和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

現代、むしろ比喩は。

2012-03-16 | 詩歌
橋本武著「一生役立つ学ぶ力」(日本実業出版社)を読んだ時に、1912年(明治45)に生れて今年百歳となる橋本氏が、小さい頃の教えを受けた先生のことをあれこれと回想している箇所が気になっておりました。

さてっと、東日本大震災から一年たち、あたらしく出版される本には、どこか震災への言及がなされることがほとんど。そういえば、外山滋比古著「『忘れる』力」(潮出版社)というのが2012年2月20日初版ということで出ており。外山氏が震災について、はたして語っているか、という興味から本を買いました。
ちなみにドナルド・キーン氏と瀬戸内寂聴氏と鶴見俊輔氏は1922年生まれ。外山滋比古氏は1923年生まれ。
ところが、「『忘れる』力」には、震災への言及が見あたらない。おそらく、震災以前から準備されていた一冊だったのかもしれませんね。
それよりも、かけがえのない、ご自身の足跡を、咀嚼しながら、もう一度ゆっくりと語っている。そんな一冊。たとえば、この本の最後には「比喩の世界」という8ページほどの文があり。こうはじまります。


「戦争が始まろうとする直前、敵となるイギリスのことば、文化を学ぼうという、非常識なことを考えた私である。もともと、ひねくれていて率直でないところがある。はじめは英語の小説を読んだが、さっぱりおもしろくない。詩を読んだが、まるで手ごたえがない。批評の方が手ごたえがあるが、やたらに攻撃的、議論的である。
やがて、本など読んでもロクなことはないと、とんでもない偏見にとりつかれて、いわゆる読書から遠ざかる。ひとつには、本当にすばらしい本に出会ったら、そのとりこになって、そこから出られなくなるだろう。いくらすぐれた本でも、その中で溺れるのはおもしろくない。それには古典とか名著に近づかないに限る。溺れるのが怖かったものと想像される。
いつしか、模倣、追随を避け、貧しいながらも、わが細道を歩こう。道がなければ、道なきところをふみ分けて進もう。そんな風に考えて、学者になることを断念。・・・・」


なんだか、ご自身がたどった道なき道について、語り直している気がいたします。落語家が古典落語をお稽古するように、この道なき道をたどった足跡を「え~。毎度バカバカしいお噺を一席」という調子で、外山氏はシンプルさに磨きをかけて、語られているように私は読みました。


そうでした。今年百歳になる橋本武氏は、小さい頃の先生の話を反芻していて印象深いのでしたが、さてこの本での外山氏に、こういう文があります。

「・・・タイミングよく、ほめる激励によって、人は、自分でもおどろくような進歩、活動をする。そういうことを、われわれは、知らずに一生を終えることが多いが、いたましいことだとしてよい。叱ることは知らなくてもいい。ほめることを学ぶのは、自他ともに好運である。」(P151)


そういえば、この本に

「アーサー・ウェーリーは『源氏物語』を訳した功によって二度にわたり日本から公式に招聘を受けたが、二度とも辞退している。【わたしの愛するのは千年昔の日本、現実の日本に触れれば美しい夢が破られる】といった理由であったと伝えられる・・・」(p61)

3月8日に日本国籍を取得されたドナルド・キーン氏は、
戸籍名は「キーン ドナルド」
通称で「鬼怒鳴門(キーンドナルド)」という漢字名も使うとのこと。
栃木県の鬼怒川と、徳島県の鳴門からとったのだそうです。

そのキーン氏が、これからの日本でどのような発言をなさってゆかれるのでしょう。

外山滋比古著「『忘れる』力」では、
いつものパラパラ読みなのですが、
私に印象深かったのが「比喩も発明」という文でした。
恩師・福原麟太郎先生の名前がまず登場しておりました。
そこから、わが道をゆく外山氏の思考が語られております。
そんな中から、すこし引用。

「キリスト教の聖書はパラブルに満ちている。寓話であり、たとえ話である。パラブルという語自体が『比喩』という意味をふくんでいる。心の問題をわかりやすく伝えるにはたとえ話が有効であるというのは発見であった。それが、詩的含蓄を帯びるのは不思議ではない。」(p74)

「比喩は安易な技法ではなく本質は詩的発見である。現代、むしろ比喩は衰弱しているかもしれない。」(p76)
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鬼怒鳴門(キーンドナルド)。

2012-03-15 | 短文紹介
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社)を読んでから、
瀬戸内寂聴、ドナルド・キーン対談「日本を、信じる」(中央公論新社)を読む。
あれっ、と気づくことがあるのは、
曽野さんの方が、国際的で
ドナルド・キーンと瀬戸内寂聴さんの方が、日本的な感じをうけます。
ということで、それについて。

曽野さんの方はといえば、東京生れで聖心女子大学卒。幼少時より、カトリック教育を受ける。そんな経歴の持ち主でした。一方のドナルド・キーン氏は対談の最後の方に、こう語っておられます。

キーン】 私には、中学や高校時代から今までつきあいのある友人は一人もいません。友人と呼べるのはすべて、私が日本語を学び始めてから出会った人たちばかりです。・・・(p102)

そして、次にこうあるのでした。

キーン】 私は無宗教ですが、宗教のある人を大変うらやましく思っています。・・・私の場合は、死んだら終わりだと思っています。(p119~120)


さてっと、曽野綾子さんの本には、聖書に関連する引用はスラスラと出てきておりましたが、不思議と日本の古典が登場しないんだなあ、これが。一方、ありがたいことに、この度、日本国籍を取得されたキーンさんからは、日本の古典について指南をうけているような気がしてくるのでした。

キーン】 日本のような古くて複雑な文化の場合、いろいろな矛盾を内包しています。・・・・本来、仏教を信仰するなら、すべて仏教の教えにしたがうべきです。神道的なもの、あるいは儒教的なものを拒否するはずですが、しかし幸いにも人間は複雑です。日本の場合はとくに。そして、新しいものと古いもの、儚いものと永遠に続くもの、全部が日本の中に入っているのです。結果として、日本の文化は極めて豊かになりました。もしそうでなければ、これほどまでに深い文化にならなかったでしょう。
瀬戸内】 ところで、キーン先生は日本人になられるわけですけど、ご自身の宗教観はどのような・・・・?
キーン】 その点では私は運の悪い人間で、神を信じない無神論者なのです。もし信じられたらどんなにいいだろうと思うのですが。
瀬戸内】 キリスト教の洗礼は一度も受けていらっしゃらないんでしょうか。
キーン】 それは受けましたが。
瀬戸内】 子どものとき?
キーン】 はい。子どものときは単純でしたけど、だんだんそうでなくなりましたから。・・・レンブラントの宗教絵画を見ると、たしかに感動しますが、それは美学的な見地からです。そんなふうに私は宗教心が非常に少ないですが、日本人になる一つの条件として、どうしても仏教を信じなければならないとすれば、真面目に仏教の勉強をします。(笑)(p63~65)


