おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

海岸水門~将監の鼻~環七。(江戸川区・葛西海岸堤防跡をたどる。その2。)

2013-05-31 20:21:43 | 歴史・痕跡
 陸地側にぐっと入り込んだところに「海岸水門」がありました。かつての「左近川」河口。東京湾最奥、「海岸堤防」のおへそのような位置?
旧堤防(現・都道450号線)からの「海岸水門」。
「海岸水門」。右方向が「新左近川親水公園」。
来た道(旧海岸堤防)を振り返る。
「海岸水門」。往時を偲ぶ遺構。
コンクリート製の頑丈なつくり。ゼロメートル地帯の高潮・水害を防ぐ機能を持っていた。
道路をはさんだ「左近川」側に残る「海岸水門橋」の遺構の一部。
水門越しには埋め立て地に建てられた建物群。
広い道路を渡って遊歩道は右手奥に続く。
右手の小高い道が「葛西海岸堤防」跡。
海岸堤防があった頃と同じに、海に突き出すように道は左にカーブ。
「将監の鼻」の碑。「都道」側に旧堤防の一部が保存されている。
「旧海岸堤防」。
碑の正面。
由来と潮干狩りの写真。
 《碑文》
 昔、この地は、”将監の鼻”と呼ばれ、海の玄関口として知られていました。
 葛西海岸は遠浅の海岸をなし、海の宝庫として、沖にはのりひびが立ち並び、あさりや、しじみを採る舟が舳を競い、春には汐干狩、夏には海水浴など、レクリエ-ションの場としても親しまれていました。
 この堤防は、昭和22年のカスリーン台風、続く昭和24年のキティー台風による被害を経て、昭和26年に高潮から内陸部を守る目的で建設に着手され、約4.5kmに及ぶ工事が昭和32年に完成しました。
 以来、幾多の自然の試練からこの土地を守ってきました。
 しかし、一方では先祖伝来の土地を海の中に追いやってしまうというつらい役割も担って来ました。昭和47年からの東京都の埋立て事業ねにより、見事に陸地として甦り、新たな堤防の築造により無事にその役割を終えました。
 海と親しみ、海と共に生きてきた先人達の姿を永く記憶にとどめるため、堤防の一部を残し記念とします。
 昭和61年8月 江戸川区長中里喜一

「海岸水門」方向。右に直角に曲がっている。
「環七」方向。
かつての海側。当然、海を望むべくもない。
のところ。
 このあたりがかつては岬で、「将監の鼻」と呼ばれたとのこと。向井忠勝の官位である左近衛「将監」に由来しているようです。

 「将監(しょうげん)」。
 近衛府の将官名。四等官の判官(ジョウ)に相当し、六位上の官位に相当。現場指揮官で護衛、警護の体制を組み立てる役目。近衛将監は六位蔵人・式部丞・民部丞・外記・史・衛門尉などと同様に正月の叙位で叙爵枠があり、毎年1名ずつ従五位下に叙された(巡爵)。五位でこの官職に就くと、左近大夫(さこんたいふ)将監あるいは右近大夫(うこんたいふ)将監。将監を略して、左近大夫あるいは右近大夫と称された。 

このあたりは、一直線の海岸線。
のところ。
堤防面は、けっこうな高さがある。
下の道路を見下ろしたところ。
自転車もすいすい進む。
「環七」との交差点を渡る。
「環七」葛西臨海公園方向を望む。
「堀江団地」交差点。右側の広い道路が「環七」。 
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