このあいだの土曜日。神保町の「日本教育会館」での集会のお誘いがあって、久々に都心まで。例によって折り畳み自転車。約1時間30分。荒川・四ツ木橋を越えるときがしんどいだけで、隅田川・蔵前橋も含め、あとは街中をすいすい(蔵前橋通りの神田付近、お茶の水駅から水道橋あたりが急な坂)。人混みの中をかき分けかき分け、約14キロメートル?
会合も終わり、帰りの道筋。辺りをきょろきょろしながら自転車を走らせる。
そこで、出かけた目的・内容はそっちへおいて、そこここで見かけた興味深いお店特集を。神保町から浅草まで。
「教育会館」の道路をはさんで斜め前にあるお店、うなぎの「今荘」。老舗です。外観は、昔と変わらぬレトロな雰囲気。二階で食事をしたことがありました。
「奥野かるた店」。店内にはさまざまなカードゲーム品がいっぱい。
百人一首、かるた、花札、碁将棋、すごろく…。
みなさん、どれかで一度は遊んだことがあるのではないでしょうか。
奥野かるた店は、そんな“あそび”の数々を扱っているお店です。
奥野かるた店は1921年(大正10年)に、「奥野一香商店」として創業しました。
昭和54年に、神田・神保町の現店舗に移転し、最近では一般消費者への販売も拡充しました。
2009年11月に店舗の2Fを改装し、ゆったりとした展示スペースもできました。
メーカーとしても、奥野オリジナル商品の開発を行っています。
弊社店鋪では、かるたや百人一首、トランプを始めとする国内外のカードゲーム、
囲碁、将棋、麻雀牌、チェスやパズルといった室内ゲーム、またTVゲームなど、
広範囲に室内ゲーム品を取り揃えております。
みなさまのご来店を心よりお待ち致しております。(以上、お店のHPより)
なかなか趣のある看板。
ラーメン屋さんにはおもしろい屋号がたくさん。「�跟者服部」。忍者ハットリくんをもじったものらしい。出来たら「甲賀流」とか「伊賀流」とか付け加えるとおもしろかったが。
「忍者ハットリくん」。
これも中華料理屋さん。「麺覇王(メンバーワン)」ナンバーワンということですね。この自信は、さすがです。
おっとその前に!
「湯島聖堂」。
徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。
大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993)三月竣工いたしました。
(以上、「斯文会」HPより)
「湯島聖堂」のHPより。
今も昔も変わらぬ静かな佇まい。
「鳴門鯛焼本舗」。
「天然」?
7、8年前、徳島に行ったときに、帰り際に鳴門海峡を見下ろすお店に入り、「活き作り」の鯛を注文。さっそく出てきた鯛に箸をつけようとしたら、すでに刺身になった鯛が勢いよく飛び跳ねてテーブルの下に。慌てた、いい大人が3人、畳に散らばった鯛を手でつかんで皿に戻し何食わぬ顔で食べた、という想い出が急に思い出された。ついつい名前に誘われて二匹買いました。なかなかおいしい。
その包み紙。
会合も終わり、帰りの道筋。辺りをきょろきょろしながら自転車を走らせる。
そこで、出かけた目的・内容はそっちへおいて、そこここで見かけた興味深いお店特集を。神保町から浅草まで。
「教育会館」の道路をはさんで斜め前にあるお店、うなぎの「今荘」。老舗です。外観は、昔と変わらぬレトロな雰囲気。二階で食事をしたことがありました。
「奥野かるた店」。店内にはさまざまなカードゲーム品がいっぱい。
百人一首、かるた、花札、碁将棋、すごろく…。
みなさん、どれかで一度は遊んだことがあるのではないでしょうか。
奥野かるた店は、そんな“あそび”の数々を扱っているお店です。
奥野かるた店は1921年(大正10年)に、「奥野一香商店」として創業しました。
昭和54年に、神田・神保町の現店舗に移転し、最近では一般消費者への販売も拡充しました。
2009年11月に店舗の2Fを改装し、ゆったりとした展示スペースもできました。
メーカーとしても、奥野オリジナル商品の開発を行っています。
弊社店鋪では、かるたや百人一首、トランプを始めとする国内外のカードゲーム、
囲碁、将棋、麻雀牌、チェスやパズルといった室内ゲーム、またTVゲームなど、
広範囲に室内ゲーム品を取り揃えております。
みなさまのご来店を心よりお待ち致しております。(以上、お店のHPより)
なかなか趣のある看板。
ラーメン屋さんにはおもしろい屋号がたくさん。「�跟者服部」。忍者ハットリくんをもじったものらしい。出来たら「甲賀流」とか「伊賀流」とか付け加えるとおもしろかったが。
「忍者ハットリくん」。
これも中華料理屋さん。「麺覇王(メンバーワン)」ナンバーワンということですね。この自信は、さすがです。
おっとその前に!
「湯島聖堂」。
徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。これが現在の湯島聖堂の始まりです。その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。ついでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展してまいりました。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代教育発祥の地としての栄誉を担いました。
大正11年(1922)湯島聖堂は国の史跡に指定されましたが、翌12年(1923)関東大震災が起こり、わずかに入徳門と水屋を残し、すべてを焼失いたしました。この復興は斯文会が中心となり、昭和10年(1935)工学博士東京帝国大学伊東忠太教授の設計と㈱大林組の施工により、寛政時代の旧制を模し、鉄筋コンクリート造りで再建を果たしました。この建物が現在の湯島聖堂で、昭和61年度(1986)から文化庁による保存修理工事が、奇しくも再び(株)大林組の施工で行われ、平成5年(1993)三月竣工いたしました。
(以上、「斯文会」HPより)
「湯島聖堂」のHPより。
今も昔も変わらぬ静かな佇まい。
「鳴門鯛焼本舗」。
「天然」?
7、8年前、徳島に行ったときに、帰り際に鳴門海峡を見下ろすお店に入り、「活き作り」の鯛を注文。さっそく出てきた鯛に箸をつけようとしたら、すでに刺身になった鯛が勢いよく飛び跳ねてテーブルの下に。慌てた、いい大人が3人、畳に散らばった鯛を手でつかんで皿に戻し何食わぬ顔で食べた、という想い出が急に思い出された。ついつい名前に誘われて二匹買いました。なかなかおいしい。
その包み紙。