今回のメインは、子規記念博物館。道後温泉駅から歩いて数分のところ。
掲示板。建物正面の門扉・飾り格子(細工物)が、俳諧雑誌「ホトトギス」の表紙を飾ったデザインを模したものとの解説がありました。
正面入り口。2階窓と扉に注目。「蔵」をイメージしたそうで、立派な建物です。
正面に大きな垂れ幕。「遠足の十人ばかり花の雨 子規」。
入ってすぐのところにある子規の「ブロンズ像」。
館内は、写真撮影禁止。
けれども、じっくり見ていると、時間の経つのを忘れてしまいそうなほど。子規(さらに漱石などゆかりの文人、高浜虚子などの多くの門人達の)句や絵画、生涯が展示され、活字と写真でしか見ていなかった多くの資料の現物(複製もあるようですが)を目にすることができ、改めて子規とその世界を心底、味わうことができました。
道後・松山の歴史展示や「日露戦争と秋山兄弟」などの映像作品も、豊か。
特に、「子規とベースボール」コーナーは興味深い。「野球」のぼーるを最初に用いた人物であるとか、ベースボールに熱中して結核を発病したとか・・・。話では知っていたことでもバットやユニホーム姿など展示で再確認。
・うちはつす球キヤツチヤーの手にありてベースを人のゆきかてにする (明治31年作)
ここだけは撮影可。愚陀佛庵(ぐだぶつあん)の一階部分の復元。
この建物は、夏目漱石が愛媛県松山市に赴任していた時の下宿先。名称は、夏目漱石の俳号・愚陀佛に由来しています。当時の建物は太平洋戦争の戦災により焼失しました。1982年に萬翠荘(旧久松家別荘)の裏手に木造二階建ての建物として復元されていましたが、2010年7月に倒壊してしまいました。
この建物は元々、松山市二番町にあった上野義方邸の離れである。1895年(明治28年)に夏目漱石が、英語教師として旧制松山中学校に赴任していた際に下宿として利用した。また、52日間に渡って俳人・正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これは後の漱石文学に影響を与えたと言われている。子規は、著書俳諧大要を残した。
元の建物は戦災により焼失したが、1982年(昭和57年)に現在の地に復元された。松山城山腹で、周囲は深い森となっている。なお、当初の建物があった場所は現在(2009年現在)は繁華街の一角で、駐車場となっており、路傍に碑が設置されている。
2010年7月12日、午前6時ころから短時間に大雨が降った影響で山腹の土砂が崩れ、愚陀仏庵が全壊した。現在、萬翠荘としては再建の意思があり、協力を呼びかけているが、計画は具体化していない。(以上、「Wikipedia」より引用。)
かつての「愚陀佛庵」。句会などが行われていたそうです。
復元された室内のようす。
子規が亡くなる数時間前に書いた「絶句三句(複製)」なども展示されていました。
①糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
②痰一斗糸瓜の水も間にあはず
③をととひのへちまの水も取らざりき
これらの句にあやかって、子規の命日は、「へちま忌」という。明治35年9月19日死去。享年35歳。
正岡子規は、慶応3年(1867年)9月17日(新暦:10月14日)、伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町)で生まれました。翌年が明治元年ですから、子規の年齢は明治の年号と同じになります。本名を常規つねのり、幼名を升のぼるといい、父常尚つねなおは、松山藩士御馬廻番、母八重は藩校明教館教授大原観山の長女です。5歳のとき父を亡くした子規は、祖父大原観山の訓育を受け、叔父加藤拓かとうたくせん川(後外交官、松山市長)の影響を受けました。
自由民権運動に触発され、政治家をめざして明治16年に上京、第一高等中学校、帝国大学文科大学に進学します。しかし、22歳のときに喀血して「子規」と号したころから真剣に文学を志し、大学を中退して入社した日本新聞社で、俳句や短歌の革新を叫び、新体詩を試み、写生文をとなえました。明治28年からは脊椎カリエスの病苦にあえぎながらも、死の2日前まで随筆「病牀六尺」を発表しつづけて、明治35年(1902年)9月19日に亡くなりました。
「写生」に根ざした子規の文学は、多くの仲間とともに子規山脈を形成し、近代文学史上に輝いています。(「子規記念博物館」HPより)
記念館として俳句や短歌のコンクールを行っているようです。
「第18回はがき歌全国コンテスト」表彰式。
優秀賞。(どちらもHPより)
建物脇の子規の短歌。
「足なへの 病いゆとふ伊豫の湯に 飛びても行かな 鷺にあらませば 子規」
「道後公園」入り口の子規と漱石の句碑。
「冬枯や鏡にうつる雲の影 子規」「半鐘と並んで高き冬木哉 漱石」。どうも漱石の句の方が分が悪い、と思うのは私だけか。
「子規堂」。伊予鉄「松山市」駅近く。子規が17歳で上京する迄住んでいた居宅の復元。帰りの飛行機までの時間がなくて、残念ながら、見学は省略。
JR松山駅前にある子規の大きな句碑。
「春や昔 十五万石の 城下哉」
《付》上京当時の仮寓の地。
隅田公園内。長命寺の桜もち「山本や」。
大学予備門在学中の頃。
・向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉
・花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ
・から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん
