和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『絵』を翻訳する。

2021-04-15 | 本棚並べ
注文してあった加藤周一著「絵のなかの女たち」が
今日届く。パラリとひらいたけれど、あ、これは
私には読めない本だなとわかる。
若ければ、ムダでも読んだかもしれないけれど。
いまでは、この本は読めない。送料とも371円。

うん。何で読めないのか。
そういうことなら、書けそうです。
杉本秀太郎氏の文をめくっていると、
いろんなことが、私の方で浮かんでくるのでした。
たとえば、翻訳に関するこんな箇所がありました。

「翻訳は労多くして、まことに利得のとぼしい作業である。
だがこの作業によってしか露呈しない局面を回避しないなら、
得る所は大きい。局面はすべて現代の日本文の問題に
係わってくるからである。」
  (p89・杉本秀太郎著「だれか来ている」青草書房)

思い出すのは、桑原武夫氏の七回忌での
杉本秀太郎氏の大学院での演習の思い出ばなしでした。

「二年目の演習は今度はサルトルの『文学とは何か』
というのがテクストでした。・・加藤周一さんの翻訳があります。

きのうもその翻訳と、原文とをちょっと覗いて、
当時を思い出していたんですが、とにかく一番熱心だったのは
先生と僕で、僕の手もとの加藤さんの訳本は本当に真っ赤に、
無惨に朱が入っております。その演習のとき、
先生はなかなか厳密に訳文を原文に照らされた。いうまでもなく、
フランス語の語感が非常に確かな方でしたから、
加藤さんの訳文は洗いざらい底まで見えてしまったような
感じがしました。」
 (p78「桑原武夫 その文学と未来構想」淡交社)

ここに、「フランス語の語感が非常に確かな方でしたから」
と桑原武夫氏を回想されておりました。
ここにあった「語感が非常に確かな」というのは
どんなことなのだろうかなあと思っていたら、

杉本秀太郎著「絵 隠された意味」(平凡社)の
いちばんはじまりが、画家の力量という話題から
はいっているのでした。
うん。画家の力量と、フランス語の語感の確かさと、
つい、同じ土俵にのせて読んでしまいました。
では、「絵 隠された意味」のはじまりを引用。

「好んで静物を描く洋画家が、自発的にせよ、
注文に応じてにせよ、薔薇の花を描く。

すると、描かれた花のうえに、描いた画家の
持ち前の色彩感覚、形態把握の力量が露骨に
あらわれてしまうのはおそろしいほどである。
機転、才覚の有る無しまで分かってしまう。
画家は薔薇にためされる。

描かれた薔薇にまさるとも劣らぬくらい
画家の天性が咲き出ているような薔薇の絵
というものには、容易にお目にかかれるものではない。」
(p8)

このはじまりに『画家は薔薇にためされる』とあります。
杉本秀太郎氏は『作家は絵画にためさえる』と宣言してるように読める。
この絵画論の口火を、こう切って語られて連載がはじまります。

どうしても、読む方でも、その気持のまま読みすすめます。
その面白さが、加藤周一氏の本には、残念ながら伺えない。
こんな読書の選り好みも、年を取ったせいかもしれません。
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山に登。千里を見。

2021-04-13 | 本棚並べ
『桑原武夫 その文学と未来構想」(淡交社・1996年)。
その表紙写真について、杉本秀太郎氏は「編集後記」の
最後で、こう書いておりました。

「カバーに用いた先生の影像は1966年冬の撮影。
七回忌の集まりには、正面スクリーンにこれが
大きく映し出された。先生の背後にかかっている拓本は、
北宋の人陳摶(ちんたん)の書。厳父隲蔵博士が明治40年
の中国旅行のあいだに購入されたと聞く。
先生はこの書跡が格別にお好きであった。」

この場合は拓本なのですが、
そういえば、この本には文字を書くことへの言及が、
杉本秀太郎・鶴見俊輔のお二人にあったのでした。

杉本秀太郎氏は大学の卒論を鉛筆で書いておりました。
そのことに関してご自身は、こう語っております。

「・・提出後暫くして、当時のフランス文学科の主任、
伊吹武彦先生から呼び出しがかかってきました。
研究室に行くと、体じゅう震わせて怒っておられる。
それは僕が卒論を鉛筆で書いたからなんです。
僕はその頃、自分の書く字がものすごく嫌で、
字を書いては消しして際限がないものですから、
万年筆ではよう書けなかった。
ただ鉛筆で書いたということだけをお叱りになって、
僕は引き下がりました。・・・」(p76)

はい。『自分の書く字がものすごく嫌で…』とある。
この本でもう一人、印象的なのは鶴見俊輔氏でした。

「私は京都大学に来たんですが、二年ほどいたんですけども、
そこで鬱病が現れてきて、これはもともと持っていたんですけども、

字が、自分の名前を書くのが嫌になったんです。
1951年の6月の末ですが、私は辞表を持って桑原さんのご自宅に
伺ったんです。・・・・・

京都大学を私がやめることがいいかどうかについての
当否については全く言及されないんです。ここに病人がいるから、
それは黙って給料を取っていればいいという、それだけなんです。

別の対応をもし桑原先生がそのときされたとすれば、
桑原先生は私の上司ですから、私はそこで辞めて、
とにかく自分の名前が書きたくないわけですから、
29歳で自殺したと思いますね。そう思います。」(p97)

鶴見俊輔氏は「自分の名前を書くのが嫌になったんです」
とあるのでした。鶴見さんの鬱病と関係するのかどうか、
杉本秀太郎著「京都夢幻記」(新潮社・2007年)に
「植物小誌」と題した文のはじまりもまた印象的でした。

「だれしも知るように、メランコリアに陥った人は明け暮れ
悪循環から抜け出せない。明けも暮れもないトンネルがつづく。

あるとき、平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)の『登山見千里』という
一行書を見て躍動する書体に驚き、そのはずみにメランコリアから
抜け出たことがある。50歳代半ばのことで、鬱状態の奥のほうに
錆びず居坐っているバネがあった。・・・・・」

これは、「植物小誌」という文のはじまりの
落語でいえば、マクラのような箇所にあたりますので、
もう少し語られたあとに話題はとってかわってゆきます。

ちなみに、この本には『登山見千里』の書は
写真掲載されていないのですが、
同じ著者の『絵 隠された意味』には、その書が
載っていました(p209)。

私みたいな素人が見ると、なんだかなあ、
とつい口に出てしまいそうな書体なのでした。
けれども、書体によって癒される方がいる。
ということはよく伝わってくるのでした。

あるいは、年齢がゆくと、書に興味がむくのは、
このような、要素があるからなのでしょうか?



