和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

埃をかぶっている柳田国男。

2022-03-13 | 本棚並べ
『サザエさん』と、山田洋次監督『寅さん』。
その両方の裾野に、柳田国男を置いてみたい。
はい。そんな組み合わせを思い浮かべました。

ここは、山田洋次監督の「忘れられない本」
から引用をはじめます。そのはじまりは

「大学に入った翌年だから、昭和26年である。
 渋谷の道玄坂にある古本屋で『柳田国男先生著作集』を
 10冊ほど買った。ほど、というのは全巻揃いでなく
 バラバラの歯抜けだったからで、店先に乱暴にひっくくって
 積んであった。終戦直後に出版されたもので、仙花(せんか)紙
 ・・・ひどい紙質の本だった。」

途中を端折って、昭和44年となります。

「昭和44年、ぼつぼつ監督として一本立ちになっていた私は、
 ある日、本屋の棚に、筑摩書房刊、現代日本文学大系のなかの
 『柳田国男集』を見つけ・・買い求めた。
 学生時代に買ったきり読みもしなかった柳田国男先生著作集に
 対する申しわけのような気持ちだった。今度は紙質も上等だったし、
 一冊にまとめたものだから・・・またこれくらいの分量なら
 なんとか読めるかもしれない、とまあそんなふうにも考えた。」

はい。これが前置きでした。いよいよこのあと
柳田国男を読み始める、その出会いの場面となります。

「その夜、アパートの机の上でこの本の扉をめくり、
 最初のページの一行目を読んだ時の、ハッとして眼が覚める
 ような新鮮な印象を、私はいまだに忘れることができない。
  

   人を楽しませるものが芸術だといふことを、
   思ひ出さずには居られない時世になりました。
    ・・・・・・
    ・・・・・・


 ――作り手が自ら楽しむ姿を見ることこそ喜びであって、
   世間に見せようの、素人に誇ろうのという
           今風の作者意識のないものはなつかしく、
           仲間同志が援助しあってすこしでも
          すぐれた芸術へ近よっていこうとする姿こそ貴く、
   よその流派を悪くいい、自分たちの作ったものだけを 
   満足なものとするような芸術をどうして楽しむことができようか

   
――――という意味の文章だった。
柳田国男が俳句について語る言葉は、実は自分が身をおく
映画を含めたすべての芸術についてあてはまる真実なのではないか、
とまるで眼から鱗(うろこ)がおちるような思いで深夜までページを
めくり続けた日のことを、私は今でもまざまざと憶えている。」


はい。この短文の最後も、この際引用しておきます。

「27年前に出逢った10冊の著作集の方は、捨てるに捨てられず、
 今でも押し入れの奥で埃をかぶっている。」

    ( p146~147「忘れられない本」朝日新聞社・昭和54年 )


はい。著作集といえば、買うだけなら私にでもできます。
『新編 柳田國男集』(筑摩書房・全12巻・1979年)
という単行本サイズの軽装版を、私も買いました。

私のことですから当然ですが未読。いつかは、思うばかり、
念仏を唱えるように『いつかは読もう。いつかは読もう』。
そしてそのままでした。本棚にあって、神棚にあるような、
そんな感じで、手を合わせているだけになっておりました。

それでも、本文を読まなくても、簡単に読める
『新編 柳田国男集』の巻末の解説は拾い読み。

第8巻の巻末解説長谷川四郎が印象に残ってます。
長谷川四郎は、次のようにテーマを絞るのでした。

「柳田国男の書いたもの、そこではいかに離れた局面に
 見えようとも有機的につながっている。・・・・・・
 それらをつなぐ一本の赤い糸として俳諧精神とでも
 仮に名づけたいものを私は見ようと試みたのだ。・・・」(p319)

うん。山田洋次監督ともつながりそうな箇所もあります。

「柳田国男は俳諧の方法として山本嘉次郎や寺田寅彦と共に
 映画のモンタージュ論に引かれた時期があったそうである。」(p317)

そしてさらに、「サザエさん」へつなげたい箇所もありました。

「『女性と俳諧』の一文を書いておられる。
 『女がその群に加はるといふことは、
  単に彼女等の権利であるだけで無く、
  人生の笑ひを清くする為にも
  屡々(しばしば)必要でありました。』」(p318)

う~ん。映画の寅さんと、四コマのサザエさん。
中間に、柳田国男著『女性と俳諧』を置きたい。

ちなみに、『現代日本文学大系20 柳田国男集』の
目次には、はじまりが『病める俳人への手紙』で、
その次に、『女性と俳諧』があり、読む方としてはありがたい
( 蛇足ですが、この本、文字が小さいのでご注意ください )。
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姉妹喧嘩(きょうだいげんか)。

2022-03-10 | 本棚並べ
曽野綾子自伝『この世に恋して』(WAC)
長谷川洋子著『サザエさんの東京物語』(朝日出版社)
『長谷川町子思い出記念館』(長谷川町子全集別巻)

長谷川町子は、1920(大正9)年1月30日生まれ。
曽野綾子は、 1931(昭和6)年生まれ。

お二人に共通点がありました。
ということで上の3冊から引用してゆきます。

まず、『サザエさんの東京物語』のはじまりから

「長女・まり子、次女・町子の姉達二人の間にもう一人、
 美恵子という姉がいたが、数え年7歳で亡くなった。

 可愛い盛りだったので母は嘆き、
 悲しみのあまり鬱状態になったそうだ。
 ・・・・・
 その翌年、私が生まれた・・・・ 」(p7)

