「日本維新の会」。「維新」という称号が大向こうを狙って受ける時代。ナショナリズムの台頭。
「解説(中島岳志)」にもあるように今日の日本においても、格差社会の拡大の中、青年達の「スピリチュアルな自分探し」ブームは去ったものの、ますます深まる閉塞感(状況)が心情的な排外主義に傾斜し、「日本維新の会」等が声高に叫ぶ独りよがりな理想論・行動論さらにはマスコミの待望論が、青年たちを偏狭なナショナリズムへと落とし込んでいくのではないかと思わせる現在の風潮。
青年の心情を巧みに利用する極右政治家、感情的な扇動家たちのアジテーションによって、今また運動となって日本の社会を変える(かつての戦前の時代へと)契機になりつつあることを実感する。
かつての昭和「維新」運動は、超国家主義の時代を招いた。特にその思想的・行動的影響は、青年層を刺激し、テロなどに決起させ、その暴力性が当時の国民に次第に「共感」を呼び、急速に巨大化していく1920年代。
どうして当時の青年たちが「昭和維新」運動に感化され、むしろ主体的に担い、暴力を肯定し、テロを起こすことになっていったのか?
筆者は、「超国家主義」の時代のスタートを、大正10年(1921年)に起こった朝日平吾の安田財閥の総帥、安田善次郎暗殺にあったとして捉えていく。さらに、ただ一人、街頭で「桃太郎主義」を訴えた渥美勝の生き様を取り上げていく。こうして、昭和維新思想の起源を明治の国家主義(遅れてきた資本主義国家)が帝国主義(三度の戦争を経て、資本主義体制の確立)に転じたとき青年の心に広がった不安と疎外感のなかに見出す。
当時、社会主義思想(絶対的天皇制下に置かれていたという限界性を踏まえるつつも)が青年(労働者)の心をつかむことができないまま、一方で、軍部・右翼が台頭し、青年の心を獲得していく過程。高山樗牛、石川啄木、北一輝、平沼騏一郎、また右翼団体などを取り上げ、青年の心情を捉えていったかをつまびらかにする。
相変わらずの閉塞状況下、こうしたときには必ず登場する言論。北朝鮮はもちろん、韓国、中国、ロシアへの徹底した敵視政策(今や、アメリカまでもその対象とするかのような言動も飛び出している)の中、憲法問題が浮上、目くらましの「手続き論」、その陰にある「憲法第九条」改「悪」。そのための「国民投票」を18歳に下げようとする安倍内閣。こうした動きに、きな臭さを感じる。そんなことまでも思う、一書。
ふと漱石の「こころ」の一節を。先生のことば。
「自由と独立と己とに満ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しさを味わわなくてはならないでしょう。」
個人主義が個人の人格や自立の基盤でもあるとともに、孤独や独善の源泉でもあることを漱石は見抜いていた。今のネットのやりとりの過熱ぶりを見るにつけて、「独善」が生む弊害をしっかりと見定める必要がある。むろん、ここは国家の「独善」がいかに国民を誤った方向に導くかへの憂いからのものである。
「解説(中島岳志)」にもあるように今日の日本においても、格差社会の拡大の中、青年達の「スピリチュアルな自分探し」ブームは去ったものの、ますます深まる閉塞感(状況)が心情的な排外主義に傾斜し、「日本維新の会」等が声高に叫ぶ独りよがりな理想論・行動論さらにはマスコミの待望論が、青年たちを偏狭なナショナリズムへと落とし込んでいくのではないかと思わせる現在の風潮。
青年の心情を巧みに利用する極右政治家、感情的な扇動家たちのアジテーションによって、今また運動となって日本の社会を変える(かつての戦前の時代へと)契機になりつつあることを実感する。
かつての昭和「維新」運動は、超国家主義の時代を招いた。特にその思想的・行動的影響は、青年層を刺激し、テロなどに決起させ、その暴力性が当時の国民に次第に「共感」を呼び、急速に巨大化していく1920年代。
どうして当時の青年たちが「昭和維新」運動に感化され、むしろ主体的に担い、暴力を肯定し、テロを起こすことになっていったのか?
筆者は、「超国家主義」の時代のスタートを、大正10年(1921年)に起こった朝日平吾の安田財閥の総帥、安田善次郎暗殺にあったとして捉えていく。さらに、ただ一人、街頭で「桃太郎主義」を訴えた渥美勝の生き様を取り上げていく。こうして、昭和維新思想の起源を明治の国家主義(遅れてきた資本主義国家)が帝国主義(三度の戦争を経て、資本主義体制の確立)に転じたとき青年の心に広がった不安と疎外感のなかに見出す。
当時、社会主義思想(絶対的天皇制下に置かれていたという限界性を踏まえるつつも)が青年(労働者)の心をつかむことができないまま、一方で、軍部・右翼が台頭し、青年の心を獲得していく過程。高山樗牛、石川啄木、北一輝、平沼騏一郎、また右翼団体などを取り上げ、青年の心情を捉えていったかをつまびらかにする。
相変わらずの閉塞状況下、こうしたときには必ず登場する言論。北朝鮮はもちろん、韓国、中国、ロシアへの徹底した敵視政策(今や、アメリカまでもその対象とするかのような言動も飛び出している)の中、憲法問題が浮上、目くらましの「手続き論」、その陰にある「憲法第九条」改「悪」。そのための「国民投票」を18歳に下げようとする安倍内閣。こうした動きに、きな臭さを感じる。そんなことまでも思う、一書。
ふと漱石の「こころ」の一節を。先生のことば。
「自由と独立と己とに満ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しさを味わわなくてはならないでしょう。」
個人主義が個人の人格や自立の基盤でもあるとともに、孤独や独善の源泉でもあることを漱石は見抜いていた。今のネットのやりとりの過熱ぶりを見るにつけて、「独善」が生む弊害をしっかりと見定める必要がある。むろん、ここは国家の「独善」がいかに国民を誤った方向に導くかへの憂いからのものである。