和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

蛮勇引力。

2010-04-14 | 短文紹介
昨日は、何か眠かった。昼間に人前で、大あくび。

外山滋比古著「日本語の論理」を読み始めたところ。

水曜日は、産経新聞の連載「曽野綾子の透明な歳月の光」を気がむくと楽しみよんでおります。
ということで、今日のコラムはどうか。こんな箇所がありました。

「私が70代で一番冴えたのは、人間観察の度合いだという気がする。私も若い時は人並みに単純で、文化とか正義とか数字とかで、ものごとを割り切るところがあった。60代半ばから約10年間勤めた日本財団でやったことは、最初の日から今をはやりの『事業仕分け』、普通の言葉で言えば合理化だった。『事業仕分け』は他人にやってもらうことではない。あれはごく普通の健全な精神ならば誰でも行う自浄作用である。
同時に私は『全体を観る』ことを若い職員からも教わった。組織の不可思議といいたいほどの全体的な機能、人の心の複雑さ、他者はどう見るかという客観性と他人の眼を振り払って意志を通す一種の『蛮勇』とのバランス、言葉は穏やかな武器であること、などを自覚した。
そして人は70代で、それらの体験と迷い、成功と失敗、現実と哲学が、もっとも豊かに融合し合う目利きになれる。70代はバカにするどころか、恐ろしい年代だ。私はまだ80代を生きていないので、とりあえず70代までの報告をする・・・」

このコラムのはじまりはというと、

「新党『たちあがれ日本』が立ち上がったという報道を読んだ。」でした。

ちなみに、今日の私が気になったのは、曽野さんのこの箇所。

    同時に私は『全体を観る』ことを
    若い職員からも教わった。
    組織の不可思議
    といいたいほどの全体的な機能、
    人の心の複雑さ、
    他者はどう見るかという客観性と
    他人の眼を振り払って意志を通す
    一種の『蛮勇』とのバランス、
    言葉は穏やかな武器であること、
    などを自覚した。
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今週の本棚。

2010-04-11 | 短文紹介
毎日新聞2010年4月11日。つまり今日日曜日の「今週の本棚」をひらくと、
あれれ。買いたい本が並んでおります。
井波律子評による。
  鶴見俊輔の2冊
   「言い残しておくこと」(作品社 2520円)
   「思い出袋」(岩波新書 798円)

岩波新書の方は、岩波の年間購読誌「図書」に連載されていたものらしい。
前半の50回ぐらいは読んでいた気がします。それが新書になったもののようです。
これ、とりあえず買いたいなあ。

鹿島茂評は
 小西甚一著「古文の読解」(ちくま学芸文庫 1575円)

なかに「解説の武藤康史によると『古文研究法』と『国文法ちかみち』を圧縮したような内容のうえ、著者と受験生が会話する文体で書かれているという。」

またこんな箇所「この語義記憶法に英語が使われているところから想像がつくように、小西甚一の古文解釈法は外国語学習の成果を応用した面が多分に強かった。すなわち、英語やフランス語を学ぶときのノウハウを使えば、古文は容易に理解できるという観点である。」

こう鹿島氏は丁寧に書評しております。
ちなみに鹿島氏の書評のはじまりも、引用しておきましょう。こうはじまります。

「『還暦すぎたら岩波文庫、それも赤帯(海外文学)じゃなくて、黄帯(日本古典)ですね』とは『今週の本棚』のレギュラー執筆陣だった故・向井敏さんの述懐だったが、私も昨年の十一月に還暦を迎え、日本古典回帰が始まったようだ。しかし、いざ岩波文庫の黄帯を買い込んでも現代語訳はついていないから往生する。古語文法などすっかり忘れてしまっているからだ。・・・」


そして、買いたい本に
 山折哲雄著「愛欲の精神史 全3巻」(角川ソフィア文庫  740~900円)
こちらは、張競さんの評。いかにも読みたくなる書評なのでした。


以上書いておけば、とりあえず、買わないでもいいか。
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オーデン。