江戸時代のころの「山本や」。
「長命寺桜もち」。
掲示板。建物正面の門扉・飾り格子(細工物)が、俳諧雑誌「ホトトギス」の表紙を飾ったデザインを模したものとの解説がありました。
正面入り口。2階窓と扉に注目。「蔵」をイメージしたそうで、立派な建物です。
正面に大きな垂れ幕。「遠足の十人ばかり花の雨 子規」。
入ってすぐのところにある子規の「ブロンズ像」。
館内は、写真撮影禁止。
けれども、じっくり見ていると、時間の経つのを忘れてしまいそうなほど。子規(さらに漱石などゆかりの文人、高浜虚子などの多くの門人達の)句や絵画、生涯が展示され、活字と写真でしか見ていなかった多くの資料の現物(複製もあるようですが)を目にすることができ、改めて子規とその世界を心底、味わうことができました。
道後・松山の歴史展示や「日露戦争と秋山兄弟」などの映像作品も、豊か。
特に、「子規とベースボール」コーナーは興味深い。「野球」のぼーるを最初に用いた人物であるとか、ベースボールに熱中して結核を発病したとか・・・。話では知っていたことでもバットやユニホーム姿など展示で再確認。
・うちはつす球キヤツチヤーの手にありてベースを人のゆきかてにする (明治31年作)
ここだけは撮影可。愚陀佛庵(ぐだぶつあん)の一階部分の復元。
この建物は、夏目漱石が愛媛県松山市に赴任していた時の下宿先。名称は、夏目漱石の俳号・愚陀佛に由来しています。当時の建物は太平洋戦争の戦災により焼失しました。1982年に萬翠荘(旧久松家別荘)の裏手に木造二階建ての建物として復元されていましたが、2010年7月に倒壊してしまいました。
この建物は元々、松山市二番町にあった上野義方邸の離れである。1895年(明治28年)に夏目漱石が、英語教師として旧制松山中学校に赴任していた際に下宿として利用した。また、52日間に渡って俳人・正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これは後の漱石文学に影響を与えたと言われている。子規は、著書俳諧大要を残した。
元の建物は戦災により焼失したが、1982年(昭和57年)に現在の地に復元された。松山城山腹で、周囲は深い森となっている。なお、当初の建物があった場所は現在(2009年現在)は繁華街の一角で、駐車場となっており、路傍に碑が設置されている。
2010年7月12日、午前6時ころから短時間に大雨が降った影響で山腹の土砂が崩れ、愚陀仏庵が全壊した。現在、萬翠荘としては再建の意思があり、協力を呼びかけているが、計画は具体化していない。(以上、「Wikipedia」より引用。)
かつての「愚陀佛庵」。句会などが行われていたそうです。
復元された室内のようす。
子規が亡くなる数時間前に書いた「絶句三句(複製)」なども展示されていました。
①糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
②痰一斗糸瓜の水も間にあはず
③をととひのへちまの水も取らざりき
これらの句にあやかって、子規の命日は、「へちま忌」という。明治35年9月19日死去。享年35歳。
正岡子規は、慶応3年(1867年)9月17日(新暦:10月14日)、伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町)で生まれました。翌年が明治元年ですから、子規の年齢は明治の年号と同じになります。本名を常規つねのり、幼名を升のぼるといい、父常尚つねなおは、松山藩士御馬廻番、母八重は藩校明教館教授大原観山の長女です。5歳のとき父を亡くした子規は、祖父大原観山の訓育を受け、叔父加藤拓かとうたくせん川(後外交官、松山市長)の影響を受けました。
自由民権運動に触発され、政治家をめざして明治16年に上京、第一高等中学校、帝国大学文科大学に進学します。しかし、22歳のときに喀血して「子規」と号したころから真剣に文学を志し、大学を中退して入社した日本新聞社で、俳句や短歌の革新を叫び、新体詩を試み、写生文をとなえました。明治28年からは脊椎カリエスの病苦にあえぎながらも、死の2日前まで随筆「病牀六尺」を発表しつづけて、明治35年(1902年)9月19日に亡くなりました。
「写生」に根ざした子規の文学は、多くの仲間とともに子規山脈を形成し、近代文学史上に輝いています。(「子規記念博物館」HPより)
記念館として俳句や短歌のコンクールを行っているようです。
「第18回はがき歌全国コンテスト」表彰式。
優秀賞。(どちらもHPより)
建物脇の子規の短歌。
「足なへの 病いゆとふ伊豫の湯に 飛びても行かな 鷺にあらませば 子規」
「道後公園」入り口の子規と漱石の句碑。
「冬枯や鏡にうつる雲の影 子規」「半鐘と並んで高き冬木哉 漱石」。どうも漱石の句の方が分が悪い、と思うのは私だけか。
「子規堂」。伊予鉄「松山市」駅近く。子規が17歳で上京する迄住んでいた居宅の復元。帰りの飛行機までの時間がなくて、残念ながら、見学は省略。
JR松山駅前にある子規の大きな句碑。
「春や昔 十五万石の 城下哉」
《付》上京当時の仮寓の地。
隅田公園内。長命寺の桜もち「山本や」。
大学予備門在学中の頃。
・向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉
・花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ
・から山の 風すさふなり 古さとの 隅田の櫻 今か散るらん
江戸時代のころの「山本や」。
「長命寺桜もち」。