曽野綾子さんに、姉の死をとりあげた箇所がありました。

「私は昭和6年、母が数えで33歳、父が40歳のときに生まれた、
 2番目の娘です。この世で会ったことのない姉がいて、
 その姉が3歳で病死して6年後に生まれたそうです。」
        ( p20 「この世に恋して」 )

長谷川町子さんは『私のひとり言』に

「学校の成績については、両親とも、ついぞ
 小言らしいことを言ったことがありません。
  
 私のすぐ上の姉が亡くなってからは、
 ただ、元気でいてくれさえすればよい
 という消極的な願いに傾いたらしく・・・

 姉も私も天晴ぐうたら童子を決め込んでいました。」
      (P48 「長谷川町子全集 別巻」)


もどって、曽野綾子さんのつづき

「母は、この子を失えばもう子どもはできないと思っていたのでしょう。
 『絶対死なせちゃいけない』と思ったそうです。

 抗生物質もない時代だから、アイスクリームやかき氷などは
 食べさせてもらったことがありませんでした。当時は
 疫痢(えきり)とか、赤痢(せきり)とかいう病気があったんです。
 アイスクリームをみんな食べているのに、
 私だけは食べさせてもらえない。・・・・・・」(P22)

はい。食べ物のうらみ。
洋子さんの本には、こんな箇所があります。

「母は、美恵子姉が赤痢で亡くなってからは、
 極度に神経質になっていた。
 
 毎日、やってくるシンコ細工屋さんや
 絵入りの大きな飴を藁束に挿して売りに来る飴屋さん。
 きび団子を串に刺して、お釜の湯にサッとくぐらせ、
 黄粉をまんべんなくまぶしつける団子屋さん・・・・

 しかし、これらの屋台のものは一切買ってはいけないと、
 きびしく言われていた。母は不潔で不衛生なものと決めつけていて、
 たとえ人からもらっても食べてはいけないと、
 毎度耳にタコができるほど聞かされている。
 ・・・・・

 後年、町子姉が白状するには、
 『お母さんからいけないと言われた屋台の駄菓子ね、
  私、みーんな買って食べたわ。何度もね』
 と言って、まり子姉や私を驚かせた。
 ・・・

 その頃、姉妹喧嘩が毎日盛大で、最後はつかみ合いの騒ぎになるので、
 姉達はしょっちゅう庭の鳥小屋に入れられていた。・・・

 姉達のご乱行に腹を立てた母が両脇に二人を抱えて
 鳥小屋に引きずっていくと、二人で哀れな声を絞って
 泣きわめくのが常である。
 母の見幕におびえて私まで大声で泣き、
 『許してあげて、出してあげて』と哀訴する。
 それでも錠をかけて一時間は出してもらえなかった。

 姉達は気性の烈しい母をかなり恐れていたはずなのに、
 町子姉は鳥小屋に監禁されようとホッペタをひねられようと、
 ≪ やることはやるさ ≫としたい放題をやったようだ。」
           ( P26 「サザエさんの東京物語」 )

 はい。洋子さんの本には、そういえば喧嘩の話が、 
 ごく自然な生活の延長線上にでてきておりました。

はい。最後は「サザエさん」からの四コマ。

①カツオが机に向って三角定規をクルクル回してる
カツオ『 ああ このさんすう むずかしいなぁ 』
サザエ『 どれさ ぼんくら 』と、裁縫の手をやすめて
カツオの方へのぞきこむしぐさ。

②机に両肘をつきながら、振り向きながら舌をだして
カツオ『 へっ ねえさんにわかってたまるか 』
サザエ『 いったねッ 』と物差しを両手で握りしめる。

③ほこりの塊の中から手や足が出ている。
 ドタバタ喧嘩を表現した箇所。
 母『 これっ やめなさいっ 』と、セリフが太文字。

④3人正座している。乱れた髪のサザエさんから順番に、
 サザエ『 あたしが さんすう みてあげようっていったんです 』
 カツオ『 ボク いいって ことわったんで~す 』と泣いてる。
 母ふね『 じゃ けんかが おこるはずないじゃないの 』


さて、この場合の、サザエさんとカツオと。
どちらが、まり子で、どちらが町子なのか。
ついつい、あてはめては、迷うところです。
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長谷川町子。14・15・16歳。

2022-03-09 | 地域
『いじわるばあさん』の四コマから始めます。
座敷にお客さんが座っている。奥さんはお茶の用意か
席をはずしている間、ばあさんが相手をしてる。
座卓にはフタをしたままの丼物とコップとお茶とならぶ。
ちょび髭のお客が座布団にすわって、左端には、ばあさん。
お客のそばの畳には灰皿の吸い殻から煙が。

①食べる前なのでしょうか。お客が背広のポケットから
 薬瓶をとりだして、二錠飲みこむ場面。
 ばあさんが、しまっている瓶を指さしている。

②お客『え?ニセのアリナミンだって!しらずにのんでいた!!』
 婆さん『いいじゃない、あなたもニセ紳士だもの』

③無言で、二人して歯を出して笑っている。
 婆さんのうれしそうな顔が印象的。

④座卓がひっくりかえされ、お客の姿はない。周辺には
 ドンブリや箸、コップ、湯飲み茶碗の破片がちらばる
 灰皿は裏返り、煙草の吸殻が散乱している。
 お盆に急須をもってはいって来た奥さんが
 『どうして また急におこって?』とたずねると
 婆さん『はじめは 笑っていたのョ』と
 雑巾でこぼした水をふいている。

         ( p61「いじわるばあさん」第四巻 )