それから、あとに瀬戸内さんと源氏物語の話になってゆきます。そこでの言葉に

キーン】 『源氏物語』では、人と人との対立はあっても、暴力はありません。それも大きな特徴ですね。私が英訳を読んだのは1940年でしたが、実は、この年は私の生涯で最も陰鬱な年でした。つまり、ナチ・ドイツが近隣諸国を侵略し、ヨーロッパ戦線が拡大した年です。・・・毎日、悩んでいました。戦争やナチ対する憎しみが募り、各国に対するナチの侵略についてのニュースを知ることが怖くて新聞も読めないほどでした。自分を取り巻く世界がすべて暴力ばかりで、今思い出しても、あれほど悪い時代はありません。そんなとき、偶然にも『源氏物語』が私の前に現れ、束の間、暴力の世界から連れ出してくれたのです。読むうちに、人間は何のために生きるのかという根源的な問題の答えの一つを見つけました。美のためです。美のために、話すときでも美しい言葉を使い、歌の言葉を引用するのも、自分の知識をひけれかすためではなく、自分の言葉を美しくするためなのです。・・・(p71~72)


うん。曽野綾子とドナルド・キーンと
お二人のことを思うと、ついつい、国際的ということを思ってしまうのでした。

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私もその一人であった。

2012-03-14 | 詩歌
文芸春秋三月臨時増刊号「3・11から一年 100人の作家の言葉」。
私のことですから、この雑誌も、ちゃんと読むわけじゃなく、ちょい読み。拾い読みです。
そこにある津本陽の「東日本震災に思う」という2ページの文に、
気になる箇所があり引用。津本氏の文章の最後でした。

「・・・昭和20年8月、焼跡となった市街地に毎日八百機、千機のアメリカ艦載機が飛来して空襲がくりかえされてるなか、国民は整然と列をつくって切符を買い、勤務先へ定刻を守って通勤し、家事をはたしていた。自分のいる場所がまもなく戦場となり、皆死ぬだろうと想像しつつ、生活の軌道からはずれないで暮らしていた。私もその一人であった。いまから思えば破滅の危機が眼前に迫っているときに、なぜあれほどまでに毎日の日課を守っていたかと、ふしぎな感じさえするほどである。日本人には非常のときに動揺せず粘りぬく特徴がある。被災者の方々も数年たてば、きっとあたらしい生活を築きあげておられるにちがいない。」(p81)


うん。思い浮かぶ石原吉郎の詩があります。
詩の最初の一行をぬかして、引用してみます。


  かぜをひくな
  ウィルスに気をつけろ
  ベランダに
  ふとんを干しておけ
  ガスの元栓を忘れるな
  電気釜は
  八時に仕掛けておけ


ということで、これは石原吉郎の詩集「禮節」にある詩なのですが、
その詩の、題名と最初の一行目の言葉は同じでした。
それは、


  世界がほろびる日に


なぜか、そういう、一行からはじまるのでした。


  
 
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80歳代・90歳代の3月11日。

2012-03-13 | 短文紹介
「80歳代と90歳代の3月11日」と題した本を読んでいる。
というか、そういう本があったら読みたい(笑)。
新刊では、
瀬戸内寂聴とドナルド・キーン対談「日本を、信じる」(中央公論新社)が出たばかりです。お二人は今年90歳になるというのでした。
そこから、すこし引用。


瀬戸内】 でも、お互い90歳ですからね。今度うっかり病気したら、もうダメかもしれない(笑)。だから病気をしないようにしましょう。と言いながら、この歳でまだ徹夜で仕事をしているんですからね。
キーン】 私もこの一年、ずっと休みなしです(笑) (p14)


キーン】 私はニューヨークにいました。あちらのテレビでも24時間、日本の震災のことを報道していて、いつもはあまりテレビを見ないんですが、あのときばかりはずっとテレビから目が離せませんでした。・・・・(p15)


キーン】 この大震災で私が思い浮かべたのは、終戦のときの東京の風景です。(p26)


うん。ここは引用しておかなければ、というのは


キーン】 ・・・日本人になると決めた私の気持ちを表現するなら、第二次大戦中に作家で詩人の高見順が日記に書いた思いと重なるでしょう。・・・妻を連れて東京大空襲の跡を見に上野駅に行くのです。しかし着いてみると群衆があふれ、大変な混雑となっていました。みんな、安全なところに逃げたいという同じ気持ちにかられて。高見さんが驚いたのは、誰もが静かに整然と並んで汽車の順番を待っていたことです。待つのは当然だというように。我先にと列を乱す人はいない。その光景を目にして、『私はこうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った』と日記に書くんです。私も同じ気持ちを抱くようになりました。・・・(p18)


うん。ドナルド・キーン著「日本人の戦争」(文芸春秋)を、また読まなきゃと思ったりするのですが、残念ながら、私はそこまで。とても高見順日記まで手が出ない。その手前で踝を返す。またの機会があることを願いながらの撤収。う~ん、これ以上の深追いは禁物(笑)。
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消防団員。

2012-03-12 | 地域
昨日の3月11日。テレビをつけていたら、避難救助活動で休むことなく活動された、陸前高田市消防団高田分団の大坂淳分団長が、地元でインタビューに答えられている姿が写っておりました。
あらためてJレスキュー編「ドキュメント東日本大震災 救助の最前線で」(イカロス出版)を本棚から出してみます。そこに大坂分団長への、一章が組まれておりました。

「大坂分団長自身も写真店である自宅の一切が流され、最愛の妻と娘を失った。助かっているものとばかり思っていた妻と娘は避難所のどこを捜しても見つからなかった。」(p76)

そして、最後の方には、こうあったのでした。

「最後に大坂分団長に一番腹が立ったことを聞くと、こういう答えが帰ってきた。
『いっぱいあるけど言えない。死ぬまで腹の中においておこうと思う。オレはその日から怒りまくっている。その日から家はない、嫁はいない、娘はいない。が、怒れば怒るほど自分が情けなくなるから、怒らないことにした。いちいち腹を立てていたら、怒りの矛先が飛び火するし、人間が下がっちまう。』」(p84)

今日の産経新聞には、一面に東日本大震災一周年追悼式での天皇陛下お言葉が全文掲載されておりました。それは

「東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
1年前の今日、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々がいることを忘れることができません。・・・」

