和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

一番新しい。

2010-06-16 | 前書・後書。
到知出版の本が気になりはじめたので、
とりあえず渡部昇一著「幸田露伴の語録に学ぶ自己修養法」を手にとってみました。
その「はじめに」と「おわりに」ならば、私にも紹介できそうです(笑)。

その「おわりに」で、こんな箇所があります。

「露伴も同じである。露伴も社会主義の影響を受けない人であった。新渡戸稲造もそうであった。これらの人たちは、自己を反省し、自己の修養によって自らの価値を高めていくことしか考えなかった。社会主義という、基本的に人をあてにする思想とは正反対なのである。」(p253)

 そして、最後はこうでした。

「お読みになった方は、もしかすると古い話と感じられたかもしれない。しかし、これこそがこれからの未来に向けて一番新しい考え方になりうるのだということを、ぜひともご理解いただきたいと思うのである。」(p254)

 では、「はじめに」にもどって、

「私が上智大学に入学したとき、上智は学生が四、五百人ぐらいの、今なら塾ぐらいの規模の学校だった。・・・わかりやすい例を挙げれば、どこの学校でも同窓会長というのは卒業生の出世頭のような人がなるものだが、その頃の同窓会長は三井銀行の支店長をしていた人であった。そういう人が俗世間における上智大学の出世頭であったわけである。学界においても、英文科の先生が翻訳を一、二点出していたという程度のものだった。したがって、卒業生を見て、自分にはこの道があるという見当をつけることは全然できなかった。神藤先生のように、それから露伴のように、自分で本を読んで自分の人生を考えるというコースしかなかったのである。しかし私は、それが自分の人生を非常に豊かにしてくれたように思う。ゆえに私は、大学の教師になってからも、しきりにそのようなことを書くようになったのである。
あるとき東大の平川祐弘(すけひろ)先生が私の随筆を読んでくださって、そこで私が紹介していた本を取り上げて『なかなか珍しいものがあっていいが、修養的なことは余計な話だ』というようなことを述べられたことがある。平川先生が修養的なものは余計だとおっしゃるのは、私にはよくわかる。平川先生は、本当に立派なコースにお乗りになった方である。こういう方は、露伴や神藤先生や私のような形での人生への向かい方はしないのである。
ところが、現実には平川先生のような出世コースに乗った生き方ができる方は少数であり、大多数の人間は常に自分で工夫をし、自分で努力をし、自分で修省しながら人生を送らざるをえない。だからこそ、露伴を読み、露伴に学ぶことがあるのである。」(p9~10)

さてっと、こうして前書きと後書きだけしか、私は読んでいないのでした(笑)。
うん、本文を読むのはいつか。


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桑原武夫学芸賞。

2010-06-15 | 短文紹介
選挙が近いせいなのでしょう。
あなたは本を読んでいるようなので、
と雑誌を置いていく方がありました。
月間雑誌「潮」2010年7月号。
うん。私は最近雑誌は覗かないなあ。
けれども、もらったこの雑誌は読みたいところがありました。
第13回桑原武夫学芸賞発表が掲載されていたのです。
受賞作は坪内稔典著「モーロク俳句ますます盛ん ――俳句百年の遊び」(岩波書店)。
まずは、その受賞の言葉をひろってみます。

「・・・菊作りと俳句作りの楽しさは同じ、そして俳句作りとパチンコをする楽しさも同じだ、と思うが・・・・・かつてパチンコに熱中した体験からも、それはやはり同じだと思う。肝要なことは、自分の好きなことや熱中していることを絶対化しないことだろう。俳句だって学問だって菊作りだってパチンコだって、とっても楽しい。楽しいという素朴な感情はどの場合にもとても深い。・・・」

選考委員のお一人鶴見俊輔氏の選評をすこし引用。

「・・・俳句は、老人の日本語をみがく機会を与える。子規、漱石、とんで寺山修司、上野千鶴子は、若い年代に俳句に踏みきって、それぞれの道を歩んだ。現代の老人はおたがいの長寿にふさわしい道をつくるだろうか。俳句研究の先達柳田国男のように、非凡に心を奪われず、平凡の偉大を信じて。」

頂戴した雑誌の4ページほどを見れたのは収穫でした(笑)。
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不器用の悲しさ。

2010-06-14 | 短文紹介
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)と
清水幾太郎著「日本語の技術 ――私の文章作法―― 」(ゴマブックス)とは
多少違いがあるようです。
そこで、その違う箇所をすこし引用してみたいと思うわけです。
中公文庫の方に第十三話設計図という箇所があります。
その文の終わりに「他人の心を盗む」という1ページほどの文があるのですが、
その設計図と「他人の心を盗む」との間に、ゴマブックスでは、さらに
加筆された箇所があります。そこを引用。
「私の流儀で申しますと、文章を書くのは建築物を作ることなのです」として語ったあとに、加筆部分がありました。