はい。お客さんということで、思い浮かぶ場面があります。
まず、長谷川町子さんの年譜から

1934年14歳 一家で上京、山脇高等女学校三年に編入。 
      漫画家、田河水泡に弟子入り。
1935年   『狸の画』で漫画家としてのデビュー
1936年16歳 山脇高等女学校卒業と同時に、
      田河水泡の内弟子となる。11カ月後に自宅に戻る。

1936年は、どんな年だったのか?『サザエさんうちあけ話』から

「山脇在学中に二・二六事件があり、高橋是清邸に近かった学校の
 体育館にも雪をけたてて、武装した軍隊が、けい備についていたのを
 覚えています。・・・」 ( 姉妹社p10 )

この年の8月には、ベルリン・オリンピック。前畑秀子が金メダル。

さて、田河水泡氏の内弟子の期間についてです。
ここには、『サザエさんうちあけ話』
長谷川洋子著『サザエさんの東京物語』
小林秀雄著『考えるヒント 1』の3冊を順に引用します。

1冊目からは、この箇所。
「夏は、先生とアイスクリームもつくりました。
 深夜パジャマ姿のねぼけまなこで、小林秀雄先生の前にも立ちました。
  ( 奥さまの兄上でいられますので )
 ゲームをやって、師弟本気でケンカもしました。
 こうして可愛がってくださったにもかかわらず、
 11カ月で、ブーメランのごとく、母のフトコロに、
 まっしぐらに帰ってしまったのです。」 (姉妹社p13)

2冊目は、この箇所。
「水泡先生のお宅は奥様とお手伝いさんの三人暮らしだった。
 奥様のお兄様は、かの有名な小林秀雄先生で、時々、
 水泡先生のお宅を訪ねてこられたとか、
 町子姉の手紙には無口な方とだけあり、似顔絵など描いてあった。

 奥様は劇作家だからお出かけが多く、姉は自分の仕事が済むと、
 お手伝いさんと一緒にお掃除をしたり、食事の仕度をしたりで、
 気兼ねのない生活だったそうだ。

 それでも『帰りたい、帰りたい』という手紙を三日に一度は
 送ってよこした。内弟子生活は、結局一年と続かず11カ月で
 家に戻り、母に甘える日常が始まって満足そうだった。・・・」
                    ( p38~39 )

3冊目。
小林秀雄著「考えるヒント」に、『漫画』と題する文があります。
そのなかに、こんな箇所。

「彼(田河水泡のこと)とは、たまに会ふと、酒を吞み、
 馬鹿話をするのが常だが、或る日、彼は私に、
 真面目な顔をして、かう述懐した。

『 のらくろといふのは、実は、兄貴、
  ありや、みんな俺の事を書いたものだ。 』

 私は、一種の感動を受けて、目が覚める想ひがした。
 彼は、自分の生ひ立ちについて、私に、くはしくは
 語つた事もなし、こちらから聞いた事もなかつたが、
 家庭にめぐまれぬ、苦労の多い、孤独な少年期を過ごした事は、
 知ってゐた。

 言つてみれば、小犬のやうに捨てられて、拾はれて育つた男だ。
 『のらくろ』といふのん気な漫画に、一種の哀愁が流れてゐる事は、
 私は前から感じてゐたが、

 彼の言葉を聞く前には、この感じは形をとる事が出来なかつた。

 まさに、さういふ事であつたであろう。そして、又、恐らく
 『のらくろ』に動かされ、『のらくろ』に親愛の情を抱いた子供達は、
 みなその事を直覚してゐただろう。
 恐らく、迂闊だつたのは私だけである。」

 うん。ここまで引用したので、この文の最後の方も
 つい、引用したくなります。

「漫画家には、愚痴をこぼす事も、威張る事も出来ないから、
 仕方なく笑つたのではあるまい。
 彼の笑ひは、自嘲でも苦笑でもない。

 自分の馬鹿さ加減を眼の前に据ゑて、
 男らしく哄笑し得たのだと思ふ。

 そういふ、人を笑ふ悪意からも、
 人から笑われる警戒心からも解放された、
 飾り気のない肯定的な笑ひを、誰と頒つたらよいか。
 誰が一緒に笑つてくれるだらうか。子供である。

 子供相手の漫画の傑作が、二十世紀になつてから、
 世人の信頼と友情とによつて、大きな成功ををさめたのは、
 決して偶然ではない。

 一般に笑ひの芸術といふものを考へてみても、
 その一番純粋で、力強いものは、日本でも外国でも、
 もはや少数の漫画家の手にしかない、とさへ思はれる。・・・」


はい。最初に引用した『いじわるばあさん』の四コマなのですが、
笑にもいろいろあります。こうして引用すると、自然にわたしは、
『めは にんげんのまなこなり』と、浪平がサザエを叱りながら
その喋った言葉で、浪平とサザエさんの親子二人して大笑いする
『サザエさん』の四コマ(p127「よりぬきサザエさん1」)を、
同時に、思い浮かべておりました。







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『抜け目のある人』とサザエさん。

2022-03-08 | 地震
東日本大震災は、2011年3月11日でした。
曽野綾子著「揺れる大地に立って」は
(扶桑社2011年9月10日初版)でした。
その本の最後には、

「本書は、書き下ろし原稿に・・
 新聞、雑誌に寄稿した原稿を加えた。」とあり、

各寄稿した新聞・雑誌名は

「 産経新聞・週刊ポスト・新潮45・修身・Will ・本の話
  SAPIO・文芸春秋・あらきとうりょう・オール読物 」

うん。今回引用する箇所は、ここです。
はじめに断っておりました。
「東日本大震災による困難に直面しながら、
 今日私が書くことは不謹慎だという人もあろうが、
 やはり書かねばならぬと感じている・・」(p28)