とはじまっておりました。このお言葉が「死ぬまで腹の中においておこう」という大坂分団長のところにも届けと祈ります。



うん。消防団といえば、
遺族代表の福島県・村岡美空(14)さんの言葉を忘れないように、
ここに引用しておきます。

「・・・私の父は、地元の消防団員です。
高台の小学校に着いたとき、聞こえた車の急ブレーキ音に振り返ると父でした。父は、車の中から家族の無事を確認しただけで、消防団の活動に入ると言い残して、急いで走り去りました。高台の小学校は、父の職場から家までの通り道です。大きな地震と津波の心配で、職場から車を飛ばし、地元へ向かっている途中で、偶然、私たちと遭遇したのです。それからしばらくして、ものすごい音が響き渡りました。・・・・
数日たったある日、父は、変わり果てた姿で、私たち家族のもとへ帰ってきました。人の役に立つことが好きで、優しかった父。学校行事も積極的に参加し、小学校の時には、バレーボールも教えてくれました。私はこんな父が大好きでした。捜索にあたっていただいた皆さん、父を見つけ私たち家族のもとへ届けてくれた皆さん、ありがとうございました。・・・・」


最後には、天皇陛下のお言葉の終りの箇所を
引用します。

「・・国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようにたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。」
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毛布の話。

2012-03-11 | 短文紹介
昨日は、ひさしぶりに飲みました。ビールと日本酒。そうそうに帰ってきたのですが、ほっとしてコタツで寝てしまいました。うん。朝起きると毛布がかかっている。

ということもあって(笑)、毛布の話。
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社)に

「1923年の関東大震災の時、東京に二人の平凡な市民の女性たちが住んでいた。共に二十代半ば、共に幼い娘を持っていた田舎出身の主婦であった。大震災の後、この女性たちは、アメリカからの贈り物という毛布をもらった。一人の女性は、後年生活が楽になって、義援の毛布より少し上等な毛布を買えるようになっても、もらった毛布は大切に仕事場で使っていた。その二人とは、夫(注:三浦朱門)の母と私(注:曽野綾子)の実母である。当時二人はまだお互いの存在さえ知らず東京の下町で暮らしていた。後年、震災後に生れた息子と娘が結婚した後、二人は震災の話をして、二人とも公平に同じようなアメリカの毛布をもらったことを確認し合った。日本の町方の組織は、当時からそれほどしっかりしていて、しかもフェアーだったのである。」(p139)

次に佐野眞一著「津波と原発」(講談社)。
そこに、岩手県陸前高田市の県立高田病院に入院中、津波被害にあった山下文男氏と佐野眞一氏との会話がありました。

―― 高田病院にも行ったんですが、メチャメチャでしたね。あんな状態の中でよく助かりましたね。
「僕はあの病院の四階に入院していたんです」
―― えっ、津波は四階まできたんですか。
「津波が病室の窓から見えたとき、僕は津波災害を研究してきた者として、この津波を最後まで見届けようと決意したんです」
・ ・・・・・・・・・・・
―― ・・四階の病室から見ていたんですね。
「そう、それを最後まで見届けようと思った。と同時に、四階までは上がってこないだろうと思った。陸前高田は明治29年の大津波でも被害が少なかった。昭和大津波では二人しか死んでいない。だから、逃げなくてもいいという思い込みがあった。津波を甘く考えていたんだ、僕自身が」
―― わが国津波研究の第一人者がね。
「それが一番の反省点だ。九死に一生を得たけれど、何も持ち出せなかった」
「・・窓から津波を見ていた。ところが、四階建ての建物に津波がぶつかるドドーンという音がした。ドドーン、ドドーンという音が二発して、三発目に四階の窓から波しぶきがあがった。その水が窓をぶち破って、病室に入ってきた。そして津波を最後まで見届けようと思っていた僕もさらわれた。・・僕は津波がさらってなびいてきた病室のカーテンを必死でたぐり寄せ、それを腕にグルグル巻きにした」
―― でも水はどんどん入ってくる。
「そう、水嵩は二メートルくらいあった。僕は顔だけ水面から出した。腕にカーテンを巻きつけたまま、十分以上そうしていた」
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
 山下はずぶ濡れになった衣服を全部脱がされ、フルチンで屋上の真っ暗な部屋に雑魚寝させられた。自衛隊のヘリコプターが救援にきたのは、翌日の午後だった。ヘリコプターは屋上ではなく、病院の裏の広場に降りた。ヘリから吊したバスケットに病人を数人ずつ乗せていたのでは時間がかかるし、年寄りには危険だと判断したためである。
「36人乗りの大型ヘリだった。中にはちゃんと医務室みたいなものまであった。僕はこれまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有り難いと思ったことはなかった。国として、国土防衛隊のような組織が必要だということがしみじみわかった。とにかく、僕の孫のような若い隊員が、僕の冷え切った身体をこの毛布で包んでくれたんだ。その上、身体までさすってくれた。病院でフルチンにされたから、よけいにやさしさが身にしみた。僕は泣いちゃったな。鬼の目に涙だよ」
山下はそう言うと、自分がくるまった自衛隊配給の茶色い毛布を、大事そうに抱きしめた。山下はその毛布を移送された花巻の病院でも、ホテルでも子どものように握りしめて離さなかった。
「この毛布は、運ばれた花巻の病院の毛布よりずっと暖かいからね。ところが、花巻の病院を退院するとき、それはこっちにおいていきなさい、と言われた。でも、看護師長がもらったものを取り上げることはないと言ってくれたおかげで、ここにもってこれた」
自衛隊の対応がよほどうれしかったのか、山下はもう一度毛布をしっかりと抱きしめた。


以上は「津波と原発」(p54~57)より、引用させていただきました。

ちなみに、曽野綾子さんは
「災害時に配られる有効な寝具は、寝袋以外にない。」(p118)といっている箇所があります。そういえば、冬登山に寝袋はつきものですが、毛布はもっていくのでしょうか。
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普通以上に見て。

2012-03-09 | 短文紹介
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社)の第3章は「『想定外』との対峙」となっており、この章は具体的で参考になり、それが印象に残ります。
たとえば、
「非常時用の握り飯は必ず梅干しを入れなければならない。・・ことに少し温かいうちにラップに包んだお握りは危険だ。・・被災地に配る握り飯は扱い方によっては危険を孕んでいるはずである。」(p102)

「『停電になったら冷蔵庫の扉を開けてはいけない』ということなのである。アフリカの多くの土地では電気もなく、電灯はあっても冷蔵庫などない家も多いのだが、たまに冷蔵庫を持っている人は、停電だらけの毎日の中で冷蔵庫の使い方にも長(た)けていて、私はこのことを習ったのである。しかし多くの日本人は停電時の冷蔵庫の使い方も知らないのである。」(p93)

そのアフリカについては、こう説明しておりました。

「私が1972年に始めた海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)は、貧しい途上国で働くシスターたちの事業を支援する組織だった・・・・私はほとんど毎年のようにアフリカに出かけていたのである。その旅行は最悪の場合は、途上国の首都からさらに数百キロも離れた奥地だから・・・石鹸や裁縫道具、ソックスなどを忘れて来ても、ほとんど買える店はなかった。懐中電灯を肌身離さず持ち歩いて・・・」(p111~112)