「私が不器用な人間だという点もあるに違いありません。確かに不器用なのです。四百字詰原稿用紙で僅か三枚という程度の短い文章を書く場合でも、私は必ず丹念に設計図を作ります。長い間、文章を書いて暮して来たのですから、多少のコツを心得ている筈なのでしょうに、そこが不器用の悲しさ、設計図が出来上らないと、書き始めることが出来ないのです。その上、設計図も、一度で出来るというわけには参りません。二度、三度と設計図を作り直すことが稀ではありません。
設計図という言葉が気に入らない方は、それを『デッサン』と言い換えて下さっても結構です。内外の偉い画家の仕事ぶりを拝見いたしますと、百号というような大きな油絵を描く前に、実に夥しいデッサンを試みています。あの方々も、やはり、不器用なのかも知れない。そう思って、私は少し安心するのです。」(ゴマブックス・p78~79)

うん。たしかに中公文庫のは旧著「私の文章作法」(潮出版社・昭和46年)の本文をそのままに、文庫化しているようなのですが、
ゴマブックスでは「これを機会に、新しく数章を書き加え、また、全面的に改訂を施した 昭和51年12月」とある通り、二冊を比べて読みこめば、書き直しの箇所を捜せて、私などは、それなりに勉強になりそうであります。
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カバー折返し。

2010-06-13 | 他生の縁
古本屋に注文してあった清水幾太郎著「日本語の技術  私の文章作法」(goma books)が今日届きました。本文は、あとまわしにして、まずは「まえがき」の最後。
そこにこうあります。

「本書の内容の大部分は、旧著『私の文章作法』(潮出版社、昭和46年)に含まれているが、或る事情で、或る時期から、この本が姿を消し、誰かのお世話によると、『幻の名著』になってしまった。それが、今度、新しく上木されることになったので、これを機会に、新しく数章を書き加え、また全面的に改訂を施した。  昭和51年12月 」

とありました。現在出ている中公文庫の「私の文章作法」の方が読み安そうな活字の並べかたなのですが、「新しく数章を書き加え」というのが、どんな具合なのか、今度読んでみたいと思うのでした。
さて、それはそれとして、このゴマブックスの表紙カバーの折返し箇所に推薦文が書かれているのでした。表の折返し箇所には外山滋比古氏。裏の折返しには渡部昇一氏。

気になる、その言葉を、ここに引用したいと思います。

まずは、外山滋比古氏から

「文章は料理に似ているのか。すぐれた文章はおいしいご馳走のように、好きだとなったら、もういいということがない。いくらでも、どこまででも付き合いたい。私は年来、清水幾太郎先生の崇拝者で、先生の書かれる文章は愛読して倦むことを知らない。そして読むたびに三歎、何とかすこしでもあやかることはできないかと思う。自然文章についてお書きになるものにはとくに注意するようになっている。文章家で先生ほどみずからの体験を惜しみなく後生にわけ与えてくださる方はすくないが、中でも本書は有益な助言に満ちている。文章作法に心を寄せるほどの人なら、これを見すごすことはできないはずである。」


つぎは、渡部昇一氏

「文章の書き方についての本を書く資格について言えば、清水幾太郎先生に勝る人はほとんどないであろう。戦時中に陸軍徴員として戦地に行っておられた短期間を除いて、この半世紀の間、清水先生の文章は絶えず日本の中にさざ波やら大波やらを起し続けてきた。清水先生の文章は強力な磁場を作り出し、読む人は吸いつけられるか反撥するか、いずれにせよ動かされるのである。また先生は、現代の日本でレトリックの深い価値を認められた唯一の人であると言ってよいであろう。その長い評論・著作活動において、先生の文章は常にみずみずしく印象鮮明である。今その清水先生が文章作法の秘密の一端をここに示された。私も一気に読了して多くのことを教えられた。」


うん。外山滋比古・渡部昇一。
ちなみに、私が買ったこの本は8版。
初版発行が昭和52年1月10日。
8版発行が昭和52年1月15日となっておりました。

ちなみに、中公文庫の清水幾太郎著「私の文章作法」については、
山本夏彦の「愚図の大いそがし」と「完本 文語文」の両方の本に
丁寧な内容説明が書かれております。


ということで、外山滋比古・渡部昇一・山本夏彦と三人が
ここに、顔をそろえているのがなんとも壮観。
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信じている。

2010-06-13 | 短文紹介
外山滋比古氏の本を、ぽつぽつと読み始めていると、
外山氏の名前が出てくるのは、気になるのでした。
今日2010年6月13日の毎日新聞「今週の本棚」にある「この人・この3冊」は、外山滋比古選による「内田百」でした。では、そこの文をすこし引用。

「・・・それまで私は小説より随筆を喜び、内外の随筆に親しんだ。イギリスではロバート・リンドが好きだった。日本語では学生のころから寺田寅彦に傾倒、やはり何度も読んだ。文章より、ものの見方、考え方について深く教えられたような気がする。百の随筆は、まず、文章である。明治以後の散文でこれほど洗練され、美しいものはないのと信じている。いわゆる名文などといわれるものではなく、独自のユーモアをたたえている。・・・」

う~ん。私は内田百を読んでいないので、なんとも言えないのですが、「これほど洗練され、美しいものはないと信じている。」なんて、外山氏に書かれると、つい買っときたくなります(笑)。
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蔵書を贈る。

2010-06-12 | 他生の縁
雑誌というのは、取って置いても、すぐにどこかへいってしまいやすいものですね。そういうことで、雑誌が手もとにある時に、引用しておくのが間違いない(笑)。