2010-04-10 | 詩歌
オーデンの蔵書があったので、
段ボール箱から、取出してみました。

 オーデン詩集 深瀬基寛訳 せりか書房
 染物屋の手  中桐雅夫訳 晶文社
 オーデンわが読書 中桐雅夫訳 晶文社
 第二の世界  中桐雅夫訳 晶文選書21

私がもっているのは、これくらい。
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腐敗性物質。

2010-04-09 | 詩歌
田村隆一著「腐敗性物質」(講談社文芸文庫)のことを思い出したのは、
マイケル・ディルダ 高橋知子訳「本から引き出された本」(早川書房)を開いていたときだった。そこにW・H・オーデンの言葉が引用してあったのでした。

「不信、報われない愛、死別、歯痛、腐敗した食物、貧困、こういったものは、人がひとたび手記を書きはじめるや、なんら問題ではなくなる。」(p201)

ここにあるところの「腐敗した食物」という箇所。
そういえば、と「腐敗性物質」が思い浮かんだのでした。

W・H・オーデンには「染物屋の手」という評論集があり、内容はすっかりわすれましたが、印象だけは残っております(笑)。
このマイケル・ディルダの本の「はじめに」で、こんな箇所がありました。


「さまざまな書物を蒐集しながら思っていたのは、おこがましいかもしれないが、シリル・コナリーのThe Unquiet Graveやロバートソン・デイヴィスのA Voice from the Attic 、W・H・オーデンのA Certain Worldと同じ書架に並べてもらえる本を書きたいということだった。ともあれ私が目指したのは、古代ローマの詩人、ホラティウスの信条『愉快で有益』に倣って、熟読や拾い読みや再読、いずれにも応えられる本である。」(p13)


さてっと、田村隆一の詩をひとつ。

     水
  
  どんな死も中断にすぎない
  詩は「完成」の放棄だ

  神奈川県大山(おおやま)のふもとで
  水を飲んだら

  匂いがあって味があって
  音まできこえる

  詩は本質的に定型なのだ
  どんな人生にも頭韻と脚韻がある



この詩を思い出したのも、「本から引き出された本」のp156

  詩に完成はない、断念あるのみだ。 ―― ポール・ヴァレリー

という引用を見たせいです。


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嬉しかった。

2010-04-07 | 手紙
「詞花集」をお送りした方から、はがきが届きました。
うれしいなあ(返事は四人目。はがきは二人目)。
「・・面白く読ませて頂きました。読書の範囲が広く、しかもそれが輪のようにつながって次々に展開して行く様子、発想が独得です。・・・・私が昔関わりを持った人の言葉や作品の名が出て来たりして驚き、また懐かしく思いました。・・・・」

詩を語るのに詩を書かれる方へ、お送りしたのがよかったのかもしれません。
おかげで、返事がもらえました。うれしいなあ。


渡部昇一著「国民の見識」(到知出版社)読了。

マイケル・ディルダ 高橋知子訳「本から引き出された本」(早川書房)が
今日届く。日めくりカレンダーの貴重な格言が、テーマごとにならんでいるような、なんとも楽しくなる一冊。うん。ちょっとたとえが悪いなあ。こういうときは引用するにかぎりますね。
では

「人間としての成熟 ―― それは子供のころ、遊んでいたときに見せた真剣さをふたたび得たことをいう。(フリードリヒ・ニーチェ)」(p54)


「『いい本』を押しつけるのはやめよう。学校で読むように言われた本が、どれほどつまらなかったか憶えているだろうか。ニューベリー賞やコレッタ・スコット・キング賞を受賞したというだけで、子供に無理やり読ませることほど、小説のおもしろさを損なうことはない。ロアルド・ダールが適確なことを言っている――子供向けの本でほんとうに大切なのは、『読書は非常に楽しいものだと子供に思わせる』くらいおもしろいことだ。」(p123)


「芸術の目的は瞬間的なアドレナリンの放出ではなく、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することである。 (グレン・グールド)」(p154)

「詩に完成はない、断念あるのみだ。  (ポール・ヴァレリー)」(p156)

「真の批評が追求するのは、証明ではなく指摘である。 (E・R・クルツィウス)」(p157)


「・・・実のところ、現代の詩を楽しむいちばんの方法は、雑誌を拾い読みしたり、ニュース報道を聞いたり、会話を立ち聞きしたりしているつもりで読むことだ。大げさに考える必要はない。言葉なり内容なりを、ただ楽しめばいいのだ。批評家のマーヴィン・マドリックはこう言っている。『理解するために読むのではない。楽しみのために読むのだ。理解は楽しみの産物である』。すべての詩を読んだあとで、強く印象に残った詩に戻り、何度でもじっくりと味わうといい。」(p188)