さって、このあとに、曽野さんはこう書いております。

「だから私は一度、南極越冬隊の装備を手がけてみたいとさえ思ったことがある。」(p113)


うん。南極越冬といえば、西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書)があるじゃありませんか。ということで以下は、南極越冬隊について。

ここでは西堀栄三郎の「新版 石橋を叩けば渡れない。」(生産性出版)から引用してみます。

「私が南極のことを一番よく知ってることから、私に南極越冬の命令がくだったわけです。そうはいうものの、私の知識にしたところで、日本の中ではよく勉強しているというだけで、実はほんとにわずかなものです。だから私たちは、ほとんど未知のところへ行く準備をしなければならない。さあ困りました。」(p33)

「・・準備する品物が、何を持って行ったらいいものか、何を忘れたら困るのか、さっぱりわかりません。そこで自分でもやり、またみんなにも手伝ってもらいましたが、手分けしてデパートへ行き、これもいるな、あれもいるな、と手帳に書いてくることにしました。そのとき驚いたことは、頭のいい男がおおぜいで調べに行ってくれたのに、私の帳面が一番こまかく書いてある。これはどうしてだろう、私の頭が一番いいのか?そんなことはありません。若い人たちの方がずっと頭もいいし、元気もあります。ちがう点は、私が、忘れたら大変だという心が一番強かったわけです。ほかの人は私ほど責任感を持っていない、だから普通に見てくる。私は普通以上に見て、その裏の裏を考えて書かなければならない。いわゆる責任感というものがいかに大事かということをつくづく感じました。」(p35)

では、南極へ行ってみて、どうだったか?
ということで、「南極越冬記」からは、ひとつだけ引用。

「朝食後、片対数方眼紙をさがしたがない。研究用品の不足なのには、ほとほとこまったものである。昨夜計算した数値をグラフに書けないのが残念だ。研究用品の不足で、このほか、こまったのは、ピペットがないことだ。だから滴定ができない。これはまったくひどい話だが、わたしにも責任がある。準備のときに、わたしは化学研究用品については、こう言った。旧制高等学校の化学分析に使う程度の試薬は全部そろえてもらいたい、それから化学天秤は必要だ、と。わたしは、とくに、定量分析のことには言及しなかったのだ。そしたら、滴定用のピペットが入っていなかった。じつは、わたしは、自分用のコマゴマした研究用道具を入れた箱を、用意していた。ところが、どうしたわけか、その箱が文部省の南極観測本部の部屋に置かれたままになってしまった。その中には、ずいぶんいろいろなものが入れてあった。それさえあれば、そうとう助かったのだ。・・・・ほんとうは、だいじな箱なら、ちゃんと自分でもって来なければいけなかった。わたしは、いそがしさにまぎれて、人に頼んだ。それがいけなかった。忘れたというのだ。」(p108~109)


また、「石橋を叩けば渡れない」より引用させてください。

「・・いろいろなことがわかってきます。それがわからない間はすべてに用心しなければならない。だから物事をやるとき、第一回目と第二回目では大変なちがいがあるのです。しかし、二回目と三回目ではもうほとんどちがいはなくなります。
その証拠に、私たち第一回の越冬隊の連中は、家族と泣きの涙で別れてきました。生きて帰るか死んで帰るか、いや死んだら死骸さえ帰って来られんかもしれないのです。ワンワン泣きながら、別れました。そういう第一回目の越冬隊員の別れにくらべて、二回目の人たちが別れるときは、はあ行ってきます、とまるでピクニックにでも行くような調子でした。一回目の人たちの不安や、悲壮さは、もう二回目の人たちにはありませんでした。それほど、未知ということはこわいものです。」(p37~38)

うん。じつは「南極越冬記」の「カブースの火事」をすこし引用したかったのですが、まあ、こう書いておけば、また読んでみたいときは、めくってみるでしょう。
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被災していない人間。

2012-03-08 | 地域
Jレスキュー編「ドキュメント東日本大震災」(イカロス出版)に、消防団のことが取り上げられておりました。岩手県陸前高田市 陸前高田市消防団高田分団。分団長大坂淳氏。ここでの分団長ほか団員の活動に敬意を抱きます。その中の、火災についての箇所。

「ところで発災後の遺体捜索で忙しい中、高田町ではいつになく火災が発生した。塩水に浸かったハイブリッド車の電池が化学反応を起こし、発火して火事になった。津波の被害を受けていない家が庭先でゴミや草を燃やし、燃え広がって山火事になった事例も複数あった。かつて6台あった消防団のポンプ車は津波で5台が流されている。水は止まっていて消火栓は使えない。雨も降っていない。水タンクがついていない消防団のポンプ車の場合、水利はすべて現場調達だ。火災現場では小川を土嚢で堰き止め小さな水たまりを作り、細々と注水するなど苦労を強いられた。いくら町が被災して厳しい状況にあっても、被災していない家にとっては以前と変わらない日常が続いている。不注意による出火が、こうした状況下でどれほどの事態を招くことになるのか、日常の延長で生活している人は気付きにくい、あるいは気付こうとしない。『ばあちゃん、なぜ、水ないのわかってんのに燃やすだよ。どーすんだよ。山火事になっちまってよ』同じ自治体の住民でも、被災した人間と被災していない人間の感覚は正反対といえるくらい違う。それもまた、被災地の現実なのである。」(p78~79)

被災して罰を覚悟で、火を燃やすこともあり、
被災していない場所で、何気なく火を燃やすこともある。
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焚き火を燃やす。

2012-03-07 | 地域
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社)に

「もし私が被災者の一人で避難所にいて、寒さに震えていたら、体育館や講堂の床材にもよるが、どこか燃えないコーナーを探すかして、火事にならない程度の焚き火を燃やす。こうした場所で火を使うことはいけない、とういことはよく知っている。しかし人を救うためには禁を犯せばいい。罰を受けたらいいのである。・・・」(p200)

この想定外における「焚き火を燃やす」というテーマは、いざ、臨機応変の考察をする場合の、ひとつの具体的な討論材料となると思うのですが、いかがでしょう。

曽野さんは
「私はいつも心の底で、電気もガスも止まる日本の冬の日がいつかあるに違いないと考えていたのである。」(p114)と書いております。「いつも心の底で」というのは、私などには到底無理。ですが、臨機応変のテーマとして「焚き火を燃やす」という場合がある。これについて常々語りあうのはよいことだろうと、思えます。

では、そのテーマで、素材をあげていこうと思うのです。

そういえば、方丈記の災害のはじまりはというと、
「風はげしく吹きて静かならざりし夜、戌の時ばかり、都の東南より火いできて西北に至る。果てには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき。火元は樋口富ノ小路とかや。・・」

うん。もう少し引用してみましょう。

「遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じてあまねく紅なる中に、風に堪へず吹き切れたる焔、飛ぶが如くして一二町を越えつつ移りゆく。其中の人うつし心あらむや。あるいは煙にむせびて倒れ伏し、あるいは焔にまぐれてたちまちに死ぬ。あるいは身ひとつからうしてのがるるも、資財を取り出づるに及ばず。・・・」