このあとに、聖パウロの言葉が出てきます。

「新約聖書の中に収められた聖パウロの書簡の中には、
 ところどころに実に特殊な、『喜べ!』という命令が繰り返されている。

 私たちの日常では皮肉以外に『喜べ!』と命令されることはない。
 感情は、具体的な行動と違って、
 外から受ける命令の範疇外のことだからだ。だから聖パウロの言葉は、
   人間が命令されれば心から喜ぶことを期待しているのではないだろう。

 喜ぶべき面を理性で見いだすのが、
 人間の悲痛な義務だということなのだ。

 人間は嘆き、悲しみ、怒ることには
   天賦(てんぷ)の才能が与えられている。
 しかし今手にしているわずかな幸福を
    発見して喜ぶことは意外と上手ではないのだ。・・」
                                                                        ( p29 )


はい。『わずかな幸福を発見して喜ぶこと』とは?
そうそう、サザエさんは家庭という土俵で描かれた四コマ。
長谷川町子さんは、どのような着眼点でとらえていたのか?

そう思ってみると「一度だけ逢った人」(昭和28年)
という長谷川町子さんの短文があります。そこには、
3人の方が登場しておりました。その、2人目でした。


「東京駅で切符を買っていたときです。
 隣の窓口に立っていた奥さんが首を曲げて中をのぞきながら、
 『もしもし、ちょっとお願いします』としきりに声をかけています。
 ・・・・・
 奥さんはちょっと考えてから
 『間宮さん、間宮さん、ちょっとお願いします』と戦法を変えました。
 ご存じのようにあすこの窓口には、
 それぞれ係の名が張り出してありますが、
 彼女はそこから仕入れたわけなのです。
 なれなれしく呼び立てられて、間宮さんは少し
 不機嫌な顔で席に戻り、彼女は目的を達しました。

 このご婦人とは途中のバスでもいっしょでしたが、
 車掌さんが『次、お降りの方はございませんか、ございませんか!』
 と急がしくうながす声に、ハッと正気づき、
 『次、願います』というつもりを口調につられて
 『次、ございます』と叫びあたふたと降りていった人なのです。

 肉付きのよい中年の婦人で、
 家庭でもいかにもすわりのよさそうな母性型です。
 しかし通りすがりの私にもその剽軽(ひょうきん)な人柄が
 うかがえて、毎日どれくらい笑いの種を身辺に振りまいている
 ことかとほほえましく眺めました。

 当節のように抜け目のない世の中では抜け目のある人も貴重な存在です。」
 
           ( p40「長谷川町子 思い出記念館」全集別巻 )


東日本大震災の頃の曽野綾子さんの文と、
長谷川町子さんの文を並べて引用すると、
思い浮かんできたのは、長谷川櫂著「震災歌集」
(中央公論新社・2011年4月)でした。
最後は、歌集から3首を引用します。

避難所に久々にして足湯して『こんなときに笑つていいのかしら』
                         ( p126 )
被災せし老婆の口をもれいづる『ご迷惑おかけして申しわけありません』
                         ( p127 ) 
ピーポーと救急車ゆくとある街のとある日常さへ今はなつかし
                         ( p143 ) 


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海辺育ちの母に。

2022-03-07 | 本棚並べ
家から車で10分ほどのところに魚屋さんがあります。
そばに漁港。以前は5軒ほど魚屋さんがありました。
それが今は2軒。私が何となくちょくちょくゆくのは、
70代前半の御夫婦が営んでおります。
以前一時店をやめていたのですが、またはじめております。
近隣の漁港に上がる魚を、午前中に旦那さんが仕入れて、
午前11時半ごろから営業しています。
はい。鯵が中心で、サシミや開き。烏賊やイワシや、
鱚など、その時々に荷揚げしたものを並べてます。
ときどき、アラがあると言ってくれると買います。

はい。そういうわけで、私に魚屋さんは身近です。
さて、本棚から魚屋さんで思い浮かんだ本をだす。

曽野綾子著「この世に恋して」(WAC・2012年)。
そばにあった、もう一冊も取り出す。
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年)

ちなみに、今頃になって、ようやく気づいたのですが、
2冊目は、副題が「東日本大震災の個人的記録」でした。
1冊目は、副題が書き下ろし「曽野綾子自伝」とあります。
自伝を書く前年が、東日本大震災だったことになります。

うん。このくらいにして、1冊目に登場する魚屋さんの話。
いくつか引用してみます。

「母は福井の回漕(かいそう)問屋に生まれました。
私はこの母から、日本の田舎町の『魚文化』を習ったような気がします。
 ・・・・・
それも家でお料理しないんですよ。浜の通りに新鮮な鯖(さば)を
焼き物にしている店があって、それをご飯の前になると子どもが
買いにやらされるんだそうです。

こういう素朴な環境で育った母は、私に魚の鮮度の見分け方と
アラでも何でも全部使っておいしいおかずを作る方法を
子どものときから教えてくれました。ですから私は今でも
お客様にご馳走をするというとお魚料理しかできないんです。

・・・母の家は、最初は羽振りが良かったそうですけれど、
浮沈があり、小学校六年生のとき東京へ出て来ました。」(p25~26)