ついつい詩についての引用になりました。
うん。はがきの返事をいただいたときに、
「面白く読ませて頂きました」とあったのが嬉しかった。
今日は午後から雨。午後6時から話し合い。
意思疎通は難しく、言葉はぶっきら棒に口からでてくる。
めげることは多いのですが、
返事のはがきを思うと嬉しさが戻ります。
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戦線拡大路線。

2010-04-06 | 短文紹介
産経新聞2010年4月6日の一面コラム「くにのあとさき」は湯浅博氏。
うん。とうなずく文章なので引用。
はじめはというと

「政権の中枢に坐る人物が、自国の来年度予算を『こんな予算、戦争末期並みだ』と反省しているそうだ。そればかりか、『この国は続くのだろうか』と不安げに語ったという。そんな指導者らを抱えた国民はお気の毒にと思う。・・・
名を仙谷由人という。われら凡夫が思うところを、政府の当事者が正直に語っているらしい。・・・
税収の37兆円に対して新規の国債発行額が44兆円ナリ。収入より借金の方が多いのは、実質、戦後初めてだから異常なのである。
当の閣僚が『こんな予算は戦争末期に軍事費がふくれあがったときしかなかった』と、テレビ番組の収録でいう。仙谷さんはやはり、正直な人なのかもしれない。」

 ここから、昔の話になるのでした。

「その昔、北京郊外の盧溝橋事件に際し、財源を無視して『よし行け』といった陸軍の事変拡大派と民主党主流が同じにみえる。財源が底をついているというのに、党主流は『よし行け』と、子ども手当だの高校授業料無償化だの戦線をどんどん拡大していく。
しかし、あの昭和12年7月、盧溝橋付近で起きた事件の第一報を聞いた陸軍参謀本部第一部長の石原莞爾は『困ったことをしてくれた』とつぶやいた。事変の衝撃に石原は、『作戦計画はつくっておるが、戦争計画はないじゃないか』と述べた。国力を10倍にするまで戦争をすべきではないと考えていた。なぜか。
当時、陸軍省の軍事課にいた中原茂敏によると、広田弘毅内閣は陸軍が昭和17年までに41個師団をつくり、航空142中隊を創設する戦争計画だったという。ところが、41個師団をつくろうというのに、弾薬の整備は7・5師団の会戦分しかなかった。1会戦分は3ヵ月だから、7・5師団が3ヵ月間やれるだけの弾薬をつくる計画でしかない。
石原は拡大派が主張する『数ヵ月で蒋介石政権は崩壊する』どころか、自給自足ぶりからみて中国側に『持久戦争にきわめて有利な条件がある』と判断していた。しかし、陸軍内部は兵站(へいたん)を無視する拡大論者が圧倒した。・・多勢に無勢である。
やがて石原は、拡大派の東條英機と対立して左遷されたうえ、予備役に編入される。当時の日本は国力以上に戦線を拡大し、自滅の戦争にのめりこんでいった。
・ ・・・・・・
民主党政権は緊急時に使うべき特別会計積立金を使い果たし、国債という禁断の借金を子や孫の世代に残した。この調子で、再来年度予算でも戦線を拡大しそうだ。またも国債に頼れば、わが財政は破綻する。・・・」


ついつい引用が長くなりました。
今日の新聞ですから、御覧になられると、よいのですが、
ここから、渡部昇一著「国民の見識」(到知出版社)へとつなげてみたいのですが、
ここまで。
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国民の見識。

2010-04-05 | Weblog
渡部昇一著「国民の見識」(到知出版社)を読み始めたところ、ちょうど半分ぐらい。
わかりやすい指摘が参考になる。ていねいに引用したいので、また明日。
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出陣式。

2010-04-04 | Weblog
今日は、出陣式の司会。
午前中は、それ。
夕方、6時よりは、消防団の歓送迎会。
風邪気味なので、七時半に帰る。
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「敬語」と朝日新聞。