つぎには、海堂尊監修「救命 東日本大震災、医師たちの奮闘」(新潮社)から。
岩手県陸前高田市高田病院の院長・石木幹人氏のインタビューから、

「吹きさらしの屋上は、寒さもいっそう厳しかった。ボイラー室など風を防げる場所が二カ所あったので、患者さんを優先的に入れて、一般の人と職員はその外にいるようにしました。・・・職員は半そでの白衣という薄着で、中にはびしょびしょに濡れた人たちもいたので、外に出しておくのは忍びないような状態でした。町からの避難者の中にはちゃんと防寒具を着て逃げてきた人も多かったので、その人たちが最初に外にいるような配慮も自然にできていました。患者さんたちはびしょ濡れの状態で屋上へ上がったので、急いで着替えさせなければなりません。看護師たちは四階の病棟へ戻って、乾いている衣類やオムツなどを探し、濡れた人たちを着替えさせていきます。夜になる前にそうした作業を済ませ、懐中電灯や電池、タオルや毛布など、使えるものはとにかく屋上へ上げろという指示をしました。・・・その日は五時くらいに暮れてしまい、月明かりもなくて真っ暗になりました。星はけっこう見えたけれど、時折、雪がちらつくような凍てつく晩だったのです。冷え込みはいっそう厳しくなり、ビニールのゴミ袋をかぶったり、紙オムツを身体に巻きつけて寒さをしのぎました。紙オムツはわりに温かかったと思います。
それでもあまりの寒さに耐えきれず、夜中になると、外にいた人たちが屋上で火を炊き始めました。最初はそんなつもりはなかったけれど、誰かが『木を燃やそう』と言い出したときは、『危ないからやめろ』と反対するわけにもいかなかった。病棟で使っていたドアや棚など、木製のものをどんどん屋上にあげ、そこで壊して燃やしながら暖をとりました。温かいところは人がギュウギュウ詰めになって、一人座るのも大変でした。・・・」(p188~189)

「夜間もヘイコプターが上空を飛んでいて、皆で手を振ったり、ライトを振りかざしたりしていたけれど、やはり救援は来ませんでした。ラジオでは高田病院の屋上で火を燃やしているから、『火を消せ』というアナウンスがたくさん入ったらしいけれど・・・・そのまま朝まで火を燃やしていました。その晩は水も食べ物も口にすることはありませんでした。病院に備えているものはあったけれど、患者さんたちにまず食べさせなければいけない。高齢者は水分が不足すると具合が悪くなるので、確保していたものを見つけてきては飲ませていました。」(p190)

うん。佐野眞一著「津波と原発」(講談社)には、
高田病院の四階に入院していた津波研究家・山下文男氏に、震災後、佐野氏が直接会って聞いている箇所があります。



え~と。女子サッカーを見ていたら、いつの間にやら12時を過ぎてしまいました(笑)。今日はこのくらいとします。
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少しでもおかしいと感じたら。

2012-03-06 | 短文紹介
原子力災害対策本部の議事録を作成していなかった。
ということを、どう考えればよいのやら。

たとえば、曽野綾子著「揺れる大地に立って」(2011年9月初版)には、
こんな箇所があります。

「地震後しばらく経って、官邸と保安院と東電との間で、喧嘩か責任のなすり合いが始まった。東京電力福島第一原子力発電所の事故後、第一号機への海水注水を行うことについて、『言った』『言わない』『知らない』『伝えた』『連絡を受けていない』式のなすり合いが始まったのである。ことがこれほど重要でなければ、世間にいくらでもある喧嘩の典型的タイプである。」(p162)

「・・組織が喧嘩をしないためには、記録を採る習慣が非常に大切だと私は改めて思った。私は前に勤めていた日本財団で行っている事業に関して、何か少しでもおかしいと感じたら、その瞬間から記録を採る習慣を職員に要請した。『○月○日、××の件で、どこそこの△△さんと名乗る人から、根堀り聞くという感じの電話を受ける』から始まって、その問題に関するあらゆる人のあらゆる種類のアプローチを、とにかく記録しておくのである。これは非常に大切なもので、後になって大きな働きをすることがある。・・・記録は一種の武器なのである。」(p163~164)


ところで、「文芸春秋」三月臨時増刊号「3・11から一年 100人の作家の言葉」というのが出ておりました。
そこの五木寛之氏へのインタビューに、こんな箇所がありました。

「ニュースをみながら、敗戦当時を思い出していました。敗戦のとき、私は北朝鮮の平壌(ピョンヤン)にいました。まだ少年だった私は、なすことなく、ただ茫然としていたのです。そのときラジオでは、『治安は確保されます』と繰り返し放送されていた。『市民は動揺することなく現地にとどまれ』ということですね。私たち家族は、その『お上』からの情報を盲目的に信頼し、平壌を動かなかった。・・・そうこうするうちに、ソ連軍が進駐してきて、平壌の日本人たちは孤立状態となったのです。・・・今回の原発事故でも、『ただちに人体に影響はありません』などと、安全を強調する政府の発表がしきりにニュースで流れました。私は、それを聞くたびに、敗戦当時の『治安は確保されます』という言葉が思い出されてなりませんでした。」(p21~22)

こういう経験を持つ五木寛之氏は、そのあとの方でこう語っております。

「・・たとえば原子力災害対策本部の議事録を作成していなかったことが問題になっていますが、そんなものを国民に見せるわけがない。たとえ議事録があったとしても、公開せずに処分するのが当然と考えるでしょう。」



うん。話題をかえます。
この三月臨時増刊号に14人大座談会というのが掲載されておりました。
そこに、荒谷栄子さんが語っている箇所があったのです。

吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)の中の「昭和八年の津波 子供の眼」に、尋常小学校六年の牧野アイさんの作文が載っております。そのあとに吉村昭が、大人になった牧野アイさんに言及しており印象深かったのでした。
その文庫にはこうあります。
「この作文を書いた少女は、現在田老町第一小学校校長の夫人として同町に住んでいる。49歳とは思えぬ若々しい明るい顔をした方だった・・・・津波によってすべてを失ったアイさんの生家は、破産した。そして孤児となったアイさんは、田老村の叔父の家に引きとられ、その後宮古町に一年、北海道の根室に五年と、親戚の家を転々とした。アイさんは成人し、19歳の年には再び田老にもどり翌年教員の荒谷功二氏と結婚した。ご主人の荒谷氏も、津波で両親、姉、兄を失った悲劇的な過去をもつ人であった。荒谷氏とアイさんの胸には、津波の恐しさが焼きついてはなれない。現在でも地震があると、荒谷氏夫婦は、顔色を変えて子供を背負い山へと逃げる。豪雨であろうと雪の深夜であろうとも、夫婦は山道を必死になって駆けのぼる。『子供さんはいやがるでしょう?』と私(注:吉村昭のこと)が言うと、『いえ、それが普通のことになっていますから一緒に逃げます』という答えがもどってきた。」(p135)

