀬戸際に立って徴兵令状を焼いている。そのために逮捕されている。だが日本では『ベトナム特需で儲ける企業には行きません』と言って採用内定通知書を焼く学生は一人もいない。・・・『いいじゃないの幸せならば』という歌が流行しているという。・・・三島さんでなくても『けつこうな国ですねえ』と言いたくなる・・」

ちなみに、雑誌「諸君!」の巻頭コラム「紳士と淑女」は、1980年より始まっておりました。

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母の嗜みと溜息。

2009-09-08 | Weblog
松岡正剛著「日本という方法」(NHKブックス)を読みました。
日本の歴史文化を俯瞰しながら、
「本来」と「将来」という2つのキーワードを、器用に、まるで箸のようにあやつって、
日本史という生きのよいお刺し身を、テーマごとに盛り分けて提示してゆきます。素材は日本。料理人は松岡正剛。一夜のフルコースの醍醐味を味わえるかどうか。新鮮な読者の味覚を開拓してくれております。
日本の歴史全体を見渡す視点は、鯛でいえば、尾頭(おかしら)つき。
スーパーで切り身のパックを普段見慣れている当方にとっては、それだけで何やら、こちらの居住まいが正されるよう。
まるで普段着で、祝宴にまぎれこんでしまったけれども、そうしたとまどいも、祝宴のスピーチに聞きほれて、すぐに忘れてしまうような始末。

そういえば、小林秀雄著「本居宣長」のチンプンカンプンを、わかりやすく解き明かしてもらったような読後感が、私にはありました。さて、読後に要約しようとすると、これが、鯛の頭と骨と尾が残っている構図しか思い浮かばなかったりします(笑)。ということで、要約なんかしないことにして、松岡氏の「母の溜息」が登場する箇所を引用して終ります。

「公家社会に武家が交じってくると、無常はそこらじゅうに充満していて、むしろその無常をどのように変じていくかという苦心工夫のほうが目立ってきたほどなのです。こうして『山川草木悉皆成仏』や『己心の浄土』の感覚は、その後の日本の遊芸、すなわち能、連歌、茶の湯、立花、作庭、陶芸など、まことに広い分野で生かされていきます。私の母は茶や花や俳諧などいろいろ嗜んでいた人ですが、景色のよい茶碗や見事に活けてある花を前にすると、しばしば『ええ浄土やなあ』と溜息をついていたものでした。日本の浄土はかくのごとく悉皆浄土(しっかいじょうど)となっていったのです。」
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明治37年東京府。

2009-09-06 | 幸田文
幸田文・・明治37年(1904年)南葛飾生まれ。現・墨田区東向島
辰巳浜子・・明治37年(1904年)東京・神田生まれ。
清水幾太郎・明治40年(1907年)日本橋生まれ。
安藤鶴夫・・明治41年(1908年)浅草生まれ。
山本夏彦・・大正4年(1915年)下谷根岸生まれ。
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中断読書。

2009-09-05 | Weblog
古本ソムリエの日記を見ていたら、
草森紳一著「本の読み方」の書評がありました。

そこに、

「草森紳一は、読書についても、彼らしい考えを持っている。読書は中断が面白いという。読書は、中断の連続であり、別な所へ引きずりこまれたり、考え込んだりする、そこのところがいいのだというのだ。草森氏にとっては、これこそが一日たりとも本を手から離せない大きな理由なのだそうだ。」


私は中断するとそこで、即そこで途絶読書(笑)。
そこが、ちがうなあとおもいながらも、
「読書は中断が面白い」という言葉は、
私みたいなパラパラ読みにはお墨付き。
もっとも、私にはこれしかない。
一冊最後まで読み通す実行力がない。
という、ないないづくしの私であります。
それでもいいのだよという、お墨付き。
ということで、ありがたや。ありがたや。
ハイ、ありがたい言葉。
草森紳一著「本の読み方」は、これにて、買わずに御免。
ということにいたします。
ということで、これでいいのだ。
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キュウリ。

2009-09-05 | 幸田文
司馬遼太郎著「風塵抄」に、28「表現法と胡瓜」という文あり。

昨日、なめこ味噌汁をとりあげたので、きょうは胡瓜(笑)。

司馬さんの文の最後の方に黄色い胡瓜について、
「戦国末期ぐらいまでの日本は、胡瓜は黄に熟れてから食べたらしいのである。
当時、滞日したイエズス会士ルイス・フロイス(1532~97)というポルトガル人の宣教師が、その文章のなかで、【胡瓜はヨーロッパでは未熟の青いのを食べるのだが、どういうわけか、この国では黄に塾してから食べる】とくびをひねっている。」
とあります。そしてそのあとに、