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『書いてはあきまへん』

2021-04-12 | 本棚並べ
杉本秀太郎編「桑原武夫 その文学と未来構想」(淡交社)の
杉本氏の語りに忘れがたい箇所がありました。

杉本氏は、昭和24年に大学へはいります。
フランス文学科を選んだ。そして
卒論は、ポール・ヴァレリーをテーマにしたそうです。
卒論を提出すると、すぐに伊吹武彦先生からの呼び出しがある。
なんでも、卒論を鉛筆で書いたことのお叱りでした。
そして、卒論の試問になり、桑原武夫氏が杉本氏へと
語りかける場面があるのでした。

「『君の、読みました。鉛筆で書こうが字が汚かろうが、
そんなことはどうでもよろしい。おもしろかったらそんなことは
忘れて読みます。そやけど、君の書いたものはおもろなかった。』(笑)、
桑原先生はそう言われた。そして、
ちょっと暫く考えてから、

『狩野直喜先生て知ってますか。あの先生はでっせ。
一寸ぐらいあるこんな本を書いてやで、
最後に説明だけなら簡単であると、書いておられる。
君のは、たった三十枚や。しかも最後に君も、
説明だけなら簡単やと書いている。
こんなこと、書いてはあきまへん』と。」(p76~77)

「たったそれだけの先生の評言、批評を聞いて」
大学を出るのが惜しくなったと、杉本氏は語って
「これが、桑原先生という方に私が初めて
ほんとに触れた、最初の出来事でした。」とつづき
このあとに、大学院での演習の場面を語り始めておりました。

ちなみに、杉本氏が大学院にいた頃というと、
昭和24年(1949年)に大学に入学したのですから、
1950年代中頃でしょうか?

岩波新書の「新唐詩選続篇」(1954年)は、
吉川幸次郎・桑原武夫著となっております。
最後の方が、桑原武夫氏の担当のようです。
その桑原氏の「まえがき」のなかに

「私はよく若い人にいうのだが、
一篇の評論を書くことはいわば一つの戦いである。
長期にわたる蓄積と準備をへて正々堂々と戦う
のを本道とすべきことはいうまでもないが、
不意に状況が変り戦闘をよぎなくされるような場合にも、
一おうの戦いができないようでは武人とはいえぬ、と。
・・・」(p188)

うん。こんなことは、杉本秀太郎氏は
よく桑原武夫氏から聞かされていたのでしょうね。
では、「長期にわたる蓄積と準備をへて・・」
というのは、どんな蓄積と準備が必要だったのか。

それらしい箇所が、大学院の演習での
桑原先生と、僕・杉本秀太郎として語られておりました。

「・・二年目の演習は今度はサルトルの『文学とは何か』
というのがテキストでした。これもまた人文書院の全集に、
名前を挙げると後がしゃべりにくいんですけど、
加藤周一さんの翻訳があります。

きのうもその翻訳と、原文とをちょっと覗いて、
当時を思い出していたんですが、とにかく
一番熱心だったのは先生と僕で、僕の手もとの
加藤さんの訳本は本当に真っ赤に、無惨に朱が入っております。

その演習のとき、先生はなかなか厳密に訳文を原文に照らされた。
いうまでもなく、フランス語の語感が非常に確かな方でしたから、
加藤さんの訳文は洗いざらい底まで見えてしまったような
感じがしました。」(p78~79)


はい。フランス語の演習なんて、まるで別世界。
私には、当然チンプンカンプンなのですが、
あえて引用してみました。

ここに、杉本秀太郎と加藤周一と名前が、並びました。
さてさて、美術評論といってもよいのでしょうか
杉本秀太郎著「絵隠された意味」(平凡社・1988年)を
先頃古本で送料共470円で買いました。
カバー帯つきできれいです。
表紙は、竹内栖鳳の『斑猫』で、その猫の一部、顔のアップ。
この本のあとがきに、どういうわけでしょう。
加藤周一の名前が登場しておりました。
気になったので引用しておきます。

「・・・雑誌『太陽』1985年7月号より87年6月号まで
24回にわたって連載した。連載中の総題および各篇の題名は
そのままここに用いている。

『太陽』には、おなじ総題による一年間の連載が、
私のまえに完了していた。その書き手は加藤周一氏だった。

採りあげる画家あるいは絵が氏のものとかさなることがあっても
かまわないということだった。故意に避けようとも思わず、
故意にかさねようとも思わなかったが、結果を見ると
作品にかさなったものはなく、
画家はたしかピサネロだけがかさなっている。
ヨーロッパの絵画と日本の絵画を交互に採りあげるという
原則のほかに、私を拘束する条件は何もなかった。

好きな絵をわずかに24点ならべるのは造作もないことだったが、
取捨選択に私としての原則を考えた。・・・・」(p236)

はい。ネットで古本の検索をしてみると、
どうやら、加藤周一著「絵のなかの女たち」(南想社・1985年)
がその『太陽』連載のような気がする。
帯には『加藤周一初の美術をめぐる思索の書。』とある。
送料共で371円なので、今日注文しました。