2010-04-03 | 朝日新聞
谷沢永一著「完本 巻末御免」(PHP)をさっそく手にとっております。
完本といえば、この前に徳岡孝夫著「紳士と淑女」の完本が出たばかり。
もっとも徳岡氏のは新書でした。谷沢氏のは全300コラムを一挙掲載。
さてっと、せっかく二冊を並べて共通項をさぐってみましょう。

たとえば、朝日の敬語について、
谷沢永一著「完本 巻末御免」の125『敬語』(平成7年五月号)。
うん。最初から引用。

「朝日新聞は皇室に対して一切の敬語を用いないと定めたらしい。天皇皇后両陛下が阪神大震災の被災地をお見舞いなされた記事の見出しが『両陛下、阪神見舞う』(二月一日)である。以下の本文では『兵庫県入り』『被災者を見舞い』『同日夜、帰京した』『などと声をかけた』『菅原市場を訪問』『深々と頭を下げた』『スイセンの花束を供えた』『被災者を励ました』という調子であり、片鱗たりとも敬語を使わないぞとの固い決意が漲っている。」

うん。もうすこし引用をつづけましょう。

「皇太子と妃殿下が合同慰霊祭に参列された場合の記事(三月六日)は二十行で片付けた。見出しは『皇太子ご夫婦慰霊祭に参列』であって妃殿下という敬称は忌避する意向であるらしい。本文では『訪れ』『参列』『励ましの言葉をかけた』『などと声をかけた』『手を握り、お礼を述べた』とこれまた一貫している。記者が偶然に、粗末な言葉遣いをしたのではあるまい。徹底的に敬語を排除するぞと思い定めた方針であるらしい。」


ここまでが前半で全体の半分を引用。
あとは最後の3行を引用しておきましょう。

「そして日本語に伝統的な敬語表現を温存したいと願い言葉に膨らみを求める駘蕩(たいとう)派は朝日新聞の購読を停止するのが妥当は措置であると考える。」


私が思いうかべたのは、「紳士と淑女2 1994~1996」(文藝春秋)にある1994年8月号(94年6月)『天皇陛下は田植えをした』でした。
では、そこからの引用。

「ごく短い記事なので、見出しと記事全文を引用する。
『皇居で恒例の田植え  天皇陛下は二十五日午後、皇居の生物学研究所のわきにある水田で恒例の田植えをした。植えたのは、うるち米にニホンマサリと、もち米のマンゲツモチの二種。稲は九月下旬から十月初旬にかけて刈り取られ、新嘗祭などに使われる』(「朝日」5月26日)
これに比べ、二十年前は左(以下)のようだった。
『陛下がお田植え  天皇陛下は十三日午後一時半から皇居内の水田で、恒例の田植えをされた。ワイシャツの腕をまくり、長グツをはいた陛下は、モチ米の『埼玉十号』『オオザネモチ』ウルチ米の『コシヒカリ』を植えられたが、秋に刈りとられた米は、伊勢神宮や、皇居内の神嘉殿に供えられる』(『朝日』昭和49年5月14日)」

このあとに「紳士と淑女」の著者徳岡孝夫氏はこう書いております。

「日本語の美しさの一つは、複雑な敬語の使用にある。
日常会話においてさえ、敬語の使い分けのできない者は日本人と見なされない。
一方、敬語は微妙な武器でもあって、全く省くことによって言外に侮蔑を匂わすことができるのである。二十年前の『朝日』は、まだしも最小限の敬語を使っていた。いらい憲法が改正されたわけでもないのに、いまでは皇室の行事から厳密に敬語を抜くことに決めたらしい。今年の記事からは天皇への侮蔑さえ、ほんのり感じられる。これが国家国民の象徴である方に対する言葉遣いだろうか。
お田植えへの敬意がなければ、昨年凶作に喘いだ農村への同情も完全なものとならないのではないか。他の新聞には敬語がある。『朝日』と『毎日』だけに見る侮蔑の語調は、いったいどうしたことだろう。」


ところで、徳岡孝夫氏のは1994年8月号でした。
そして、谷沢永一氏のは1995年5月号です。
こんなことは、どなたもがいわれていることなのでしょうが、
わたしは、徳岡孝夫氏に先陣の軍配をあげたくなるのでした。
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こどもとしょかん。