「・・・・江戸時代になると、青いままで食べるようになった。その証拠がある。胡瓜は、夏の季題である。いまとはちがい、胡瓜のシュンはみじかく、これが出はじめると八百屋の店先が黄でなくみどり色であふれた。以下は、辞典で知った当時の俳諧だが、

    胡瓜いでて市(いち)四五日のみどりかな

という句があるそうである。胡瓜の青さの寿命はみじかい。・・・」


司馬さんの文の中頃には、こうもあります。

「中国の現代史で、プロレタリア文化大革命というのは、毛沢東が演じた病的な政治現象だった。このため中国の発達は五十年遅れた、といわれている。
その時期の最後のころ、私は中国に行った。場所は中国領シルク・ロードのあたりである。そばに、タクラマカン大沙漠がひろがっていて、うっかりこの沙漠に水なしでまぎれこむと、人間がスルメのように乾いてしまうのである。なにしろタクラマカンとは【入ると出られない】(ウィグル語)という意味がある。ところで、そのむこうに、中ソ国境がある。
『この間も、ソ連からきたスパイをつかまえました』
と土地の共産党幹部がいった。スパイというのは、ウィグル人の老人とその孫の少年で、この二人は沙漠をこえてきた、とその幹部がいう。どこかとぼけた話なのだが、スパイである証拠は、胡瓜だという。袋に食べのこしの胡瓜が入っていたというのである。右はプロ文革当時の思い出の一つである。それはさておき、沙漠の旅の必携品は、胡瓜であることをこのとき知った。胡瓜が水筒がわりになる。
胡というのは、中国人が古来、周辺の異民族全体に対してそうよんだ。胡という語感に、デタラメとかトリトメナイというひびきが古来あり、いまでも中国語で、フーホワ(胡話)といえばたわごと、フーイヤン(胡言)といえばでたらめ話という意味になる。」


河童に胡瓜という連想が、おもわずはたらきました。

さて、司馬さんの文のはじめが、魅力がありました。
こんな箇所があります。

「・・この欄に書くべきことを思いつかぬままテレビをつけると、
『酢の物は、歯ぎれがかんじんです』
と、まことに本質を射ぬいたことばが、とびこんできた。
土井勝さんの料理の時間だった。
私は料理がわからないものの、
この人の表現力には、毎度感心する。
たれにとっても、表現は本質的であるほうがいい。
それに、短ければ短いほど、ことばというものは光を増すのである。
さらには、論理に密着しつつ、感覚的であるほうがいい。
右の場合、歯ごたえまで感じられそうである。」

ついつい、おもしろくて後ろから前へと引用してしまいました。
料理と表現。
というのは、なにやら面白そうだなあ。
幸田文からはじまって、台所・料理と結んでゆくと
なにやらアンソロジーができそうな気がするのでした。
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なめこ味噌汁。

2009-09-04 | 幸田文
幸田文は、1904年(明治37年)生まれ。
辰巳浜子は、1904年の東京・神田生まれ。

ところで、
8月の最終週に、なめこ味噌汁を食べました。
なめこ1パック100円。う~ん。最近食べたことがなかった。
また、家族で食べる、なめこ味噌汁は格別。

え~と、
辰巳浜子著「みその本 みその料理」(文化出版局)が
最近(2009年5月)、再構成されて出版されておりました。
昭和47年に出た本です。

そこに、こんな箇所がありました。

「日本に長く生活しておられる外人の中には、みそ汁が大好きで、しじみの赤出しや、なめこと豆腐汁をすばらしいすばらしいと言われる人が大勢います。天然醸造品ならばこそです。」(p23)


ちなみに、辰巳浜子氏は1904~1977(昭和52)年。73歳で亡くなっております。
「まだ初期のNHKテレビ【きょうの料理】などに登場し、料理研究家のさきがけとされる」とあります。