はい。美術をめぐる思索の書。
その加藤周一版と、杉本秀太郎版とを
どうやら、いながらにして、読み比べることができそうです。

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いいことをしてあげたんや

2021-04-11 | 本棚並べ
「桑原武夫 その文学と未来構想」(淡交社・平成8年)
に、チョゴリザ遠征に参加された岩坪五郎さんの話がでてきます。

司会・多田道太郎氏が、こう紹介しておりました。

「・・・チョゴリザですね。・・・
私には本当によくわからなかったことなんですが、
そのときから岩坪という名前だけは聞き覚えがあったんです。
『岩坪がこうした』というお話をなさっていて、今回、こういう
思い出の中に山の人に入っていただきたいなと思ったときに、
その思い出がふっとよみがえりまして、岩坪さんをお呼びしました。
・・・」(p100)

ちなみに、チョゴリザへは1958(昭和33年)に行っております。
桑原武夫54歳でした。
では、岩坪氏のスピーチのこの箇所を引用。

「・・・桑原先生と私はチョゴリザの最長老と最若手ですから
三十ほど歳が離れております。・・・・

チョゴリザから帰ってまいりましたときに桑原先生が、
登頂いたしました平井のポコだとか私などを前に置かれまして、

『おれは何カ月間か平井のポコや五郎やいう連中とつき合うてきた。
君らから知的に得たものは全く何もなかった。
ただ精神年齢が大変若くなった。
その点について自分は感謝している』

とおっしゃいました(笑)。そのとき私は、
結局私らはアホで、桑原先生の頭に役立つようなことは
何もあらへん、まあ言うたらポチやミケみたいなもんやなあ
と思って、しゅんとしておりました。

しかし、これも61歳になってわかりました。
『私らは桑原先生に対してものすごく
いいことをしてあげたんやないか』と(笑)。
ええアイデアなんていうものは若々しい
精神状態から出てくるわけですから・・・・」(p103)


はい。これもまた、多田道太郎氏の名司会による
『下手なほうがいいんだ』という人選のお一人でした。
こうして、桑原武夫七回忌の一日が印象深く若い方々へと
バトンがわたされていったような読後感がありました。
はい。上手な梅梅対談もしかりですが、こういう細部が
よい読後感を味わえました。




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自身を、まないたに乗せて

2021-04-10 | 本棚並べ
本棚から3冊とり出す。

 「桑原武夫傳習錄」(潮出版社・1981年)
 「桑原武夫 その文学と未来構想」(淡交社・1996年)
 「梅棹忠夫に挑む」(中央公論新社・2008年)

うん。3冊目から引用をはじめます。
その「まえがき」は梅棹忠夫氏本人でした。

「わかいときは、還暦をむかえた先輩というと、
たいへんな老人のようにおもっていた。それが、
いつしか自分自身がその還暦から四半世紀をすぎて、
いわゆる米寿、八八というよわいをかぞえることに
なっていた。おどろいた次第である。

そのわたしに米寿に際して、わかい友人たちが
おいわいの会をひらいてくださるという。

それを、パーティーなどで飲みくいの席におわらせては
ざんねんであるとおもい、わたし自身をまないたに乗せて
議論をしたらどうかと提案した。

・・・・盛大な討論会となった。・・・・
このような機会がめぐってこようとは、おもいもしなかった。」


つぎは、3冊のはじめの1冊
梅棹忠夫・司馬遼太郎編「桑原武夫伝習録」から引用。
はじまりの序文は梅棹忠夫が書いておりました。
そのはじまりから引用。

「桑原武夫先生は、ことし(1981年)の5月に
喜寿の賀をむかえられる。第77回目のお誕生日の当日は、
友人・弟子たちがあつまって、祝賀会をひらく。その日を目標に、
この本『桑原武夫伝習録』の刊行計画はすすめられたのである。

桑原先生の人となり、行状、業績について、たくさんの文章が
知人たちによってかかれている。それをあつめて、一冊の本に
まとめようという企画である。

・・・・・・・
先生の著作のどれをよんでも、かずかずの学問的刺激をうける。
わたし自身も学問の道につらなるものとして、
先生からおおくの学恩をうけている。しかし、
学問はやはりなま身の人間のいとなみである。

学問は人物ときりはなされては存在しえない。
ご本人の著作とともに、他人のかたる人間像もまた、
その学問を理解し、継承するためのカギである。
『伝習録』は同時に『伝承録』でもある。・・・」

最後は3冊うちの、2冊目からの引用。
この本は桑原武夫7回忌の公開講演をまとめた一冊。
その最後の梅梅対談(梅棹忠夫・梅原猛)から
梅棹氏の発言を引用しておきます。

梅棹】・・・フィールドでは今西先生に鍛えられた。
ところが、研究室におけるリーダーシップはやっぱり
桑原さんは抜群であったと思います。・・・・・・・

桑原先生が人文科学における共同研究という手法を編み出された
ことになっております。そのとおりですが、一般にこれは大変誤解が
あるんです。共同研究というは専門を同じゅうする人たちが集まって
やるものだということが一般にいわれておりますが、
桑原先生のやり方は全く反対でした。

専門が違う人間が一緒にやることが大切なんだと。
専門が違い、それからテーマが同じではいけない。
全部他流試合の世界なんですね。

百科全書のときに集められた人数は二、三十人もおった
かと思いますが、それぞれ全部専門が違う。
私のような自然科学から来た人間も入っておりますし、
文学の方も、歴史の方も、いろんな人が入っておった。
それを全部一つにまとめていく。その指導力というものは
抜群であったと私は回想しております。