この荒谷アイさんについては、「『つなみ』の子どもたち」森健著(文芸春秋)に現在の様子が語られておりました。
今度は、その娘さんである荒谷栄子さんが、こんどは座談会で語っているのでした。
それも引用していきます。ちなみに文芸春秋三月増刊号には荒谷栄子さんの紹介に「59歳・岩手県宮古市田老第三小学校校長」とあります。

「私の住む宮古市田老地区は、何千年も前から津波と復興を繰り返して来ました。数年前から、津波のための避難所(シェルター)をつくったり、マニュアルをつくっては見直したりと、教育委員会の指導の下でやってきたわけです。だけど今回、私の中では、マニュアルは関係なかった。あ、これは津波が来る、子どもの命を守らなきゃと、子どもたちを集めて何も持たせないであらかじめ決めておいた高台に避難させました。ただ、雪が降って寒かったので、ジャケットを一枚はおらせて。小・中学校併設校だったので、中学生と小学生をセットにした形で、『中学生たち、小学生を頼むよ』と。二十名に満たない小規模校だったので、そうやって高台に避難させました。マニュアルでは車は使うなとか、それから学校の帳簿を持ち出せとか、細かく書かれていたのですけれども、そういうのは一切頭にはありませんでした。これは私自身の生育歴にも関係していると思います。私の母親は昭和八年の津波で生き残った人で、・・・・私たちは母親のお腹の中にいるときから、
 『地震が来たら、
  津波が来る、
  だから高台に逃げなさい、
  絶対戻ってはいけない』
この四点セットで、実にシンプルで分かりやすく教えられました。」(p56~57)

「母親は当時十一歳だったんですけれども、そのときの状況をよく覚えていて、足が片方なかったり、腕がなかったり。当時の小学校の先生は内臓の位置が動いたって。まあ、その方は二年ぐらいで亡くなったそうですけれども。だからうちの親は、『津波に勝とうと思うな』って、これからも、自然に対する畏敬の念というのを声を大きくして伝えていかないと、また同じことが繰り返されると思います。」(p66)

うん。荒谷アイさんは昨年89歳ぐらいということになります。
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今の80代90代。

2012-03-05 | 短文紹介
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社)を読みました。
題名の脇に小さく「東日本大震災の個人的記録」とあります。
読んでよかった。
連載の雑誌などで、ちょこちょこ読んでいたはずなのですが、
読後感は、その印象とは違って、一冊の充実感が伝わります。
たとえてみれば、3・11という梅干を中心に、
非常時のおにぎりを手際よく握ったような、
そんな一冊(妙なたとえで御免なさい。文中に、こういう喩えを、つい、つかいたくなるような具体的な箇所があるのでした)。

はじまりには、こうありました。

「幸か不幸か地震と共に私は、たくさんの原稿を書くことになった。私はいつも周囲の状況が悪くなった時に思い出される人間なのではないか、と思う時がある。」(p27)

非常時の「炊き出し」ならぬ「書き出し」の要請に、この80歳のおばさんは、若者にもできない機敏さで対応していたのでした。

そういえば、釜石の防災教育で知られるようになった片田敏孝氏のことが新聞に載っておりました(産経新聞3月3日の3面にコメント)。

「教育委員会には防災教育の普及をお願いしてきたが、『余計な仕事を持ってくる』と嫌がられ、われわれにとって『敵』だった。だが震災以降、全国の教育委員会から『釜石の防災教育を教えてほしい』と依頼が来るようになった。受験戦争や国際化への対応など教育現場は大変だが、それは生き残ってからの話だということに気づいてくれたのだと思う。・・・」

片田氏とともに、想定外になると、発言を求められる曽野氏であります。
この本にはこうもあります。

「途上国の医療機関は、元々電気がないか、あっても充分ではないかなのだが、電気が切れた瞬間からすべての法規や組織は一時的に壊滅して、超法規になる。そして前に書いたように、各人が職種を超えて、臨機応変の行動をとる他はない。その時に初めてその人がそれまでの人生で得た知識、体力、資質、訓練、心構え、判断力、あるいは信仰などが、力となって生きてくるのである。」(p189)

曽野綾子さんの「それまで人生で得た」さまざまな考察が、この一冊にさりげなくも握りこまれている。そのような味わいの一冊となっております。

ここでは、年齢に関する語りを、すこし引用。

「今度初めて七十歳以下の人々は、3月11日以前の日本社会が崩壊したのを見た。彼らはそのような日本の姿が崩壊する日があろうかとは思わなかったようだった。そして未だにこの現実をどう受け入れていいのかわからないで落ち込んでいる。日本の繁栄に関する彼らの揺るぎない信頼がこれほどに厚いものだと知った私の方が、逆に驚いたのであった。」(p71)

そういえば、菅直人さんは、首相の時の国会中継で反駁する際に、「私は60歳をすぎて、それなりに分別や経験を積んでいるのですから」というような言葉を持ち出していたことを思い出します。

「・・・・『安心して暮らせる生活』と『もうダムはいらない』『コンクリートから人へ』の三つの言葉が、これほどにも早く間違いであることが証明されるとは、私も思ってもいなかった。私が日本を『夢のお国』と言うと、たいていの若い世代は本気にしなかった。」(p70)

「敗戦時に、今と違って地域的な被害ではなく、国民のすべてが多かれ少なかれ家や財産を失っているのを若い人たちは知らない。何しろ健康保険も、生活保護も、避難所も、仮設住宅も、ボランティアの支援もなかった時代に、今の八十代九十代の人々は住む家も焼け、衣服も食料も日本中になくなった中で生きなければならなかったのだ。救いなどどこからも来るわけがなく、それがいつまで続くかもしれなかったのである。」(p235)

さて、この炊き出しのおにぎりのような、非常時の臨機応変の一冊。その味わいの有無を、どうぞ、読んでお確かめください。と、最低限でありながら、広範囲に及ぶ的確さの目配りを、ぜひとも薦めたくなる一冊。まあ、それはそれとして、この味わいが何であるのか、もう一度読み返してみます。
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震災句集。

2012-03-04 | 詩歌
注文してあった長谷川櫂著「震災句集」(中央公論新社)が届く。
初版2012年1月25日とあります。知らずにおりました。
同じ著者の「震災歌集」は、俳句作家による歌集ということで、宣伝されておりましたので、買っておりました。「震災句集」をめくっていると

 生きながら地獄をみたる年の逝く    (p123)