さてっと、雑誌「WILL」2008年2月号。
特別対談24ページ。「渡部昇一・日垣隆対談【史上最強の知的生活の方法】」。
こんかい引用するのは、この箇所。

日垣】 渡部さんは大学の先生という本業の他に四百数十冊も本を書かれていますから、そちらの収入もすごいですよね。
渡部】 大学を辞める前は、大学の給料よりも高い税金を払っていました。
日垣】 ちなみに、いちばん印税収入に貢献しているのはどの本ですか?
渡部】 『知的生活の方法』は、たぶん百十五万部くらい売れていると思いますので一冊ではこれがいちばんでしょう。『続 知的生活の方法』が三、四十万部ですね。でも以外と収入の元になっていてバカにできないのが、修養書です。
日垣】 今で言うと自己啓発のようなジャンルに相当するものですね。


うん。ここに「修養書」という言葉が出てくる。
こういう言葉に弱いんですよね(笑)。

さて、奥さんのことも出て来ます。

渡部】  私が結婚して間もない頃、【大英人名辞典】(二十一巻プラス十巻)が欲しいと思ったのですが、給料の半年分くらいの値段がしました。買うべきかどうか悩んでいたら、家内が『必要なのか』と聞いてきた。だから『すごくいいものなのだ』と答えたら、『おかしな人だ』と言うわけです。必要だとわかっているものを買うのに、何を悩んでいるのかと。・・・・始終そんな調子で、それ以来、欲しい本を買わないと軽蔑されるような雰囲気になった(笑)。仕事道具に投資しないなどというのは男ではないと思っているようです。・・・その家内が十年くらい前から文句を言い始めた。『ウチには本権はあるけど、人権がない』と(笑)。・・・

  ここで新しい書庫をつくったという話になるのでした。

日垣】 で、大借金を選んだ(笑)。
渡部】 そうです。七十七歳で、また借金です。
日垣】 しかし、七十七歳から数億円の借金というのは普通では考えられないことです。


そういえば、と思い浮んだのは、その蔵書の中にはシュナイダー先生の蔵書も含まれているのだろうなあ。ということでした。

渡部昇一著「後悔しない人生」(PHP)
いまは改題されて「人生の出発点は低いほどいい」(PHP)。

そこにシュナイダー先生のことが、ちらりと出ておりました。

「留学先のドイツでも、私が教わったシュナイダー先生は素晴らしい先生だと思って、かなり入れ込みました。もちろん、生徒のそういう気持ちは、自ずと先生に伝わるものです。シュナイダー先生は、1998年のクリスマスの次の日に亡くなられましたが、『蔵書をすべて渡部に贈る』という遺言状を残され、後日、カートンボックス151箱の蔵書が、私のところに送られてきました。明治以来、何十万人もの日本人が留学したことでしょうが、かの地の先生が、日本人留学生に自分の全蔵書を託して死ぬという例は、あまりないのではないでしょうか。・・・」(「後悔しない人生」p55)

死んで蔵書を送られるよりも、生きて書いていただいている方が
やはり、うれしいだろうなあと、新しい書庫をつくられた渡部氏の英断に
驚きとともに、思わず拍手。
せめて、最近の渡部昇一氏の本を、すこしは買おうと思うのでした。
全部は買えないでしょうし、ここは、時事問題よりも、修養書あたりからでしょうか。
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豆腐と知的散文。

2010-06-11 | 短文紹介
清水幾太郎著作集19巻目の月報は外山滋比古氏が書いておりました。
その題は「知的散文の創造」。
では、その内容紹介。

そこでは、谷崎潤一郎の「文章読本」が出た1934年に、清水幾太郎の文筆活動がはじまっている偶然を「興味深い符合である」と指摘しています。
谷崎氏の「文章読本」。外山氏は、その本のどこを指摘しているか。まず、その箇所

「日本語は外国語と違う。そして日本語には独自の表現様式があるということをはっきりのべたのは谷崎潤一郎である。『文章読本』の中で、原文に忠実に逐字訳した訳文を例にして、それ以上、原文に即すれば日本語でなくなるということを実地に示した。訳文は原文べったりであってはならない、原文離れが必要だというのである。文学の立場で、欧文の原文に引かれた翻訳文体から独立した日本語本来のスタイルを求めたものである。」

ここから

「清水幾太郎はやがて谷崎潤一郎が文学に関して考え実践したことを知的散文においてすることになる」と繋げてゆきます。

そして清水氏の仕事を振り返っておりました。

「その仕事とは外国文献の紹介と批評を千字の枠の中で行なうものであった。後年、多くのすぐれた翻訳を世に送ることになるのだが、はじめの仕事が訳ではなく要約であったことは、清水文体の生成にとって大きな意味をもっているように思われる。それはどういうことかというと、まず、ごく短い文章だという点である。短文ではわかりやすさが絶対の条件になり、読者をつよく意識した表現にする必要がある。その苦心について、後年、自ら一度ならず回顧している。
要約はこの場合、広い意味における翻訳であった。ただ、在来の翻訳スタイルをもち込めないきびしい制約を受ける仕事である。これに若いころから育くんでいた文章感覚も手伝って、いわゆる翻訳文体と袂別しなくてはならなくなり、新しいスタイルの誕生となったのはひとつの好運であった。明快、簡潔、達意の短文を書くのに成功した若い清水幾太郎は、間もなくジャーナリズムに迎えられる。学究の文章として生まれた文章が一般読者の目に触れることになった。それとともに、新しい知的文章が広い読者に届くことが可能になったのはもうひとつの好運である。・・」