共同研究のやり方、組織の仕方、
これは私はその後深く守っており・・・・・

さらに、未来構想になるかどうかわかりませんが、
桑原先生の組織運営力といいますか、組織家としての
側面に私は大きな影響を受けております。・・・」
(p127~128)

はい。3冊からアトランダムな引用をしました。
ここから何か見えくればいいなあ。

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上手過ぎて。

2021-04-09 | 京都
杉本秀太郎編「桑原武夫」(淡交社・平成8年)。
この本は、桑原武夫の七回忌の集まりの記録でした。
その「むすびに」で上山春平氏は、こう話しております。

「今までずうっと聞きほれていました。
今日のもよおしは多田(道太郎)さんのデザインですね。
じつによくできている。先生のお人柄の幅を最大限にとらえて、
しかも要所要所に私たちの心を打つ言葉が散りばめられている。
隣の川喜多二郎さんが
『今日の対談はすばらしい、すばらしい』
と何度もつぶやいていました。全く同感です。・・・」(p137)

「六年前に黒谷の金戒光明寺で告別式があったときも
今日のように桜が満開で、それがずっと京都の町を包んでおりました。
・・・・・・
どうも本日はありがとうございました。」(p138)

この集まりは、三部構成となっており、
さまざまな方が話されていたのでした。
まずはじまりの一部は、落語でいえば前座です。
山田稔・杉本秀太郎のお二人でした。ここには、
三部の梅梅対談(梅棹忠夫・梅原猛)から引用。


梅原】 じつは私は今日の講演会を計画した一人でございますが、
最初、誰に講演してもらうかと相談をしていましたところ、

多田さんが、『講演は下手な人のほうがよろしい。
上手な講演というものはどこかいやしいのだ。
多田道太郎や梅原猛は上手過ぎていやしい』と。

それで、下手なほうがいいんだというので
山田さんと杉本さんが選ばれた(笑)。・・・」(p112)


うん。ここでは、『上手過ぎていやしい』
そんな例を引用しておくことにします。

梅原】・・・・
フィールド・ワークということではやはり今西さん。
梅棹さんもフィールド・ワークの人なんですね。
桑原さんにはやはり教養主義というのが片一方にあったと思いますね。
そこで吉川さんや貝塚さんと親しかった。

暴露しますけど、いつか祇園でお酒を飲んでいました。
そしたら吉川先生がぐでんぐでんに酔っ払ってやって来て、
私の隣へ坐って、『梅原、お前はだめだぞ』と言われたのです。
吉川先生は飲むとちょっと酒乱みたいになりまして、
僕は、これは今日は危ないからといってちょっと逃げたんです。

そしたら梅棹さんが隣になった。梅棹さんと吉川さんは学風が全く違う。
吉川さんは『本の中に真実はある。本以外には真実はない』という考え方。
梅棹さんは『本なんてあてにならない』という考え方です。

そういう考え方が、いつかどこかでぶつかったことがあって、
吉川先生がちょっと見たら隣に梅棹さんがいた。

『お前が梅棹か。ばかな梅棹か。お前は古典を知らないからだめだ』
と言う(笑)。それで、
『真実は本にはありはしない』と梅棹さんが言うと、
『そんなことを言うやつは無学だ』と言って二人で大喧嘩になった。

私はそばで楽しく両雄の決闘を見せていただいていたが、
あんまりひどくなって、最後は吉川さんがつかみかかっていく。

それで困って、ちょうど福永光司さんは腕力抜群ですから、
福永さんが掲げて担いでいった。

その後から梅棹さんが『この馬鹿じじい』と(笑)。
この言葉は今でも思い出す。・・・・・」(p126~127)


うん。ここにちょい役で、福永光司氏が登場している。
うん。わたしは福永氏の本を古本で買ったままなのを、
その未読本を、あらためて思い出してしまいました。


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桑原武夫・最後の挨拶。

2021-04-08 | 本棚並べ
桑原武夫の本は、本棚の分かりやすいところに並んでる。
そこから、「桑原武夫傳習錄」(潮出版社・昭和56年)。

ここには、知人たちによる文章が集められての一冊です。
序文が梅棹忠夫。跋文が司馬遼太郎。
目次は、寄せられた方々のお名前が並びます。
残念。その目次に、杉本秀太郎の名前はない。

それはそうと、杉本秀太郎著「洛中通信」(岩波書店)の
「第二芸術論のあたえたもの――桑原さんのこと」(P195~P200)
の最後で、
「今年(1988年)の3月9日、桑原さんは
国際日本文化研究センター主催による研究集会の開会あいさつで」
と、その内容にふれておりました。そして杉本氏の文のさいごは
『一月後の4月10日、桑原さんは亡くなった。』とある。

亡くなるまえの、最後の挨拶となったわけです。
その挨拶文面は、探すと簡単に見つかりました。

桑原武夫著「日本文化の活性化」(岩波書店・1988)
の本の最後にありました。河野健二氏の「あとがき」には
この挨拶について『この頃、先生はかなり疲れておられ、
原稿を読む声が聞きとれなかったほどだったが、
その内容は本書で見られるように、日本人の日本文化研究
にたいする鋭い批判を含む、すぐれた提言である・・・』
とあります。

さて、「研究集会の開会あいさつ」から
すこしだけ引用しておきます。

「・・・もちろん国際的共同研究をとりさえすれば、
優れた成果がえられるなどと安易に考えることはできません。

それぞれ違った思想、知識さらに感性をもった研究者が、
特定の問題の解決を求めて協力するのでありますが、
性急に統一見解を求める作業ではありません。

それぞれ自説を開陳しつつ、しかも相互影響による自己の変化を避けず、
いなむしろこれを期待しつつ、共同の見解に到達する幸福を願う作業で
あります。

従ってそこには当然、討論さらには論戦の段階があります。
ただ、日本の研究者は自説に強い主張ないし他の研究者の説に対する
鋭い批判を、儀礼的にあるいは無意識的に避けて、和を以て尊しとなす
という伝統的心性がなお強いのであります。