というのがありました。
山折哲雄著「絆 いま、生きるあなたへ」(ポプラ社)に
「被災地における親しい知人とやっと連絡がとれたときにでした。かれが、まっさきにいった言葉が『まさに地獄だよ』というものでした。・・・」(p30)とあったことを思い出しました。
この句集の最後には「一年後」という4ページほどの文があります。あとがきのかわりのようです。そこに
「大震災ののち十日あまりをすぎると、短歌は鳴りをひそめ、代わって俳句が生れはじめた。・・・・句集の初めと終わりに二つの新年の句を置いた・・・どんなに悲惨な状況にあっても人間は食事もすれば恋もする。それと同じように古い年は去り、新しい年が来る。」(p154)

この句集のはじまりの句は

     2011年新年
  正月の来る道のある渚かな

また、こんな句も

   大震災ののち短歌にかまけて
 俳諧の留守の間に咲く桜かな

 俳諧の十日の留守や桜ちる

 

以下は、私に印象深い句を列挙。



 一望の瓦礫を照らす春の月

 みちのくの山河慟哭初桜

 さはさはと余震にさやぐ桜かな

 いくたびも揺るる大地に田植かな

 幾万の声なき声や雲の峰

 初盆や帰る家なき魂(たま)幾万

   首相退陣
 政局や今ごろにして柳ちる

 はるかなる海の果てより帰り花

 人間に帰る家なし帰り花

 震災の年のゆきつく除夜の鐘

 原発の蓋(ふた)あきしまま去年今年



この句集の最後の句は、というと

    「志ほかま」は塩竈の菓子
 しほがまの塩味の春来たりけり
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一人の女の子。

2012-03-03 | 本棚並べ
司馬遼太郎の「『昭和』という国家」(NHK出版)は、放送記録を構成した一冊。その最後の章は「自己解剖の勇気」となっておりました。
そこに、
「本当に日本人にはいいところがあるのですが、自己を解剖することについては、実に臆病でした。第二次大戦が終わって、敗戦になって、しかも日本の戦史は依然として防衛庁が編纂しています。第三者、つまり歴史家たちにゆだねていない。怖いわけですね。軍人は勇敢でなければならないし、勇気をもたなければなりません。しかし、自己を解剖されることについて、臆病と言われても仕方のないことでしょう。これは日本人全体についてもいえます。・・・日本のジャーナリズムも明治期や大正期には元気のいい時代もありましたが、自国を解剖することに関してはどうでしたでしょうか。自国の政府を解剖したり、ジャーナリズムがジャーナリズム自身までを解剖する勇気があったかどうか。それがあったとは思えませんですね。日露戦争が終わった後、それほど高度に発達したジャーナリズムではなかったけれども、日露戦争は実際はどうだったかと、追求する能力があったとしたらですね、太平洋戦争は起こらなかったかもしれません。・・・」

この最終章で、司馬さんは一人の女の子の話を最後にもってきておりました。
「一人の女の子がいましてですね、その女の子は高等学校を出たばかりの、高知の子です。彼女は言います。全く偏差値社会と関係のない子でして、こんなことをよく言います。『日本という国は息苦しい』と。どこかの国の人と結婚したい、もう日本の社会は私にはあわないという。・・・」

話題をかえます。
注文してあった古本の文庫がとどく。
古書店ふくろう(岩見沢市)より

星野博美著「謝々(シエシエ)!チャイニーズ」(文春文庫)
本代350+送料290=640円なり。

これで、星野博美関連本がまとまりました。
あとは読むだけなんですが(笑)。

とりあえず、星野さんの本を並べてみます。
「コンニャク屋漂流記」(文藝春秋・2100円)これ新刊。
「銭湯の女神」
「のりたまと煙突」
「転がる香港に苔は生えない」
「謝々!チャイニーズ」(以上は文春文庫)

関連で、
「言葉を育てる 米原万里対談集」(ちくま文庫)
米原万里著「打ちのめされるようなすごい本」(文藝春秋)


う~ん。読まずに本棚の飾りとして、
ここは、寝かしておきます。
まず、司馬遼太郎の「『昭和』という国家」の脇に
曽野綾子さんの、たとえば
「日本人が知らない世界の歩き方」(PHP新書)とか、
曽野さん震災関連の本などをすこし。
ちょいと米原万里とか、西原理恵子も。そして
星野博美さんの本をならべたいと思うのでした。
読まずして、本棚整理する愚をお笑いください。
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乗り越えられる。

2012-03-02 | 地域
佐藤真一著「南三陸から 2011.3.11~2011.9.11」(発売・日本文芸社)は、昨年の9月30日発行。この写真集を私は、早めに購入しておりました。ですが、はじめて見たときには、各種の震災報道写真と比べると、ずいぶん地味な写真集だなあと思っておりました。

もうすぐ東日本大震災から一年が経とうとしております。
あらためて、この写真集をひらいて、
大震災を乗り越えるための希望が写しこまれていることに、
遅まきながら、気づかされました。

私は失礼にも、大震災の情報を得ようと、この写真集にむかておりました。最初は、大津波被害が(枚数もそうですが)抑制をもって写されていることにもどかしさを感じておりました。どうにも私には、被災された方が、それを乗り越えようとする視線にまでは、思いもよらなかったのでした。

時間をおいてから、改めてひらくと、
3・11大震災前の、街全体の鳥瞰写真やら、電車が走っている光景やらが、かけがえのない風景として、はじめに置かれていることに気づかされます。そして、大津波が襲う写真も、凛とした選択で数枚が抑えてられており、
そう思ってみると、
被災した瓦礫の中の光景も、
瓦礫の写真が並ぶ、そのつぎには、
その間をぬって歩き始める住民の姿を、
まるで、これから伸び始めるようとるす姿として
写しこまれているのに気づくのでした。
私は何を見ていたのだろうと、恥ずかしくなってきます。
避難所体育館の様子も、小学校の卒業式でしょうか、
卒業生の後ろには、住民のひとたちがまとまって写る集合写真。
どれもが、この大震災を「乗り越えられる」と、地域の記憶として
共有してゆく意志を、あたたかくすくいとっておられました。


あらためて、
「救命 東日本大震災、医師たちの奮闘」(新潮社)の言葉を噛みしめます。この本で、南三陸志津川病院におられた菅野武医師は、こう語っております。

「医者としてできたのは医療行為ではなく、励まし寄り添うということだけでした。」

「ちなみ五階にあった食べ物は柿ピーが数袋と二リットルのペットボトルの水三、四本だけ。・・柿ピーは一人二粒ほどです。僕が食べたのは半かけらくらい。・・・弱っている患者さんが横たわっている現実が、健康な人たちの自制心を保ったんじゃないでしょうか。自分より弱者を支えることで、自分たちが生かされていると実感できたんだと思うんです。」

「・・他人のために一生懸命に尽くすことで、自分の崩れそうな心を支えられました。たぶん僕が一人ぼっちで避難していたら、精神的に崩れ落ち、茫然とした挙句に自殺したかもしれません。そのくらいの怖い体験でした。」