さてっと、つぎは、大学生時代の曽野綾子さん。

「その日、大学の帰りに、
いつも夕飯の魚を買っている駅で降りました。・・・・・

当時から私は背が高かったこともあるんでしょうか、
老けて見られていました。その頃は食料品を買うにしても
まだ闇市みたいな店が並んでいるところです。

雨が降ると足元が泥でぬかるような店でお魚を買ったり
していると、よく『奥さん』と言われました。

あんまり嬉しい話じゃないですけど、
何しろ私は海辺育ちの母にしっかり仕込まれていますから、
魚の名前も知っていますし、新しいか古いか、
安いか高いかも良くわかりますしね、とても
ハイティーンの娘には見えなかったんでしょう。」(p53~54)


はい。長谷川家のとなりの魚屋さんから、
私に思い浮かんだのは、この『奥さん』でした。

ちなみに、この本には新聞の切り抜きが挟んでありました。
「この世に恋して」を取り上げた『著者に聞きたい』という
インタビュー記事(磨井慎吾)でした。
その切り抜きに、曽野さんの言葉が『』してありました。

『今の世の中が幼いと思うのは、
すぐ善い人か悪い人かに分けたがるところ。
すべての人間はその中間だという認識がないと、
私は不安でしょうがない。
善くて悪い、悪くて善い人間を描く』

うん。『善い』と『悪い』との中間ですか。
それじゃ『意地悪』は中間でウロウロする?

はい。せっかく本を出して来たので、
『揺れる大地に立って』の前のほうをめくってれば、
『悪く』という文字が目にはいる。

「幸か不幸か地震と共に私は、たくさんの原稿を書くことになった。
私はいつも周囲の状況が悪くなった時に思い出される人間なのではないか、
と思うときがある。」(p27)

『比較的老年の人は』という箇所もありました。

「今度の地震でも、比較的老年の人はほとんど動揺を示さなかった。
多くの人は、幸福も長続きはしないが、悲しいだけの時間も、
また確実に過ぎて行く、と知っている。
どん底の絶望の中にも、常に微(かす)かな光を見たからこそ、
人は生き延びてきたのだという事実を体験しているのである。」(p20)

『老年』ですか。それじゃ若い曽野綾子さんはどうだったのか?
また、自伝のほうにもどって曽野さんの昭和20年のころをひらく。

「昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲は今も住む大田区で
経験しました。うちから三百メートルくらい離れた所にあった
ベーカリーが爆弾の直撃を受けて一家九人が全滅即死です。

明日の朝まで生きていられないかもしれないと思っただけで、
私は気が小さかったんでしょう。砲弾恐怖症にかかって
一週間ほど口がきけなくなりました。・・・・・

1945年3月9日から10日にかけて東京は大空襲に見舞われましたが、
その一晩だけで約10万人が焼死したんです。
私の知人にも家族を失った人がいますが、
そのどちらも遺体が発見されていないでしょう。・・・
黒こげの死体の中から個人を判別する国家的余力など
まったくなかったのです。」(p43~44)

ちなみに、曽野さんは1930年生まれ。
ちょうど、2011年と2012年の本が2冊。
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『となりの』レッスン。

2022-03-06 | 本棚並べ
「サザエさん。魚屋さん。」からのつづきです。

となりの魚屋さんというので昨日は魚屋さんが
登場する四コママンガを二枚紹介したのでした。

一枚は、いじわるばあさんの長男と魚屋さん。
つぎは、いじわるばあさん直接対決魚屋さん。

じっさいの魚屋さんは、長谷川家の隣りにお店がある、
ということのようでした。


「となり」といえば、となりつながりでの連想。

はい。となりのトトロ。となりの魚屋さん。
となりの韓国。となりの中国。となりのロシア。
ミサイルを打ちこんでくる回数は隣なみ北朝鮮。
太平洋を隔てた、おとなりさんならばアメリカ。

魚屋さんの対応は、いじわるばあさんの四コマでは
長男との対応。それから、いじわるばあさんの対応。

長谷川町子さんは、身近なテーマを俎上に載せ、
四コマの起承転結の枠内に昇華させてゆきます。

町子さんへのインタビューでの質問に

質問『あなたの小さいときからの、くせは』
町子『おしゃべりです。見聞きした珍しいことは細大もらさず
   報告しなければ気が済みません。少々尾鰭が付くので、
   家族はデマ放送と称して、あまり信用しないようです。』

     ( p26 「長谷川町子 思い出記念館」全集別巻 )

『女のご姉妹三人だなんて、とてもロマンチックね
 —―まるで≪ 若草物語 ≫のようよ――とおっしゃいます。
ところが、これがちっともロマンチックではないのです。
姉妹社さんは今もって朝から晩まで喧嘩が絶えない、
そして喧嘩をすれば、相変わらず私が勝つのです。」

     ( p16 同上「私はこうしてやって来た」 )


こうして、絶えない喧嘩を、となりの魚屋さんは
きっと、肌身でご存じなのでしょうね。


うん。最後はいじわるばあさんの五コマから
( はい。四コマに収まり切れない五コマです )。
これを引用することに。
公園のベンチ。梅の花でしょうか咲いています。

①その枝を見ながらベンチの端に座っている意地悪婆さん。
 煙草をふかしています。反対側からお爺さんが登場。
 立ながらの爺さん『ちょっと火を・・・』
 婆さん『おコトワリします』

②ベンチのもう一方の端に座った爺さん。
 瓶から薬をとりだし、二粒口に飲み込むところ。
 婆さん『オヤお体でも?』。左手には煙草。
 爺さん『胃カイヨウで手術したんでネ』