月報の7ページほどの文なのですが、もう一箇所だけ引用。

「清水幾太郎の文章は短いセンテンスが基調である。『根本的なルールとしては、句点の多い文章を書いた方がよいと思う。即ち、短い文を積み上げた方がよいと思う。一つの短い文で一つのシーンを明確に示し、文と文との間は、接着力の強い接続詞でキチンと繋ぐことである』(「論文の書き方」)。ただ短いセンテンスを並べるのではなく、接着力の強い論理的接続詞で繋ぎとめる。これに関連して強調されるのが文末の【が】に注意せよということである。【が】はあいまいに用いられると論理がはっきりしなくなるおそれがあるからだ。そういうあいまいな【が】の無雑作に使われている新聞の文体をまねてはいけないと主張した。これは清水幾太郎の文章作法論の中でもっとも注目された点で、それによって【が】の使用に慎重になった人がすくなくない。かつてに比べて、現代の文章には【が】が減っている。・・」

以下この清水氏の文章を、噛み砕いて解説してゆくのでした。
この月報の清水氏の最後の言葉も引用しておかないと、釣り合いがとれないでしょう。
では

「清水レトリックは知的散文を一般の人々の理解の範囲へ引き寄せるのに大きな貢献をした。文は思考であり、思想は人である。それを具現したのが清水幾太郎であった。それは個人の文体創造にとどまらず、近代日本が苦しみつづけた翻訳文体という借着を脱ぎすて、体に合った知的文体の獲得という歴史的意義をもつことになった。」


外山氏の文章は、どちらかというと「豆腐文」のエッセイ文体といえるかと思いますが、ここで、外山氏が語る豆腐文をもう一度引用しておくのも参考となるかと思います。

「日本語の段落は豆腐のようなもの。一見して四角なところは煉瓦に似ていないこともないが、固さが違う。煉瓦はいくらでも積み重ねがきくが、豆腐は重ねると崩れてしまう。長大論文が生まれにくい。欧文のようなパラグラフではひとつひとつのパラグラフは水ももらさぬ緊密さで結び合わされていなくてはならないが、豆腐はなるべくぶつからないように、横に並べた方がいい。あるいはひとつを二つに切ったり、三つに切ったりする。論理的断絶が生命になっていることもすくなくない。
日本語で随筆を書いている人が、いかにも無原則に改行し、新しい段落を始めているように見えることがある。段落尊重派の人たちからはとんでもない書き方だとして叱られるが、それほどでたらめでもない。ひとつの考えから次の考えに移るのにぴったり重なり合う煉瓦をのせるのではなく、別の皿へ、さっと移って、新しい豆腐をおく、というような移り方をすることがあってもよい。日本人は、むしろ、すこし離れたところへ飛躍するために新しい段落を始める。心機一転。散文でありながら、発想の上では詩に似たものになるのはそのためであろう。こういう移りの感覚が身につかないと人並みの文章が書けないのが日本語の泣き所である。いわば連句の移りのような呼吸で、初心者が段落に苦しむのは当然である。知的散文の練習は、やはり、地道に、しっかりした構造のパラグラフの積み上げから始めるのが賢明である。・・・・」(p130~131・「知的創造のヒント」講談社現代新書)
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おもしろ過ぎ。

2010-06-10 | 短文紹介
以前は、拾い読みだった外山滋比古著「知的創造のヒント」(講談社現代新書)を、まあ、とりあえず最初から読んでみました。
読書論はかずかずあれども、「あえて読みさす」と語ったのは外山氏がはじめてじゃないかと、その体験に根ざした独創を思ってみるのでした。
では、とりあえず、そこを引用。

「ひとまず休んだ方がよさそうだと思って、読みたい心を抑えて本を閉じた。次の日、吸い込まれるようにまた読み出したが、さらにいっそう怖しくなる。どういうわけかわからないが、読み続けるととんでもないことになりそうな気がする。また、すこし読んだだけでやめにする。こういうことを両三日続けて、とうとう読了することをあきらめてしまった。ごく初めのところをちょっぴりのぞいただけで終った。それでいて、たいへんよくわかったように感じていたのだから不思議である。」

 この本というのが、I・A・リチャーズの『実践的批評』のこと。
つぎにこうあります。

「ウィリアム・エンプソンの本は『曖昧の七型』というのである。これはもっと早いところで金しばりに遭った。はじめの数ページを読んだだけで、この先をのぞくととんでもないことが起らずにはおかないような不安に襲われてしまった。つまり、おもしろ過ぎそうな予感があって、こわくなるのである。・・」(p109)


「ひどくおもしろそうだとなると、かえって、先を読み続けられない――というのは癖なのかもしれないと思う。リチャーズ、エンプソン以来、何度かそういうことがあった。いまでもこの癖は抜けないらしく、ときどき自他ともに迷惑する。書評を引き受けて読み始めた本が、予想外におもしろい。十ページくらいのところで、これはあぶないと思い出す。二十ページあたりで、もう読んではいられないような気がする。本を閉じてぼんやりしていると、あれこれ余韻が浮んでくる。それに身をまかせているのはこのうえなくたのしい。いつの間にか自分の考えを触発されることもある。これではしかし、書評の間には合わない。・・・このごろは書評ははじめから降参することにした。」(p110~111)