う~ん。なめこの味噌汁。



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古本購入。

2009-09-02 | Weblog
安藤鶴夫作品集全6巻。
古本屋から届きました。
送料込で6840円。
横浜の西田書店。月報もすべて揃って有難い。
函が少し変色したぐらいで、本自体は良好。
後は、読むだけなのですが(笑)。
まあ、読み終わる見当がつかないので、
まず、購入しました。と、そそくさと、書き込み。 

2巻目。本の頁が多少水を含んでゆがんでいました。
だから、安かったんだ。という程度。
活字が、小さく感じます。
ちょっと、読みにくそう。
文庫の方が、読みやすそう。
それでも、作品集。月報を読んでると、
人となりの輪郭がわかってくるようで、
だんだんと身近に感じてきます。

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なアに自分は自分。

2009-09-01 | 幸田文
KAWADE道の手帖シリーズの「安藤鶴夫」(河出書房新社)。
そこに「安藤鶴夫単行本未収録コレクション」と銘打って、その最初に「落語三題」という文が載っておりました。そこにこんな文がある。

「・・・【鰍沢】といえば、ぼくなどでさえ聞いたこともない亡き三遊亭円喬をすぐ思い出すほど、たいした鰍沢だったらしいが、円生は三越の舞台で、子供時代に円喬の鰍沢を聞いて、時分もこんな落語家になりたいなと思ったという話をマクラに振って、しかし円喬は円喬、自分は自分、なアに円喬なんか糞オ食えという気がなくては、とてもこんなうるさ方の客ばかりの三越名人会なんかで鰍沢などやれるものではないと、そんなことをいって笑わせたり、また自分の気を楽にして芸にかかるといった一種の構えからばかりではなしに、多少の真剣味を持って、そんなマクラを振っていた。
なる程、御尤もである。
結局、ぼく自身のことにしても、あれだけ立派な仕事を他人(ひと)様がしているのだから、なにを今更ら自分なんかがと思ったひには、一言半句、ものなど書いてはいられないことになる。
他人のいいことを十分に認めて、その上でまたなアに自分は自分という気構がなくては、一日だって生きてはいけないことになる。」(p24)


うんうん。安藤鶴夫著「わが落語鑑賞」を読んでいると、落語を文字に書きかえているわけなのですが、たしかに「なアに自分は自分」といっている安藤鶴夫が、この本にはいるのがわかるのでした。

ついでに、
この冊子には大佛次郎氏の文が載っているので、それも引用。
安藤鶴夫作品集1の月報に載った文だとあります。
題は「安鶴さんと『苦楽』」。
「苦楽」とは昭和21年11月創刊~24年7月終刊の雑誌。

「・・・戦後文学史に『苦楽』の名が出たのを見たことがない。三号で消えた新しい同人雑誌のことは書いてあっても、新しい運動でないから『苦楽』を見なかったのだろう。古い日本の残照だった老大家の落着きはらった仕事が、どれだけ戦後の日本人の感情の渇を癒したことか、私は現在も自慢に思っているくらいである。・・・少し雑誌の調子が硬くなったから、柔くしようと云うので、私は落語を連載することを思立った。これも、実際に滅亡しようとしていたのだし、江戸から明治にかけての口話文、特に下町の言葉として、早く正確に保存の道を考えたいとの頭もあった。現在のような落語の繁昌を考えられず、また今日のようにまだ落語が悪く崩れない時代だったので、東京の言葉をとらえることが、まだ出来た。昔の速記の形式でなく、音や語調を文字に出せるものならと、須貝君に誰がよかろうと相談したら、東京新聞にいる安藤さんですねと云う返事、私もあのひとかと思っていたところで、早速安藤さんに頼んで桂文楽の話したままを筆に写して貰って連載・・・
安藤さんの落語鑑賞は、古い速記の上に出るもので、現在でも貴重だが、後世になるほど国文学者も注意しなければなるまい。書いた文章と違って、話言葉は、口うつしより外、残らない。途中で消えたり訛って便利一辺に変化して毀れて仕舞うのである。安藤さんは実に身を空しくして、慎重に注意深く聞き、それを文章にどう書くかに苦労した。・・・・安藤さんは他の人間では真似出来ぬ好い仕事をいろいろと遺して行ってくれたので、有難い。」(p59~60)


ということで、古本屋からは今だ返事がこないけれど、
安藤鶴夫作品集全6巻を注文しておいたのでした。

ちなみに、
幸田文は、明治37年・1904年の南葛飾生まれ。
安藤鶴夫は、明治41年・1908年の浅草生まれ。
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