③お互いに自分を指さして
 婆さん『マア あたしも! キョネンのくれに!』
 爺さん『じゃ同じ頃だ!!』

④二人してベンチで向い合って笑っています。
 二人して『そう!! やったもんでなきゃア ネーエ!!』
 二人の頭の上には、点滴・面会謝絶の札・病院給食それに
 痩せて体重計に乗る姿と、メガネのお医者さんの顔の絵が。

⑤ベンチに二人して座って、
 爺さんが、婆さんにむかって『ちょいと 火を・・・』
 婆さんは、反対側の木の枝のほうに顔をむけて
 『甘ったれるんじゃない! それとこれはベツ』
 と足をくんで、大きく鼻から煙草のけむりが出ている。 

       ( p1 「いじわるばあさん」第四巻 )
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サザエさん。魚屋さん。

2022-03-05 | 本棚並べ
「長谷川町子 思い出記念館」のおしまいには、
ていねいな「長谷川町子年譜」が9ページあり、

それを見ると、1966(昭和41)年~1971年の期間に、
「サンデー毎日」へ「意地悪ばあさん」連載とあります。
その連載中の1970年11月19日

「19日未明に、自宅放火される。
       隣の魚屋さんが協力、犯人を逮捕」
と年譜にあります。

はい。この長谷川町子さん宅の『隣の魚屋さん』が気になる。
はたして、「いじわるばあさん」に魚屋さんは登場するのか?

①「魚辰」の看板があり、魚屋さんが店で働きながら、
 ばあさんの長男が、でかける後ろ姿をながめている。

②黒猫がきて、魚辰さんの店の魚をくわえる。
 口をあけている瞬間の、魚屋さん。
 左端には、出かける長男の姿。

③右側から大声『コラッ』。画面下に猫の後ろ半分シッポまで描かれ、
 長男は、もっている鞄を落とし、両手で頭と顔をがばっている。
 長男『ごめんなさい』

④長男が鞄をもって歩く姿に、大きな吹き出しがあり、
 吹き出しの中に、カツオに似た子供が、物差しをかかげた母親に
 『コラッ』とおこられている図柄。
 そこに長男『コドモのころの条件反射がまだのこってる』
 後ろで、目をまるくして、ポカンとした顔の魚屋さんの姿。

       ( 「いじわるばあさん」第6巻p29 )

年譜にもどって、
1978年58歳 4月『サザエさんうちあけ話』を日曜版に連載(同年11月まで)
1979年   4月『サザエさんうちあけ話』が、『マー姉ちゃん』のタイトル
        でNHKテレビ朝の連続ドラマに。小山内美江子脚本。

うん。連載の翌年すぐに、朝ドラがはじまってます。
脚本家・小山内美江子さんの、朝ドラに関する言葉がありました。
はい。その中にも魚屋さんが登場するので引用することに。

「大変だったのは・・ドラマ化の許諾を得るために、
プロデューサーが姉妹社に話を持っていくと出てくるのよ、御大が(笑)
なにしろ社長は毬子さんですからね。
どういうふうにやるんだとかしつこく聞かれた挙句、
原作者と相談しますから今日はおひきとりくださいって。
そして数日後に返事を聞きに伺う。

それでも町子さんには会えません。
その後、毬子さんからお断りの手紙が来て、
諦めきれないプロデューサーがまた長谷川家の門前に立つ。

そうこうしているうちに私ももう間に合わないというタイミング
になってしまって・・言ったんです。
『もうダメ。ここまで引っ張ってもダメなんだから
 スムーズにはいかないわよ。でも、あなたが最後の
 最後まで粘るなら自分が納得いくまで粘って頂戴』って。
・・・・・・

最後はこんな風にして決まったと聞いています。雨の降る夜中に、
長谷川家の前にその日もプロデューサーが立っていた。
それに気づいた近くの魚屋さんが
『男が家の前に立ってる』って長谷川家に電話で知らせた。

そんなの、気持ち悪いじゃない?  そうしたら家の門が開いて、
『そこまでやりたいっていうなら、もう一度話し合いましょう』
と話がまとまった。ですからドラマの中で
その魚屋さんにお礼がしたくて、この話をちょっと拝借した
シーンをつくり、男手のない磯野家をなにかと気遣う
江戸前の男性を前田吟さんに演じてもらいました。」
           ( p78 「芸術新潮」2016年9月号 )


最後は、魚屋さんといじわるばあさん、
二人して登場する、四コマ漫画を紹介。

①長靴履き『魚』と染め前掛けの親爺さんが、
 子供といっしょにキャッチボールをしてる。
 子どもが投げたボールがはずれて塀の中へ

②空いた窓から入ったボールが、床に置いてある大皿へと直撃。
 ばあさんが、手を激しく振ったしぐさ。
 勝手口で頭を下げている魚屋さん。

③ばあさんが仁王立ちして、口から大声になった様子が
 放射状に雷線がほうぼうにひろがっているのでわかる。
 魚屋さんが土下座して、ふるえている。

④魚屋『ナンダナンダ!こりゃウチんじゃねえか』
 皿のかけらを示して、怒っている。
 ばあさん『ア、そーか あんたとこのサシミ皿だったネ』
 
          ( p88 「いじわるばあさん」第6巻 )



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レッスン『これ・ここ』

2022-03-04 | 本棚並べ
丸谷才一著「思考のレッスン」(1999年文芸春秋)が
古本で200円。つい、買ってしまう。

はじめて、読んだ時のその印象が、
鮮やかだったので、その再読です。
う~ん。こんな箇所がありました。

丸谷】自分が読んだ本で、『これは大事だ』という本がありますね。
あるいは、一冊の本の中で、『ここは大事だ』という章がある。
そういうものは、何度も読むことが大切ですね。繰り返して読んだり、
あるいは何年か間隔をおいて読む。
      ( p135・レッスン3「思考の準備」 )