このことは恐らく日本文化の深いところにかかわる微妙な問題でありますが、
共同研究における効果とも関係するこの問題の重要性を、
日本人研究参加者のみでなく、また外国人参加者も意識して、
研究室の空気の流通を快適にする工夫が大切だと思います。・・」
(P258~259)

このあとにつづく、桑原武夫氏の挨拶の最後の箇所が、
杉本秀太郎氏の文「・・桑原さんのこと」の重要なテーマと
なっているのですが、私には荷が重いのでここまでにします。


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『糸ざくら』散歩の道すじ。

2021-04-07 | 京都
杉本秀太郎著「洛中通信」(岩波書店・1993年)。
その最後の方でした。短文で見逃しやすいのですが
『糸ざくら』という文。4月15日のこととあります。

「近衛邸あとの糸ざくらは折しも満開だった。
すこし風がある。なびきみだれ、ゆれやまない
糸ざくらに、傾いた春の日が差している。

私は瞑想という言葉をこれまで使ったことがない。
しかし、このときの糸ざくらは私の瞑想裡に咲き充ちていた、
と言うしかないように思う。

弧座していたベンチの近くに立て札があり、
・・・歌一首がしるされていた。」

 昔より名には聞けども今日みれば
    むべめかれせぬ糸ざくらかな  孝明天皇

「安政二年、近衛邸遊宴のみぎりの詠という。
いかにもこれは儀礼としての和歌にすぎない。
しかし、歌ぐちの当たり前な、ととのったこういう歌は、
しずかな水面が物の影を映すように心の影を映して、
心をなだめ、なぐさめることがある。・・・」(p221~222)


ここを引用できれば、私は満足。以下、蛇足。
というか、司馬さん風にいうならば「以下、無用のことながら」。


この「洛中通信」は、新聞・雑誌・月報などに掲載された
短い文をまとめた一冊。1980年から1992年までの文です。

今回パラパラとめくっていて気がついたことがありました。
杉本氏の師・桑原武夫が、亡くなったのが1988年4月10日。
期せずして、その頃の文がところどころに読めるのでした。

副題に「桑原さんのこと」とある文は、
1988年7月20日に雑誌に掲載されたもの。そのはじまりは。

「桑原さん、とそう呼ぶことであとをつづける。
桑原さんは私にとってはフランス文学の先生であり、
文学研究、文明論、日本文化論、人生論の先生であり、
文章術の二人とない師だった。けれども、
桑原さんは私を弟子として扱われたことは決してなく、
つねに若い友人として遇された。
えらそうにする人を桑原さんはもっとも軽蔑された・・・」(p195)

こうして、はじまるのでした。
最初にもどって、短文「糸ざくら」は、
地理的な記述がはじめにあるのでした。
その箇所を引用。

「京都御所の今出川門を入って南に歩くとすぐ右手に、
近衛邸の築山が残っている。いまも蒼古とした木立に掩われ、
泉池もわずかにあとをとどめる。

築山の裏にまわると、かつて近衛邸の広い庭だったあたりは
林間の空地の趣を呈していて、まんなかに数株の糸ざくらが、
背高く、枝しなやかに立っている。

4月15日。桑原武夫先生の初七日。
お宅にうかがっての帰るさ、塔ノ段から薩摩藩士墓地の
まえを通り、相国寺を抜けて、今出川門から御所に入った。
生前、先生の好まれた散歩の道すじ。」(p221)

はい。このあとが、今回の
はじまりに引用した文へと、つながっておりました。





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六角堂の池の坊。

2021-04-06 | 京都
京都の芸事について、梅棹忠夫氏は指摘しておりました。

「京都は、芸事の中心地である。
諸芸の家元はひととおりそろっている。
お茶にお花に、能、狂言に謡(うたい)、仕舞(しまい)、
おどりに書道。絵には家元というものはないようだが、
大先生の塾がある。
それぞれのジャンルに、いくつもの流派があり・・」
(p71「梅棹忠夫の京都案内」角川選書)

この本の1ページ前に「池坊」とある。

「六角烏丸(からすま)には六角堂がある。ほんとに六角のお堂・・
ここはまた池坊、お花の家元である。」

宮本常一「私の日本地図14 京都」(未来社)に
書かれている六角堂はというと、

「六角堂・・・この寺の20世の住持専慶は
山野をあるいて立花(りっか)を愛し、
立花の秘密を本尊から霊夢によって授けられ、
26世専順はその奥義をきわめた。

堂のほとりに池があったので、この流派を池坊とよび、
足利義政から華道家元の号を与えられたという。
すなわち立花の池坊はこの寺からおこったのである。

もともと仏前への供花から花道は発展していったもののようで、
とくに7月7日の七夕には星に花を供える儀礼が鎌倉時代からおこり、
室町の頃から隆盛をきわめ、『都名所図会』には『都鄙の門人万丈に
集り、立花の工をあらわすなり。見物の諸人、群をなせり』とある。

このように立花は後には次第に人がこれを見て
たのしむようになってきたのである。・・・」(p118~119)

うん。これだけでも足利義政・鎌倉時代・室町の頃と
六角堂の時代背景が見てとれるのでした。

さて、松田道雄は1908年生まれ。
「京の町かどから」で、子どもの頃の『六角さん』を
書き残してくれておりました。

「西国18番頂法寺は六角通り烏丸東入ったところにある。
本堂が金色の擬宝珠(ぎぼし)を頂上にした正六角の建物
であるところから六角堂の別名がある。
京都のものが呼ぶときは六角さんという。

