竹内政明著「名文どろぼう」(文春新書)を読んだら、
「どろぼう」からの連想。
清水幾太郎著「私の作文作法」(中公文庫)のなかに
第十八話「心を盗む」というのがあります。
「私は、教科書風な退屈な順序を尊重しているわけではありません。・・・・
泥棒は、門を入り、玄関のベルを押して、私は泥棒です、と家人に名乗りはしません。彼は、勝手口とか、便所とか、そういうところから密かに忍び入って、奥の部屋にある金品を盗むものです。――急に泥棒の話などを始めて申訳ありません。しかし、泥棒が現金や貴金属を盗むものであるならば、立派な文章を書くというのは、他人の心を盗むことなのです。同じく盗む以上、私たちは泥棒に多少は学ぶところがあっても不思議ではありません。門を入り、玄関のベルを押し、家人に姓名を名乗るという順序を守っていたのでは、他人の心を盗むような文章を書くことは思いも寄りません。・・・」(p88~89)
「しかし、考えてみますと、他人の心を盗もうという大望を抱くほどの人間なら、先ず、自分自身の心が立派に整理されていなければなりません。観念の縺れた塊を何とかして解きほぐそうというのは、われとわが心を整理することにほかなりません。糸口を探しあぐねて、緊張と不安とのうちに苦しんでいる時、私たちの心はあちらこちらと出口を求めているのです。そういう苦しみや迷いの中でなければ、悲しいことに、人間というものは成長しないのです。少し見方を変えて申しますと、この成長を通して、本論の輪郭が明らかになって来るのです。『はじめに』や『おわりに』という悠長な不潔なものでなく、何が何でも、これだけは言わねばならぬという主張が或る構造を伴って次第に浮かび上がって来るものです。大切なのは本論です。というより、本論だけが大切なのです。立派な短篇小説に、『はじめに』や『おわりに』はありません。第一行から本論で、本論でないものは一行も含まれていません。それは小説だから・・・とおっしゃるのですか。いいえ、そもそも、短編小説と短編論文とをやたらに区別するのがいけないのです。」(p118~119)
あれ。ここには泥棒の心得が説かれておりました。
「どろぼう」からの連想。
清水幾太郎著「私の作文作法」(中公文庫)のなかに
第十八話「心を盗む」というのがあります。
「私は、教科書風な退屈な順序を尊重しているわけではありません。・・・・
泥棒は、門を入り、玄関のベルを押して、私は泥棒です、と家人に名乗りはしません。彼は、勝手口とか、便所とか、そういうところから密かに忍び入って、奥の部屋にある金品を盗むものです。――急に泥棒の話などを始めて申訳ありません。しかし、泥棒が現金や貴金属を盗むものであるならば、立派な文章を書くというのは、他人の心を盗むことなのです。同じく盗む以上、私たちは泥棒に多少は学ぶところがあっても不思議ではありません。門を入り、玄関のベルを押し、家人に姓名を名乗るという順序を守っていたのでは、他人の心を盗むような文章を書くことは思いも寄りません。・・・」(p88~89)
「しかし、考えてみますと、他人の心を盗もうという大望を抱くほどの人間なら、先ず、自分自身の心が立派に整理されていなければなりません。観念の縺れた塊を何とかして解きほぐそうというのは、われとわが心を整理することにほかなりません。糸口を探しあぐねて、緊張と不安とのうちに苦しんでいる時、私たちの心はあちらこちらと出口を求めているのです。そういう苦しみや迷いの中でなければ、悲しいことに、人間というものは成長しないのです。少し見方を変えて申しますと、この成長を通して、本論の輪郭が明らかになって来るのです。『はじめに』や『おわりに』という悠長な不潔なものでなく、何が何でも、これだけは言わねばならぬという主張が或る構造を伴って次第に浮かび上がって来るものです。大切なのは本論です。というより、本論だけが大切なのです。立派な短篇小説に、『はじめに』や『おわりに』はありません。第一行から本論で、本論でないものは一行も含まれていません。それは小説だから・・・とおっしゃるのですか。いいえ、そもそも、短編小説と短編論文とをやたらに区別するのがいけないのです。」(p118~119)
あれ。ここには泥棒の心得が説かれておりました。