200円で、自動販売機のコーヒー缶を買うように、
『思考のレッスン』を買い、ゴクリと飲んでみる。
うん。この味だった。新鮮な味わいがよみがえる。

「何年か間隔をおいて」とありますので、
読み返すのにも、それなりの年齢は必要。

この本に、いろいろ本が紹介されてたけど、
ちっとも、読もうという思いはしなかった。
このレッスンをめくるだけで充分楽しめる。
以前と同じようなコーヒーの味わいがある。

さてっと、「長谷川町子 思い出記念館」に、
「私はこうしてやって来た」という文。そこに、
『私たちの才能を一番信じている母』とあります。

それはそうと、小さい頃の絵のことが触れられております。

「私は姉妹の真ん中で、姉といっしょに三つ四つのころから
絵を描くのを、一番好きな遊びとして、岡本帰一の表紙の付いた
子どもノートを日に四、五冊は描きつぶしていました。・・」(p10)

「東京での生活は霞町の一隅にはじまりました。
姉はすでに女学校を卒業していたので、洋画の藤島武二先生に付いて
川端画塾に通学し・・・・

私はそのころから漫画に興味を覚えはじめ、
当時あの有名な『のらくろ』・・田河水泡先生のお弟子に・・」(p11)

絵について、『思考のレッスン』の『レッスン3 思考の準備』に
こんな箇所がありました。

「インタビューは、概してわかりやすいし、ちょっとした
言葉の中に深い内容が込められていて、とても刺激的なんですね。
 ・・・
レヴィ=ストロースは、ピカソについてこんなことも言っています。

『ピカソの天才性は、
 絵画がいまも存在しているという幻想を与える点にある。

 油絵という名の難破船がわれわれを海岸に打ち上げる。
 そうするとピカソは、その漂着物を集めて何かをつくる、
 そういう人だ』

 それは名前を入れ換えれば・・・」(p126~127)

このあとに、外国人の名前がつづくのですが、
それならば、ここは思考のレッスンの試運転。
ということで、その海岸で四コマ漫画の名前を考えてる
サザエさん、カツオ、ワカメ、磯野波平、舟・・・・と、
長谷川町子の四コマ漫画の誕生秘話の海岸へ誘われます。

ということで、この箇所。

「大東亜戦争が起こった。一家は郷里の福岡へ疎開して、
しばらく漫画の舞台からは遠退(とおの)いたけれども、
幼いころの思い出の家と、百坪ほどの小さな楽園の四季と、
近い海岸の砂浜に私の思いも及ばない生の営みがありました。

そして私はただ一人で、愉しい構想に耽っては、
それを描きつぶしているのでした。

終戦の翌年、しばらくぶりで、西日本新聞の夕刊紙から、
連載漫画を依頼されました。あれこれと主人公の選択に迷った
あげく、身近なところで題材がえられるので、若い女性を選び
その名もサザエさんと名付け、そのほかの登場人物も全部
海産物の中から名を取りました。これは私どもが海岸近くに
住んでいたので、朝夕磯部を散歩しているうちにヒントをえたものです。」
  ( p14・「私はこうしてやって来た」 )


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舌足らず。

2022-03-02 | 本棚並べ
「いじわるばあさん」第四巻のp21でした。
ご婦人が3人タスキをかけて壇上に上がって。
演題の題目を背後の壁に掲げるのを見守っております。
そんなふうにしてはじまる四コママンガです。

①係の方が演題を3つ、背後に貼っている。
 「ふうきを守る会」
 「売春をなくそう!」
 「赤線ふっかつさせるな!」

②タスキをかけた、いじわるばあさんが、
 マイク係なのか、マイクの調節をしている。
 他の人は、演台を運び込んだり、指示したり。

③いじわるばあさんが
『アー.アー.あれじゃ男はやりきれまい。
    只今 マイクのテスト中・・・・』

④ばあさんが『では、どーぞ』と挨拶し
   3人の講演者へと、マイクをすすめている。


はい。四コマで、時事問題をとりあげるのは至難の業。
ここは、いじわるばあさんの心意気だけで終ってます。

今日は、朝BSの「まあ姉ちゃん」を途中から見ました。
ちょうど吉田首相のワンマンをとりあげて、家の母も
ワンマンだと声高に笑っておりました。

はい。ここから『長谷川町子 思い出記念館』を引用。
ここには、インタビュー記事も載っています。
昭和26年11月号『キング』のインタビューに、

質問『吉田首相をどう見ますか?』
町子『右顧左眄(うこさべん)しないところが頼もしい』(p28)

さてっと、はじめ引用した四コマの『いじわるばあさん』の
その延長で、まるで町子さんが壇上で講演するような箇所がありました。
四コマには収まり切れない内容です(「婦人朝日」昭和26年6月号)

最初の質問は
『今月の婦人週間のスローガンは
    ≪ 社会のために役立つ婦人になりましょう ≫でした』。

つぎの質問『現在どんな人が、社会に役立っていると思いますか』
その質問に、長谷川町子さんは答えております。

はい。これは四コマに盛り込めないテーマでした。
それなので、最後はその町子さんの答えを全文引用。

「『兄弟喧嘩がなくなったら、戦争も世界から消えるだろう』
  とだれかが申しました。社会のユガミや不安というものを、
  私たちは単なる社会問題と見て、それが自分たちの悪意や
  自己中心の大きな集積であることを忘れがちであります。
  
