到知出版の本が気になりはじめたので、
とりあえず渡部昇一著「幸田露伴の語録に学ぶ自己修養法」を手にとってみました。
その「はじめに」と「おわりに」ならば、私にも紹介できそうです(笑)。
その「おわりに」で、こんな箇所があります。
「露伴も同じである。露伴も社会主義の影響を受けない人であった。新渡戸稲造もそうであった。これらの人たちは、自己を反省し、自己の修養によって自らの価値を高めていくことしか考えなかった。社会主義という、基本的に人をあてにする思想とは正反対なのである。」(p253)
そして、最後はこうでした。
「お読みになった方は、もしかすると古い話と感じられたかもしれない。しかし、これこそがこれからの未来に向けて一番新しい考え方になりうるのだということを、ぜひともご理解いただきたいと思うのである。」(p254)
では、「はじめに」にもどって、
「私が上智大学に入学したとき、上智は学生が四、五百人ぐらいの、今なら塾ぐらいの規模の学校だった。・・・わかりやすい例を挙げれば、どこの学校でも同窓会長というのは卒業生の出世頭のような人がなるものだが、その頃の同窓会長は三井銀行の支店長をしていた人であった。そういう人が俗世間における上智大学の出世頭であったわけである。学界においても、英文科の先生が翻訳を一、二点出していたという程度のものだった。したがって、卒業生を見て、自分にはこの道があるという見当をつけることは全然できなかった。神藤先生のように、それから露伴のように、自分で本を読んで自分の人生を考えるというコースしかなかったのである。しかし私は、それが自分の人生を非常に豊かにしてくれたように思う。ゆえに私は、大学の教師になってからも、しきりにそのようなことを書くようになったのである。
あるとき東大の平川祐弘(すけひろ)先生が私の随筆を読んでくださって、そこで私が紹介していた本を取り上げて『なかなか珍しいものがあっていいが、修養的なことは余計な話だ』というようなことを述べられたことがある。平川先生が修養的なものは余計だとおっしゃるのは、私にはよくわかる。平川先生は、本当に立派なコースにお乗りになった方である。こういう方は、露伴や神藤先生や私のような形での人生への向かい方はしないのである。
ところが、現実には平川先生のような出世コースに乗った生き方ができる方は少数であり、大多数の人間は常に自分で工夫をし、自分で努力をし、自分で修省しながら人生を送らざるをえない。だからこそ、露伴を読み、露伴に学ぶことがあるのである。」(p9~10)
さてっと、こうして前書きと後書きだけしか、私は読んでいないのでした(笑)。
うん、本文を読むのはいつか。
とりあえず渡部昇一著「幸田露伴の語録に学ぶ自己修養法」を手にとってみました。
その「はじめに」と「おわりに」ならば、私にも紹介できそうです(笑)。
その「おわりに」で、こんな箇所があります。
「露伴も同じである。露伴も社会主義の影響を受けない人であった。新渡戸稲造もそうであった。これらの人たちは、自己を反省し、自己の修養によって自らの価値を高めていくことしか考えなかった。社会主義という、基本的に人をあてにする思想とは正反対なのである。」(p253)
そして、最後はこうでした。
「お読みになった方は、もしかすると古い話と感じられたかもしれない。しかし、これこそがこれからの未来に向けて一番新しい考え方になりうるのだということを、ぜひともご理解いただきたいと思うのである。」(p254)
では、「はじめに」にもどって、
「私が上智大学に入学したとき、上智は学生が四、五百人ぐらいの、今なら塾ぐらいの規模の学校だった。・・・わかりやすい例を挙げれば、どこの学校でも同窓会長というのは卒業生の出世頭のような人がなるものだが、その頃の同窓会長は三井銀行の支店長をしていた人であった。そういう人が俗世間における上智大学の出世頭であったわけである。学界においても、英文科の先生が翻訳を一、二点出していたという程度のものだった。したがって、卒業生を見て、自分にはこの道があるという見当をつけることは全然できなかった。神藤先生のように、それから露伴のように、自分で本を読んで自分の人生を考えるというコースしかなかったのである。しかし私は、それが自分の人生を非常に豊かにしてくれたように思う。ゆえに私は、大学の教師になってからも、しきりにそのようなことを書くようになったのである。
あるとき東大の平川祐弘(すけひろ)先生が私の随筆を読んでくださって、そこで私が紹介していた本を取り上げて『なかなか珍しいものがあっていいが、修養的なことは余計な話だ』というようなことを述べられたことがある。平川先生が修養的なものは余計だとおっしゃるのは、私にはよくわかる。平川先生は、本当に立派なコースにお乗りになった方である。こういう方は、露伴や神藤先生や私のような形での人生への向かい方はしないのである。
ところが、現実には平川先生のような出世コースに乗った生き方ができる方は少数であり、大多数の人間は常に自分で工夫をし、自分で努力をし、自分で修省しながら人生を送らざるをえない。だからこそ、露伴を読み、露伴に学ぶことがあるのである。」(p9~10)
さてっと、こうして前書きと後書きだけしか、私は読んでいないのでした(笑)。
うん、本文を読むのはいつか。