2010-04-02 | 短文紹介
東京子ども図書館から出ている
「こどもとしょかん」という雑誌が気になっておりました。
え~と、以前に石井桃子氏についても語られていた特別号・
「かつら文庫の50年 記念行事報告」(別冊こどもとしょかん)
を購入したことがあり、それでいつか機会があればと思っておりました。

すると、15冊(2006年~2009年)が
送料共で2300円という古雑誌が目にとまりましたので、
ネットにてさっそく注文。一冊が153円ほどなので、
お気楽にめくるのには都合がいいと、そう思ったわけです。

とりあえず、「こどもとしょかん109」2006年春号を
ひらくと、最初に
「新任児童図書館員のためのブックリストの試み」という
松岡享子氏の図書館講座の報告文が載っております。
そこに登場するのがプラット図書館。
そこにこうあります。
「新任の児童図書館員は、着任と同時に、児童部長から『ベーシック・リーディング・リスト』なるものを渡されます。これは、『児童図書館員として読んでおくべき本』のリストで、対象年齢、ジャンル別に分けられた子どもの本約二百七十冊と、『バックグラウンド・リーディング』として、児童文学や子どもの読書に関する本二十冊、それに事典、索引等レファレンスのツールになるもの八種の、全部で三百冊の本があげられています。
新人は、これらの本を読み(読む順番は問わない)、児童部長とアポイントメントをとって、読んだ本について、一対一で話し合うことが課せられています。原則として着任から二年以内にすべての本を読了することが求められており、そのためには六週間に一度『個人授業』を受ける必要があります。
私の実際に受けた感じからいうと、一時間ほどの、この『個人授業』は、先生から教えられるというよりは、同僚同士好きな本について話し合うといった、堅苦しくない雰囲気のうちにすすめられ、たのしいものではありましたが、長いキャリアをもつ部長が、惜しみなくその経験を分かち合ってくれ、若い私には学ぶところの非常に大きいものでした。」

という箇所が印象に残ります。

この本にはまた、
「児童図書館員の仕事を理解するために、まず読んでいただきたい本を選んでみました。」とあり「第10期子どもの図書館講座の参加者23名が選んだ、新任児童図書館員に手渡したい本23冊とその解題です。」
という本の紹介が掲載されております。
そこからひとつ
「子どもと文学」(中公文庫)の解説を、ちょいと引用しましょ。

「・・・・刊行から四十年余り経っているが、日本児童文学の歴史と特徴の捉え方や、子どもの文学で重要な点は何かについての考察など、今日でも子どもの本の見方の基本として学ぶところが大きい。日本の児童文学は、欧米と比べて『情緒過剰』であるとの指摘には、今なお頷かされる。(千葉慶吾)」(p16)
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魚をさばく。

2010-04-01 | Weblog
外山滋比古著「頭の旅」(毎日新聞社)に
魚について語った箇所がありました。

「・・・生きのいい丸のままの魚が家庭では歓迎されなくなった。さわるのもいやという奥さんが多い。魚屋がこぼす。オカシラつきを並べておくと、お客さんが、ちょいと、その頭、はやく落として・・目がにらんでいるみたいで、気味がわるいじゃないの、などと言われる。これじゃオカシラつきも台なしで、そのせいか尾頭は「お頭」と書くのだと思っている人もいる、という。
いまのこどもは魚が好きでない。どうしてかときくと、骨がある、骨のない肉の方がいい、と答える。なんでもこども本位の家庭だから、かくて魚は敬遠されることになる。たまに魚だといえば切り身か、さもなければ、エビやイカ。これなら骨なしだ。
・・・・
食い道楽のおじがいて料理自慢であった。お祭りで魚を仕入れてくると庭先へ桶とマナ板を持ち出してさばいて見せる。集まってきている親類中のこどもがしゃがんで円陣をつくって見まもる。息をこらしている。終わってしまうと口々にためいきのような声を出した。なかでも私はおじの包丁さばきを崇拝していたように思う。おかげで、いつとはなしに魚の扱い方を覚えたようである。・・・」(p126~127)


産経新聞2010年4月1日のコラム正論に平川祐弘氏が「マグロを機に日本文化の主張を」という題で書いているのを見たら、つい読んで印象に残っていた、外山氏の文を思い浮かべたりしたのでした。
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