  そして個人の改善をよそにして、社会の改善がありうる
  かのように考えております。

  啓蒙運動とか社会事業とかいうものも、
  もちろん有意義な企てに違いありませんが、

  それは世の中をよくする力そのものではなく、
  改善は、一人ひとりが自分の生活において、
  まずはじめなければならないものでありましょう。

  もし、正しく信じ、忠実に行い、母として、主婦として、
  また隣人として、常に温かく誠実な一人の女性であるとしたら、
  社会にどんなに見映えしない存在であろうとも、その人こそ、
  世の中を善くする大きな原動力であると思います。

  そして私もまた、このような女性にならいたいと思います。」


はい。マンガに収まらない、長谷川町子さんの肉声を拾えた気がしました。
うん。サザエさん家の兄弟喧嘩を、いまいましく思う、勢力がいたのかも。

           
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おいハンサム!!

2022-03-01 | 本棚並べ
はい。朝ドラ『まあ姉ちゃん』のBSでの再放送が続いており。
うん。土ドラ『おいハンサム!!』は、第8話で終了しました。
どちらも、チラチラと録画ですが見ておりますし、おりました。
どちらも、三姉妹の家族のお話なのでした。
( ネットで、『おいハンサム!!』は見れるようです )

さて、『サザエさん うちあけ話』の①「生い立ち」に
父親の性格が紹介されております。

「ハンサムで、癇癪もちで、貧乏ゆすりのクセがあり、
 非常な子煩悩でした。因果にも娘どもはハンサムは似ず、
 短気のほうを、受け継ぎました。・・・・」

マンガの中だけでは知り得ない、町子さんの父親。
それを町子さんは『わが父の記』に残しています。
そこからの引用。

「父は薩摩隼人ですが・・・・
 寒中でもシャツを着ないのがはやり、
 結婚してから母が毛の下着を何枚も着せたところ
 『冬とはこんなに暖かいものだったのか』と
 感心したというのが一つ話になっています。
 
 そんな気風の中で育ったので・・・
 従って来客の折には、話題にのぼすべき材料もなく、
 生来の口不調法の上に煙草ものまず、ただ憮然として
 沈黙に苦しんでいる様子は見るも気の毒な姿だったそうです。」
          ( p43 「長谷川町子 思い出記念館」 )

この父親と子供のこととが出てくる箇所が印象に残ります。
はい。ここを引用したかったのでした。

「父の子煩悩は親類の間でも評判になるほどでしたが、
 気長に子どもをあやしたり、なだめたりするのは至って不得手で、
 ・・すぐ持ち前の癇癪が顔を出しました。

 遊ぶときでも、教えるときでも、はじめの志はたいへんよいのですが、
 進行するに従って、それが、イスカのハシと食い違い、
 最後はきっと、怒鳴る、泣くという騒動に終わるのでした。

 これは母に対しても同じで、何か気に食わないことがあると、
 前後の見境もなく、すぐ物を投げたり蹴飛ばしたりして乱暴を働きました。
 
 それでも根が愛妻家なので決して直接手を上げるようなことはなく、
 物を投げるにも見当をつけ、45度くらい外れたところを目標にしました。

 こんなときには、お釈迦様の説法でも耳に入らないので、
 母はもっぱらガンジーを決め込み、台風が一過すると、
 じりじり条理を立てて非を鳴らしはじめます。

 父は気の毒なほどしょげ返って、何を言われても 
 『うん・・その通りだ・・俺が悪かった。
  済まなかった。これからきっと改める』と
 ひたすら恭順の意を表明するのでした。」
     ( p49~50・同上 )

このあとに、里帰りする母と、残された父子の夜の話が出てきます。
うん。ここまで引用していたら、ハンサム詩人が思い浮かびました。

鹿児島出身の詩人・黒田三郎。
黒田三郎の詩集に『小さなユリと』がありました。
最後はそこから詩『夕方の三十分』を引用します。

   コンロから御飯をおろす
   卵を割ってかきまぜる
   合間にウィスキイをひと口飲む
   折紙で赤い鶴を折る
   ネギを切る
   一畳に足りない台所につっ立ったままで
   夕方の三十分

   僕は腕のいい女中で
   酒飲みで
   オトーチャマ
   小さなユリの御機嫌とりまで
   いっぺんにやらなきゃならん
   半日他人の家で暮したので
   小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う

   『ホンヨンデェ オトーチャマ』
   『コノヒモホドイテェ オトーチャマ』
   『ココハサミデキッテェ オトーチャマ』
   卵焼をかえそうと
   一心不乱のところに
   あわててユリが駆けこんでくる
   『オシッコデルノー オトーチャマ』

   だんだん僕は不機嫌になってくる
   味の素をひとさじ
   フライパンをひとゆすり
   ウィスキイをがぶりとひと口
   だんだん小さなユリも不機嫌になってくる
   『ハヤクココキッテヨォ オトー』
   『ハヤクー』

   癇癪もちの親爺が怒鳴る
   『自分でしなさい 自分でェ』
   癇癪もちの娘がやりかえす
   『ヨッパライ グズ ジジイ』
   親爺が怒って娘のお尻を叩く
   小さなユリが泣く
   大きな大きな声で泣く

   それから
   やがて
   しずかで美しい時間が
   やってくる
   親爺は率直にやさしくなる
   小さなユリも素直にやさしくなる
   食卓に向い合ってふたり坐る


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