私のすくない読書の範囲でも、読書に関してこう書いている方にはじめてあった気がいたします。何気なくも読み過ごしやすい、文章の流れとしては、簡単な、あっさりとした書きぶりなので、読み返さないと、ついつい忘れてしまいます(笑)。


ところで、この新書に
「・・清水幾太郎氏の新著『日本語の技術』で読んで、たいへんおもしろいと思い・・」(p156)という箇所がありました。

ちなみに、清水幾太郎著「日本語の技術」というのは、
清水幾太郎著作集19の著作目録によりますと、
「『日本語の技術 ――私の文章作法――』ごま書房 昭和52年1月10日
『ごまブックス』新書判・223頁。
『潮新書』版の『私の文章作法』に加筆したもの」とあります。

これが現在手に入る中公文庫の清水幾太郎著「私の文章作法」と
どうやら同じ内容なのかと思います。
でも中公文庫のには、最後に『私の文章作法』1971年10月潮出版社刊とわざわざ指摘しております。それじゃ、ごま書房の古本を注文したくなるじゃありませんか。
まあ、そのまえに、
もう一度、清水幾太郎著作集の月報に書かれた外山滋比古氏の文を読み直してみます。

さて、せっかくですから、
清水幾太郎著作集15にある「文章三則」という3頁ほどの文を、すこし引用してみます。


「・・第一則 自分の気持に忠実であること。文章は相手に読ませるもの、誰かに読んで貰うものであるところから、よほど自分の気持を大切にしていないと、相手のことを顧慮し過ぎて、廻りくどい文章になってしまうものである。・・・
・ ・・・・
第三則 出来るだけ静かに書くこと。・・・文章とは決意であるということになると、とかく、強い表現を使いたくなるものであるが、これは禁物である。むしろ、控え目な表現を選ぶ必要がある。『非常に大きな』と書きたい時でも、『大きな』で我慢した方がよい。そうでないと、『絶大な御支援を』という調子の選挙演説と同じように、相手の心の内部へ入らずに、その外部で爆発してしまう。言葉は相手の心へ静かに入り込んで、内部で爆発すべきものである。・・・・弱い控え目な言葉を大切にしなければいけない。
・ ・・・・・・・・・ 
以上の三則は、私が自分の経験から得たルールであるから、誰にでも同じように通用するとは思われない。しかし、真面目に文章のことを考えている読者にとっては何か参考になるであろう。兎に角、本当に易しい文章というのは、正確な文章ということである。・・・」(p100~102)
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台湾沖航空戦。

2010-06-09 | 短文紹介
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」に、
昭和12年に第六高等女学校を大橋さんが卒業して、
日本興行銀行に入り、調査課に配属になり、調査月報の編集を手伝う様子が描かれておりました。


鶴見俊輔著「思い出袋」(岩波新書)には
「戦争中、私はバタヴィア(現ジャカルタ)の海軍武官府にいて新聞をつくっていた。海軍、とくに太平洋の前線では大本営発表を信じていては、計画もたてられない。『敵の読む新聞とおなじものをつくれ』と言われた。・・・」(p26)という箇所があったのでした。


最近、渡部昇一氏の到知出版社から出された本を数冊読んで、なんだか到知出版で以前読んだ本があったかなあと、本棚を見るとある。その中に谷沢永一・渡部昇一著「修養こそ人生をひらく」(到知出版社)があり、すっかり内容を忘れていたので、あらためて開いてみました。そうすると、こんな箇所があったのでした。

【渡部】 ・・・日露戦争が終わると、お国のことを第一に考えなくなったんですよ。昭和に入ってからの戦争を見ますと、もう自分たちのことが第一ですね。・・・・
その典型が昭和19年秋の台湾沖航空戦ですよ。アメリカ軍と日本の基地航空部隊の戦闘ですけれど、このとき日本軍がアメリカの航空母艦を十何隻も沈めたという情報が大本営から流されたんですね。ところが、海軍の情報機関は『一隻も沈んでいない』と言っている。また陸軍情報参謀の堀栄三という人も戦果発表に疑問を抱いて大本営にその旨を伝えています。ところが、大本営は情報を訂正するでもなく、海軍も陸軍へ確度の高い情報を知らせなかった。その結果どうなったか。陸軍は大本営発表を鵜呑みにして、ルソン島へ送るはずだった兵隊をレイテ島へ送るように方針変更した。ところが、壊滅したはずのアメリカ艦隊が現れて、なすことなく全滅したわけです。師団長が戦死した場所もわからないし、死骸も出てこないのは、このレイテ戦だけですよ。それほど悲惨な戦争になってしまった。だって、航空母艦を十何隻も沈めたはずなのに実際は一隻も沈んでいないんだから。
【谷沢】参謀本部が画策して嘘の情報を流した。
【渡部】嘘の情報に乗ってしまったわけです。海軍の中でもインテリジェンス担当は『沈んでいない』と言っているのに作戦部は沈んだことにしたんですからひどい。
【谷沢】その状況を冷静に判断して口外すると敗北主義者と言われるわけです。・・・・