六角さんは、私たち中京(なかぎょう)の子どもには、
その境内であそべる唯一のお寺であった。・・・・・・

何といっても六角さんの記憶は夜とむすびついている。
毎月17日と18日とに、ここに京都でいちばんたくさん
露店がならぶ夜店がでたからである。」

こうして、露店のうんちくを4~5ページしたあとに

「本堂の裏になっている『池の坊』では活け花がいくつも
ならべられて、それを活けた人の名札がたてかけてあった。

家元に花をならいにいっているお弟子さんたちの作品展だった
わけだ。何もわからないのだけれども、いつもしまっている門が
あいているので、はいって一まわりした。

そこを出て本堂の裏のくらいところへくると、
人山ができていて、なかでバイオリンがきこえる。
艶歌師が人のたくさん出たころを見はからってやってきたのだ。
『熱海の海岸散歩する』の歌をきいた覚えがある。
長髪で袴(はかま)あをはいた人が、歌がすむと
うすっぺらな小冊子を売ってまわった。・・・」(p215)

はい。とりあえず、3冊から引用してみました。
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『床の間』と、栄枯盛衰。

2021-04-05 | 本棚並べ
生け花を思うと、床の間が思い浮かぶ。
私は、そんな世代に入るかと思います。

さてっと、『床の間』です。
杉本秀太郎著「だれか来ている」(青草書房・2011年)に
「どこかの床の間に竹内栖鳳(1864~1942)の絵がかかっていると、
なつかしい人に再会したのと同じ気持になる。・・・」
とはじまる短文がありました。
そのつづきが印象的でした。

「人を訪問して座敷に招じ入れられたなら、
床の間にかけてある画軸にまず目を向ける。
すっかり廃れてしまったが、これが客として
の礼儀であった時代は長くつづいていた。
つづいていたあいだは、

旅館あるいは料理屋の床の間の掛軸の良否が、
その店の値踏みに役立っていた。また、客として、
どれほどに値踏みしていてくれるのか、見当がついた。
だがそれはもう遠い昔の話。世の中は一変した。・・・」
(「『栖鳳芸談』を読む」p105)

はい。私は『旅館あるいは料理屋の床の間』という箇所で
かろうじて、その雰囲気を理解している一人です。

さてっと、『床の間』の栄枯盛衰でした。

「日本人のこころ」(朝日選書)。
梅棹忠夫による「あとがき」を読むと、
これは、朝日新聞(大阪)の『こころのページ』に
昭和44年~昭和45年と断続的に続いた連載なのでした。
ここに、『床の間』と題する4ページの文がありました。
全文引用したくなるような、読んでためになる箇所です。
とりあえず、一部を引用することに

「中世の茶室は高僧の軸をかけるなど・・・
近世・・江戸の旗本の床の間で、東照大権現の命日には、
その軸をかけ、お祭をする。・・・
また道場の床の間には、八幡大菩薩や香取神宮など、
武の神様をまつる。農家など一般家庭の床の間には、
天照皇大神宮の軸をかける。これは拡大した神ダナである。
東北地方では羽黒山などの軸が多い。

・・一般家庭には床の間はできても、家蔵のかけ軸はない。
そこで複製の配布会が流行し・・・・・・

『神聖床の間』観からいえば、吉良上野介が、かけ軸の
裏の穴から逃げるのは講談文化の作りごとで、
『ホンマかいな』ということになる。

さらに日本の格言文化が床の間に現われている。
『日日新なり』といった類の、神聖であると同時に
世俗的な処世訓の軸がさげられる。・・・・・

・・・・床の間に花が飾られ、生け花人口が急激に
ふえるのは戦後である。室内装飾からいうと、日本は
焦点を一つに結ぶ型で、床の間のかけ軸や生け花がそれである。

・・・・畳はフィクスチュア(固定したもの)で、
客は床柱を背に座ると決まっているように、動きがとれぬ。
ファニチュア(家具、動くもの)が住居にはいってくれば、
事情は変る。日本の部屋は家具がなかったから床の間が必要だった。

イスがはいると、床の間はもはや具合が悪いものになる。・・・
生け花も床の間から抜け出して、玄関のゲタ箱の上などに移った。」

さて、昭和45年ごろの結論は、こう書かれておりました。

「家庭の中では、代謝できるものはどんどん捨てる。
愛着のあるものだけを残すのがよく、そのためには
『家庭博物館』を作るのもよい。飾りダナはそれである。

いまの日本の家庭内の第一次要望としては、
床の間よりもまず飾りダナである。

床の間は展示館だ。博物館ではなくて、むしろ劇場である。
だからテレビを床の間に置くと、ピタリと合う。・・・・
これが新しい床の間のあり方になるかもしれない。」(p96~99)

ちなみに、「日本人のこころ」には著者名が5人並んでいます。
梅棹忠夫・小松左京・佐々木高明・加藤秀俊・米山俊直。
はい。その討論の雰囲気を「あとがき」から引用して終ります。

「・・テーマは、あらかじめきめてあるのではなく、当日
その会場でおもいついたもののなかからえらぶのが慣例だった。
討議参加者としては、だから、何の準備も下調べもできないわけで、
ぶっつけ本番のむずかしさはあったが、議論がどこへ発展してゆくか
わからぬという知的スリルは、十分たのしむことができた。
奇想天外な発想がつぎつぎともちだされ、これは収拾がつきそうもない
と心配しているうちに、ぱっと展望がひらけて、論理のまとまりが
ついてゆく。そういうときには、討論者たちは、一せいに
『発見のよろこび』によいしれるのである。
共同討議のダイゴ味というべきか。もっとも、ときには討議が拡散
しっぱなしで、まとめ役の両記者をこまらせたこともないではない。

・・・・・・・既成の日本文化論には、
ある種の硬直がおこっていることは否定できない。
わたしたちは、伝統的な日本文化論の発想にとらわれずに、
できるだけ柔軟に論理を展開しようと心がけた。・・・・」
(~p224)