大震災のときに、偶然にも、菅野医師の奥さんは、お産で仙台へ行っておりました。

「・・僕が救出されたのは三日目、13日の午後です。最後の患者さんとヘリに乗り込みました。・・・実家の仙台に戻ったのは、患者さんを見届けてからです。・・実は仙台に帰ってから、ずっと眠れなかったんです。余震が怖いし、津波の映像を見ると居ても立ってもいられない。思わず、テレビのリモコンを投げつけたりしていました。しかし、息子が生まれたらウソのように眠れるようになったんですよ。振り切れていた針が戻されたというか、ようやく精神的に平常になれた。それまでは正直いって、南三陸町に戻るなんて無理だと思っていたのが、もう一回行ってみようという気になったんです。」

「僕が南三陸町に戻って活動したのは、4月15日までのおよそ一ヵ月です。15日には南三陸町の仮診療所が立ち上げられましたし、私の後任の自治医大卒の医師が来ることが決まったので仙台に戻ったわけです。その間は、避難所の体育館で寝袋にくるまって横になっていました。あの時期でも、やっぱり余震が怖かった。4月7日には、余震と呼ぶには大きすぎる地震があって、揺れるだけでなく、体育館の天井からパラパラ粉が落ちてきました。このままパネルの下敷きになって死ぬんじゃないかとヒヤヒヤしました。」

「特に印象に残っているのは、イスラエル医療団の皆さんのことです。彼らは三月の下旬にやってきてくれて、いろんな活動に協力してくださいました。任務を終えて南三陸町を去る直前、オフィールさんという医療団の幹部の方が、被災した医者と話がしたいって申し入れてきたんです。・・・オフィールさんは熱心に聞き入ってくださり、深くうなずいてから、こうおっしゃいました。『そういう自分や他の医師を責めるんじゃなくて、むしろそういうときに頑張れた人たちに眼を向け、大いに褒めることが大切だ』イスラエルの医療団は、それこそ銃撃戦のさなか、多数の死人が出るベースキャンプで活動してきたそうです。・・・オフィールさんのような百戦練磨の軍医でも、今回の津波の爪痕を見ると、もう鳥肌が立って仕方がない。こんなふうに、すべてが流されて無くなってしまう状況は、どれだけ激しい戦争の場でも見たことがない。だけど、そういう中だからこそ、医師は医療行為ばかりでなく、真のリーダーとして振る舞いたいものだと、静かにお話になったんです。
『真のリーダーとは、周囲のみんなに明日を生きる希望を与えることができる人のことだ』思いがけず彼は、僕が震災当日の病院の五階の会議室で、あれこれ悩みながら行ったことを評価してくださいました。その中でも、みんなで寄り添ってがんばろうと、旗を振ったことが医療行為以上に大事だったんだとおっしゃるんです。・・・・」


このように語る菅野武氏を思い浮かべながら、
私は佐藤信一さんの写真集を、もう一度、ひらいております。
この写真集にも、しっかりと、明日を生きる希望が写されている。
そう思いながら。
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南三陸から。

2012-03-01 | 地域
オールカラー永久保存版とあります。
産経新聞社の「東日本大震災 1年の全記録」。
その冊子をひらけば、櫻井よしこ氏の巻頭言。
その脇の写真は、宮城県南三陸の防災対策庁舎あと。
骨組みだけが残された建物が水にも映っております。

南三陸といえば、
「南三陸から 2011.3.11~2011.9.11」(発売・日本文芸社)。
これは、地元の佐藤信一さんの写真集です。
表紙には
「・・私の店も家もすべて流されたけど、この町に生かされた写真屋ができる事。それはやはり写真で恩返しする事、そう強く感じています。・・」と書かれてありました。はじまりの6枚の写真は、震災前の町を撮ったものが並べられております。
それから、当日の写真になり・・・。
つづいて、震災の傷跡を背景にしても、希望をともすような町の住人の姿を通して、写しておられます。
むろん写真集ですから、音はありません。
静かで、私など、津波が襲う瞬間も気づかずにめくってしまいそうになります。あっ、と思うのは、津波が襲った際の、二枚の写真でした。
南三陸の防災庁舎屋上に避難し、白いヘルメットをかぶったりした20名ぐらいの人影が写されておりました。まわりには屋根屋根があります。ですが、よく見ると土煙がのぼりながら屋根の形をのこしてその下は、もう津波に押し流されているのでした。同じ位置から写された、
つぎの写真には、もう瓦屋根はどこにも見あたらず。
津波の本流があふれて押し流してゆくのでした。
その津波が、防災対策庁舎の屋上を呑みこみ、
ここからは、庁舎屋上のアンテナポールにひとりしがみついている人が見えるきり。津波の目印となるのは、公立志津川病院の4階と5階の建物。さらに、ショッピングセンター・サンポートの最上階の看板。
緑十字の建物の4階部分の窓からは、まるでダムの放水口のように
口いっぱいに、水が押しだされ、吐きだされ、そのすぐ下には、白濁した波がひろがっておりました。

海堂尊監修「救命 東日本大震災、医師たちの奮闘」(新潮社)の
最初は、公立志津川病院内科医(被災当時)菅野武氏でした。
こうあります。

「病院の建物は、1960年のチリ地震津波の教訓を活かして建築されたそうです。あのときが2・8メートルの津波だったので、この倍より高い6メートルを基準にして病室を3階以上に設け、安全を期していたわけです。僕としても、病院は海から400メートルほど離れているうえ、海岸線に松原、病院の手前にもスーパーや冠婚葬祭会館、公営団地という具合に比較的大きな建物があるので、それらが防波堤の役割を果たしてくれるんじゃないかと考えてました。・・・」(p11)

現代詩手帳2011年6月号に高良留美子の詩「その声はいまも」が掲載されていたのでした。その詩を引用させていただきます。


   その声はいまも

 あの女(ひと)は ひとり
 わたしに立ち向かってきた
 南三陸町役場の 防災マイクから
 その声はいまも響いている
 わたしはあの女を町ごと呑みこんでしまったが
 その声を消すことはできない

 “ただいま津波が襲来しています
  高台へ避難してください
  海岸近くには
  絶対に近付かないでください”

  ・・・・・・・
  ・・・・・・・

  わたしはあの女の身体を呑みこんでしまったが
  いまもその声は わたしの底に響いている




写真集「南三陸 2011.3.11~2011.9.11」の帯の最後に小さく、著者の紹介がありました。

「佐藤信一1966年、宮城県本吉郡南三陸町生まれ。親子二代、南三陸町で写真館『佐良スタジオ』を営んでいたが、2011年3月11日、東日本大震災の津波により自宅及び写真館を失う。『一番苦しいときの写真を残す。この先、何が起きても、みんなが乗り越えられるように』と、唯一持って逃げたカメラで地震直後から失われた街が元通りになるまでの道のりを今も撮りつづけている。」
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