                        (p175~176)
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大正大震災。

2010-06-08 | 地震
1964年「暮しの手帖」77号に掲載されていた丸山丈作氏の「東京府立第六高等女学校」を読むと、関東大震災と第六高等女学校のつながりが校長先生と介して目の前に展開してゆくような読後感がありました。
そういえば、渡部昇一著「『仕事の達人』の哲学 野間清治に学ぶ運命好転の法則」(到知出版社)にも、関東大震災に関する箇所がありました。

「大正十二年九月一日に起こった関東大震災は、順調な発展を遂げる講談社を文字通り揺り動かした。・・幸いなことに、講談社の被害はごく少なくて済んだ。音羽も団子坂も講談社はほとんど無傷だったし、家族も社員も少年たちも無事だった。・・・野間は考えた。ここで自分は何をするべきなのか。ほんやりしている場合ではない。この際、何か天下のために尽くすことがなければならない。そのためには、まず何よりも出版社として自らの事業を立て直すことが急務である、と。大地震のとき、各雑誌の十月号は出来上がる間際だった。しかし、地震の影響で印刷所や製本所や取次店はすぐには動けない。そこですぐに雑誌の1か月休刊を決めた。その間に何をするか。野間と社員たちは余震で揺れ動く地面の上で何回も会議を開いた。その結果、大震災の被害実態を単行本にまとめて、これを残しておくのが出版社としての義務ではないかという意見がまとまった。町へ出れば情報は山ほどあったが、その真偽が問題だった。変な噂もあるし、インチキ写真も出回っている。そういう中から正しい情報を得るのは非常に難しかったが、できる限り正確に、写真を集め、話をよく聞き、尾ひれのついた噂でないかどうか丁寧にチェックして、大震災の本をまとめた。本のタイトルは『大正大震災大火災』とした。・・・そうしたアイデアと努力のかいあって、『大正大震災大火災』は日本全国の書店に並び、一部残らず売り尽くした。」(p190~192)

ということで、『大正大震災大火災』(大日本雄弁会講談社)を、ちょっと手にとって、開いてみたくなります。まあ、それはそれとして、

清水幾太郎著作集15 から関東大震災について書いている箇所を引用しておきます。


「・・・私は十六歳の少年であった。その日、私たちの無一物の生活が始まった。しかし、私には、自分が勝つに決まっている試合が始まったように感じられた。訳の判らぬ元気があった。その半面、私にとって、少年や青年と呼ばれる人生の猶予期間は、その日に終って、それから今日まで、大人の生活が続いているような気がする。私の決定的な体験という意味では、第二次世界大戦などは、関東大震災の足元にも及ばない。大切なのは、事件の客観的な大きさより、当の人間の年齢なのであろう。・・・・・第二の関東大震災では何百万人が死ぬのであろうか。何十兆円が灰になるのであろうか。そして、その日、何人が生き残って、私のように一度に大人になったと感じるのであろうか。
関東大震災の経験は、私という人間の内部に二度と消えないように刻み込まれてしまった。それが刻み込まれているために、目前に迫っている第二の関東大震災の恐怖が片時も私の心を去らないのだ。しかし、私の経験を他人の内部に移し入れることは出来ない。先日も、或る若い敏感なジャーナリストに向って第二の関東大震災について話した時、熱心に聞き入っていた彼が最後に言ったのは、『SFですね』という感想であった。・・・」(p121)

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楽しむ者。

2010-06-07 | 短文紹介
不如楽之者。


論語に、こうあるそうです。

「孔子さまがおっしゃるよう、『知る者よりも好む者が上、好む者よりも楽しむ者が上ぢや』」(穂積論語 雍也第六 137)

谷沢永一氏はこれについて語っております。
「われわれは長年学生を見てきましたので、身にしみて知っているのですが、『学ぶ』ということはこの一言に尽きます。・・・『楽しむ』というのは、まず飽きがこないし、楽しいのですから途中でやめたりもしない。楽しい以上、その人の心は広いし、温かい。そうすると、視野も広くなる。そのため、様々な人生の、あるいは様々な学問の分野のいろいろな部分を、できる限り洩れなく拾い上げるという態度になり、話題も豊富になります。楽しめば際限がないのです。・・・私などはこの一条を拳拳服膺しているのですが、学者仲間でも楽しんでいる人は信用できます。学者に限らず、われわれは皆、物学びする人間です。そして、これは物学びする人間に対する評価の唯一の基準ですね。」
   (谷沢永一・渡部昇一著「人生は論語に窮まる」(PHP)p102~104)


さてっと、なぜこんな個所を思い浮かべたのかというと、
ちょいと、それに関する事が、ひっかかってきたからなのでした。
ということで、3つの例。

ひとつめは。
竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)の「はじめに」で、

「新聞社に籍を置いて三十年、しゃれた言葉や気の利いた言い回し、味のある文章を、半分は仕事の必要から、半分は道楽で採集してきた。本書ではコレクションの一部をご覧いただく。・・・・書いていて楽しかった。日本語にまさる娯楽はないと思っている。」