この共同討議は、たまには京都のどこかの料亭で
畳に座って語られていたのかもしれないなあ、と
想像をたくましくするのでした。

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『茶花をいけなさい』

2021-04-04 | 京都
入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社・2018年)の
最後のほうに、『京都本の10冊』という箇所がある。
その始まりは、

「『本の雑誌』の名物コーナー『この作家この10冊』に
あやかって、京都本を10冊選んでみた。すなわち、これらを
読めばたちまち玉虫色の京都の魅力が理解できてしまうという
« 解放のテクニック »みたいな10冊である。けれど、これら
を読んでも決して『京都検定』には受からないが。・・・・」

はい。軽快なはじまりで紹介されている10冊のなかの一冊に、
堀宗凡著『茶花遊心』(マフィア・コーポレーション・1987年)。
これが古本でも、なかなか出ない一冊で。
こまめにネット検索していると、ある時、
古本でふらりと出ており。はい。買いました。
写真は、西山惣一。あとがきのはじまりは

「老 西山氏は近くの茶店での偶然の出会いの人である。
彼の手持ちのモノクロのネガはちょうどこの茶花遊心を
とるだけ残っていた。

何もない茶室で彼は『茶花をいけなさい、私がうつします』
といい出した。且つて雑誌『主婦の友』のいけ花専門のカメラマン
であったから、その後一年、彼とは活花をおいて
『イエス、ノー』の外にはいつも何も語っていない。
かくとり終って三月後他界された。すべては彼の胸中に
秘められていた人生仕上げであった。・・・・」

1ページに茶花の白黒写真一枚と、著者による一首と文。
私は、パラパラと読まずにめくるだけ。でも、楽しめる。
花を生けるのは、花瓶とはかぎらないことを知りました。
p331には一升徳利に花が活けてある。

添えられた文はこうはじまります。

「こんな一升徳利、まして寅とかいてある。
必ず呑みほせば管を巻かれてごてごてもつれるであろう。

好きなものは仕方がない。お茶室ではこまりもの、
お寺の本堂でのめば、あばれても大丈夫。
襖絵にも虎がよくかいてあり、堂々と酔う時は
男らしい、大人である。・・・」

ここには、徳利の豆知識もありました。

「この徳利は歳暮に酒屋がその得意先に
自分の商号を自筆でかいて送ったものである。」


そういえば、古い家には、陶器の火鉢があって、始末に困って、
そこへメダカをおよがせたりで、今も見かけることはあります。
そしてたまには、一升徳利を見かけたりしました。
ああ、あの徳利に書かれた文字は、自筆でかいた商号なんだ。
知らずにおりました。こんどは、その徳利に花でも活けましょう。

p309にも、『酒とくり』と題して、その下には
『造り酒 あるじはそれと かきつけて とくりくばりし 先の先代』
とある。
そのあとの文のはじまりはというと

「私の友人に相国寺御出入の酒屋がいた。
この徳利の字は先の先代が書いた字也と説明して、
徳利の来歴をしる。
今でも河原町仏光寺に古道具屋がある。・・」

このページの写真の徳利には
火の用心と書かれているようです。

「この火の用心は古丹波であり、
資料館に出品出来る位と聞いて常住としている。
何でも火事計りではない。熱心すぎると身をこがす。
『火廼要慎』つつしみが必要となるいのちあっての
もの種は身にうまく成長する也。・・・・」


はい。花を見ながら、お酒でも。


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おこがましい。

2021-04-03 | 本棚並べ
斎藤緑雨の『おぼえ帳』は、
こうはじまります。

「紙十枚ばかり綴ぢたるをおぼえ帳とて、
幼きころは誰もしつる事なり。

・・ある時すこし引きちぎり紙縒(こより)の用に立てしが、
ついに鼻拭き紙におわる兆(きざし)なりけり。

似たるものなればわれもここにおぼえ帳と名(なづ)けて、
見聞くがままの浮世をいふも烏滸(をこ)がまし、・・・・

・・ほんのそこらの落葉時雨、窓の下に筆の箒(ほうき)の
ただかきつくるものなり。」(p19)

うん。簡単なのから引用。

「牛は犬は猫はと問ふに、もうと啼く、わんと啼く、
にやあと啼くとまでは尋常(なみ)なりしも、
戯(たはぶ)れに虎はと聞けば、
さかしげなる女の児のしばらく小さき首傾げいたるが、
ややありて、とらあと啼く。」(p37)

「掃花遊(はなをはらってあそぶ)と書ける額の、
解(げ)し難しと一人がいえば、又一人のいう、
勘定を奇麗にしろという事だ。」(p28)

はい。短文のつながり方に、たのしみがあるので、
その部分部分をとりだすと残念な引用になります。
時節柄、こんな箇所を最後に引用。

「花の雲、上野もすでに遅しというほどの事なり。
動物園前の木(こ)の下(もと)に毛氈(もうせん)しきて、
僧四五人、やがて行く春の名残を惜しまんとやおもむろに茶を煮ながら、

あかぬ色香を世に墨染の袖に留めて、
日は暮近きに去らんともせざりしが、
掌に茶碗撫でつつ老たるが空ゆたかに看上ぐる顔に、
もとより淡紅(うすくれない)の今はた褪(さ)めたる雪一つかみ、

やや若きが覗き込みて、散りまするて
とのみあとは復言(またことば)無かりし。
衾(ふすま)を着する春風の歌おもひ出(いだ)されて、
さのみの事ならねどわれは忘れず。」(p20)

はい。最後の「春風の歌おもひ出されて」というのは
どんな歌なのだろう?『解し難し』と私がいえば、
どなたか、教えてくださるだろうか。
うん。『おぼえ帳』に記された「・・われは忘れず」が、
こまごました「おぼえ帳」のなかに浮き上がるのでした。