ふたつめは。
対談での日垣隆氏の言葉。

「未知の領域で疑問に思ったことを現場で調べている時、これは何十時間でも没頭してしまいます。それから最近は毎日、就寝前にベッド上で十冊ほどの専門書に目を通し、いくつかの使えるアイデアや、自分では思いつかなかった根拠などをサササっとメモにとって、深い睡眠に入っていく時間の流れは非常に至福(笑)です。
私はどうも調べものをしているのが好きで、調べ出すと眠らない。モノを書き出す直前はとても辛いのですが、夜中に多彩な分野の本に目を通していく作業はとても楽しい。寝る前に一心不乱に付箋を貼っている姿を他人が見たら怖いと思いますが(笑)。」(p52「WILL」2008年2月号、渡部昇一・日垣隆対談)


みっつめは、うん思いつかないなあ、
まあ、どなたでもよいのでしょうが、たとえば清水幾太郎氏

「そうとは気づかなかったものの、何かを考える時、部屋の中をウロウロと歩き廻る私の癖、考えつくと、考えが逃げ出すのを恐れて、ソワソワとメモをとる私の癖、少しでも気にかかる点に出会うと、あの本、この本と、それを本気で読むというのでなく、忙しく開いてみる私の癖・・・そういう癖のある私にとって・・・」(「清水幾太郎著作集19・p95」


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先見の明。

2010-06-06 | 他生の縁
雑誌「WILL」2010年7月号。
その連載エッセイ・曽野綾子「小説家の身勝手」のはじまりに、

「すべて趣味と名のつくものには、溝に捨てるに近い金がかかるのが原則だ・・・」という箇所がありました。その少し先のページに「石井英夫の今月この一冊」があり、竹内政明著「名文どろぼう」を取り上げていたのでした。せっかくですから、石井英夫氏の文を引用。

「へえ、こんな話どこから引っぱってきたのか。フム、こんなデータも読んでいたのか。ありきたりの百科辞典やパソコンに依拠するような知見は一つもない。・・・そこで著者の周辺を取材してみたのだが、この人(竹内政明)は少しの時間があれば本を開いている。仕事の机上や身の回りは本だらけだという。本を読んでこれはと思う個所があれば片っ端からコピーし、項目ごとにファイルしているらしい。コラム書きに王道なし。何のことはない、それこそコツコツと地道な不断の読書の積み重ねがそのノウハウなのだった。」

 石井さんの最後の言葉も引用したくなります。

「著者は、この本を『書いて楽しかった。日本語に勝る娯楽はないと思っている』と言い切っている。言語が娯楽だとはすごい。乞食は三日やったらやめられないというが、言葉どろぼうをやったら、それに勝る快感はないらしい。その醍醐味がわかればあなたもコラム書きになれる。」

ということで、竹内政明著「名文どろぼう」より、ひとつ引用したくなります。

「新聞社とは妙な職場で、昇進してペンを取り上げられる者はむしろ不幸であり、出世コースから外れて記事を書きつづける者を幸せとみなす空気が伝統として残っている。
ナントカ部長やカントカ部長に栄進した後輩たちからは日ごろ、『竹内さんがうらやましい。ああ、うらやましい』と妬まれてきた。そうだろう、そうだろう、うらやましいだろう・・・内心、鼻高々でいたのだが、このあいだ中国文学者、高島俊男さんのエッセイを読んでいて少しあわてた。
 
 『うらやましい』というのは、相手を傷つけることなく同情の意をあらわそうとする際のあいさつことばなのであった。相手を傷つけまいとするから、自分を相手より低位におこうとする。身をかがめて『あなたは私より高い、うらやましい』とこうなるわけだ。
       ―――高島俊男「本が好き、悪口言うのはもっと好き」(文春文庫)

十年以上も名刺の肩書が変らない境遇を、どうやら同情されていたらしい。
泣菫先生は、こうも書いている。

 『哲学』はこの世で出世をした輩(やから)は皆馬鹿だという事を教えてくれる学問である。  ―――薄田泣菫『茶話』(岩波文庫)

ちなみに筆者は学校で哲学を専攻した。これを、先見の明という。 」(p57~58)
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運を貯蓄する。

2010-06-06 | 前書・後書。
竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)には、
外山滋比古著「ユーモアのレッスン」(中公新書)からの引用が二箇所。
ページだと、p15とp123。
外山氏の本をポチポチと読んでいる私にとっては、何だか地続きなような、
読書感触を味わえてうれしくなります。

さてっと「名文どろぼう」の最後を引用したくなりました。
そこでは色川武大著「いずれ我が身も」(中公文庫)からの引用がありました。
まずは、その引用箇所から、

「近年、私は、人間はすくなくとも、三代か四代、そのくらいの長い時間をかけて造りあげるものだ、という気がしてならない。(中略)人間には、貯蓄型の人生を送る人と、消費型の人生を送る人とあって、自分の努力が報いられない一生を送っても、それが運の貯蓄となるようだ。多くの人は運を貯蓄していって、どこかで消費型の男が現れて花を咲かせる。わりに合わないけれども、我々は三代か五代後の子孫のために、こつこつ運を貯めこむことになるか。」