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斎藤緑雨。ことばの芸。

2021-04-02 | 本棚並べ
杉本秀太郎著「洛中通信」(岩波書店・1993年)に
斎藤緑雨についての3頁弱の文があり印象に残ります。

「辛辣な警句の人緑雨」に触れてから
「緑雨には、もう一幕の出番がある。」
と指摘するのです。
はい。ここを丁寧に引用。

「緑雨には、もう一幕の出番がある。
うれしく弾む気持をおぼえている人
あるいはそういう気持の一刻に、

お手玉のような遊び道具を、
とびこみ台のスプリング・ボートを、
サーカスの空中ブランコの下に張られた
受けあみのような緩衝帯を、
時に応じて提供するという役柄である。

悲哀は感染するが、幸福もまた感染する。
緑雨がことばの寸劇、すなわち
ことばそのものを主人公とする寸劇、
あるいはことばの曲芸に興じているとき、
緑雨の紅潮は、たちまち人に移る。

我、人ともに、長く興じて飽きないものとして、
たとえ尻取りあそびであっても、
ことばの芸にまさるものはないからである。

緑雨のこの一面は『おぼえ帳』『ひかへ帳』『日用帳』
に躍如としている・・・・ 」(p44~45)


うん。この言葉が気になっておりました。
何となくわかるようで、わからない(笑)。
どうしても、気になる。
本を読んでいると、本題から、すぐに脇にそれて
枝葉の方へと、興味がうつっていきます。
65歳ぐらいまで、それをまずいことだと思っておりました。
最後まで読まずに、途中で他の本へとうつる。
その年齢を過ぎてから、それを楽しいことと思うように
気持を切りかえてゆく楽しみを覚えました。
そうすると、まずブログの楽しみがふえる(笑)。

『斎藤緑雨全集 巻四』(筑摩書房・平成2年)。
ここに『おぼえ帳』『ひかへ帳』『日用帳』が載っている。
うん。古本で注文してみることにしました。

ということで、明日は緑雨の文からの引用です。
ということで、『ことばの芸』は明日の楽しみ。
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司馬さん、大きな声。

2021-04-01 | 本棚並べ
朝日新聞を考える際に、
こういう切り口からはいるのなんてどうでしょう。

読売新聞に連載された毎週土曜日の
ドナルド・キーン著「私と20世紀のクロニクル」
(2006年1月14日~12月23日)を楽しみに切り抜いておりました。
その挿絵が、山口晃さんでした。あの洛中洛外図をよ~く見ると、
バイクや自動車が走っていたりする時代が現代と昔と錯綜する
図柄の細密画を得意とする画家さんです。

毎回挿絵を楽しみにして、切り抜いておりました。
連載中の切り抜きのたのしみがおわれば、
箱にしまって、そのままになっておりました。
その箱の埃をはたいて、中身をひろげてみますと、
今回は、新聞に関する箇所が気になりました。

1953年夏に、キーン氏は待望の京都での日々がはじまります。
そこで、永井道雄氏との出会いを語るなかに

「・・私は彼のことを教師として、いわば日本についての
最初で最高の案内役として尊敬した。

一か月前、奥村夫人から新聞は何を取りますかと聞かれた時、
私は新聞を読む暇はないと応えた。

これは浅はかな考えだったが、京都滞在中の一年間、私は
日本文学について出来るだけ多くを知るように心掛けていたのだ。

同じ一時間なら、芭蕉の俳句について考える方が、
新聞を読むより有効な時間の使い方だと私は考えたのだった。

しかし、永井さんとの毎晩の会話の結果、私は現在に生きている
日本の文化を無視することは出来ないと気づいた。

アーサー・ウェイリーが日本訪問の招待を断ったのは、
ウェイリーの関心が平安時代にあって現代の日本になかったからである。
私もウェイリーに倣って、過去に没頭するつもりでいた。

しかし永井さんの影響で、私は新聞を読み始めただけでなく、
日本人の生活に参加したいと思うようになった。」
(25回目「太郎冠者」で生涯に一度の晴れ舞台・7月8日)


新聞といえば、もう一箇所ありました。それは、
10月28日の41回目「司馬遼太郎の『冗談』から駒」にありました。

「1982年、朝日新聞の後援で『緑樹』をテーマに会議が開かれた。
・・・参加者たちは終了後、お礼に料亭に招待され、そこには鰻と、
ふんだんな酒が彼らを待っていた。

宴の途中で、座敷の上座にあたる席に座っていた司馬遼太郎が立ち上がり、
下座にいる朝日の編集局長の方にやって来た、見るからに司馬は、
かなりの酒を飲んでいた。彼は大きな声で、『朝日は駄目だ』と言った。

編集局長は、当然のことながらびっくりした。司馬は続けた。
『明治時代、朝日は駄目だった。
しかし、夏目漱石を雇うことで良い新聞になった。
今、朝日を良い新聞にする唯一の方法は、
ドナルド、キーンを雇うことだ』と

・・・・誰もが司馬の発言を酒の上での冗談と受け取った。
・・・・
しかし一週間ほど経って、永井道雄(当時、朝日の論説委員だった)が
私に告げたのは、朝日が司馬の助言に従うことに決めたということだった。
私は、客員編集委員のポストを与えられた。・・・・」


ちなみに、ドナルド・キーンの『私と20世紀のクロニクル』は
2006年に、読売新聞で連載されていたのでした。
つまりは、『朝日を良い新聞にする唯一の方法』を
1982年に、せっかく、そのチャンスを手にしたのに、
2006年に、そのチャンスを、もう自ら手放していた。
そう読み取れるのでした。

うん。読売新聞は、この時点で
『良い新聞にする唯一の方法』を会得していたようです。

生き残りをかけた新聞業界の舵取りを、
古い新聞連載の切り抜きで、たどれるような気がしてきました。









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