こうして色川氏の文を引用したあとに、竹内氏は書いておりました。

「正確に数えたわけではないが、本書に引用した文章は二百と三百の間だろう。生きるうえで影響を受けたということでは、この一文にまさるものはない。つらい出来事に遭遇したとき、嘆くより先に『ああ、また、運を貯蓄してしまったな』と苦笑するのも、うれしい出来事に出合ったとき、小躍りするより先に『誰かが貯蓄してくれた運を取り崩してしまった』と申し訳なく感じるのも、色川さんの文章に接して身についた習わしである。
筆者の母は幼くして養女となり、長じては結婚に失敗し、老いては親不孝の息子を持って独り暮らしをし、最後は脳溢血に倒れて看取る者のないまま逝った。運を貯蓄するために生まれてきたような人である。こういう能天気な本が書けたのも、貯蓄のお蔭だろう。・・」
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講談社。

2010-06-05 | 他生の縁
渡部昇一著「『仕事の達人』の哲学」(到知出版社)を読みました。
副題は「野間清治に学ぶ運命好転の法則」とあります。

そこから、引用。

「私の実家は創刊号から『キング』を買っていた。『キング』が創刊されたのが大正十三年で、私の生まれたのが昭和五年だから、私が『キング』を読むようになったのは創刊から十何年後のことであったが、家には『キング』が創刊号からすべて揃っていた。そのうち戦争で新しい本が出なくなったこともあって、私は家にあった『キング』を繰り返し繰り返し読んだ。それは小学校の上級生から中学生にかけてのことで、一番本が読みたい年ごろであったから、私は古い『キング』をむさぼるように読んだものである。」(p206)

「今でも記憶している思い出がある。私の両親の実家は豊かでもない農家であり、本などなかなか手に入らなかった。もちろん、雑誌も手に入らない。ところが、『キング』だけは、そういう貧農といわれるような家にもあったのである。それは一冊五十銭という安さのためだったろう。『キング』の宣伝文句は『一家に一冊』だった。」(p207)

「もしこれから大正・昭和の思想史を書こうという人がいるなら、ぜひ『キング』を読み通してほしい。その時代の空気を十分に吸ってから書いてもらいたいと思うのである。」(p210)

そして奇妙な体験が、つぎに語られておりました。

「私が小学校のころ、両親は商店ともいえないような小さな店を営んでいた。私の通った小学校は旧藩校、つまり殿様のつくった学校だった。その職員室には西郷隆盛の揮毫した大きな字が掲げられていたことをよく覚えている。
この学校に来る子供たちはよくできる子が多かったが、それには明快な理由があった。・・私が通った小学校は、そんな昔の御家中の人たちが住んでいた町にある学校だった。そして、そこは鶴岡市で一番大きな商店街を含んでいる学区でもあった。・・とりわけ旧藩に関する人の子供たちは、みな言葉遣いが丁寧で、礼儀正しく、字が上手だった。・・・
ところが不思議なことに、旧制中学に私のクラスから合格した旧藩士の家の子供は一人もいなかったのである。小学一、二、三年ぐらいまではずっと優等生であった彼らが全員中学の試験に落ちてしまったのである。それが私には非常に奇妙に思えた。『あんなによくできたのに、どうして』という感じだった。
しかし、あとになってよくよく思い出してみると、腑に落ちることがあった。彼らは上級生になるにしたがって成績を落としていったように思うのである。それはなぜなのか。確かに彼らは行儀作法はしっかりしていたし、字もきれいに書けたし、学校の勉強もしっかりやっていたが、『幼年倶楽部』や『少年倶楽部』といった柔かな雑誌は買ってもらっていなかったのではないだろうか。一方、私はこれらの雑誌はすべて読んでいたから、知識の範囲だけを比べれば私のほうが上だったろう。それが小学校の上級になったときに、違いとなって出てきたのではなかっただろうか。六年生ぐらいになると、作文を書くにしても、講談社の本をたくさん読んできた者と全然読んだことのない者とでは、はっきりとした差がついたはずである。
旧制中学に進んだ同じ小学校出身の顔を思い浮かべてみると・・・私と同様、『幼年倶楽部』や『少年倶楽部』を読んで育ってきた連中である。こと中学受験においては、講談社文化の影響はそれほどまでに大きかったわけである。学校教育だけでは小学校三、四年ぐらいまではよくても、そこから先が伸びていかなかったという感じである。当時の私たちにとっては、それほど講談社の雑誌の影響力というのは大きかったし、また、それほどの影響を与えるほどの充実した内容だったということなのである。」(~p214)


その講談社の内容を、晩年になって、あらためて渡部氏は一冊の本として書いたというわけなのでした。
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そう、出ています。

2010-06-04 | Weblog
家にはまるっきりないのですが、ご近所はマキの木が囲いのようになっている町並みとなっております。田舎なのですが、いちおう国道なので、道路沿いは車の音がひんぱんなのですが、木々があるせいか、裏にまわると、ウグイスの鳴き声が聞こえたりします。
ということで、古今和歌集。

「 ・・・花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。・・・」

さてっと、この次の言葉はというと、

「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをやはらげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり。」


え~と。
竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)に、黒柳徹子さんの「トットチャンネル」からの引用がありました。そこを引用。


「黒柳徹子さんは中学生のとき、東京・東急池上線の長原駅前で易者に手相を見てもらった。

   結婚は、遅いです。とても遅いです。
   お金には困りません。
   あなたの名前は、津々浦々に、ひろまります。
   どういう事かは、わかりませんが、
   そう、出ています。

・・・・『とても遅い』という黒柳さんの結婚に注意を払っている人が世間に何人いるかは知らないが、筆者はその一人である。」(p120~121)
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