「照ヶ崎海岸」。シーズンオフで静かな海辺。バーベキュー一組と老父婦らしき一組くらい。大磯港の防波堤では釣り人が釣りを楽しんでいる。

「大磯港」防波堤より平塚方向を望む。
「高麗山」に続く大磯の山並みを望む。
江ノ島(↓)を望む。
「松本先生謝恩碑」(犬養毅 題)。
「海水浴場発祥の地」
明治18年天与の自然に恵まれた大磯照ヶ崎海岸に日本で最初に海水浴場を開いた軍医総監 松本順先生は国民の健康増進と体力の向上をはかるため 海水浴が良いと説き その頃の有名な歌舞伎役者を大勢連れて来て祷龍館に泊まらせ海水浴をさせて 大磯町の名を日本中に広めました 昭和59年6月24日
親しまれて百年 逢いに来て 大磯の夏

「祷龍館繁栄の図」。 「明治中期から後期の海水浴場」。
(以上、
HPより)
1885年(明治18年)初代軍医総監だった松本順氏は、日本人の健康を高めるために西洋で流行っていた「海水浴」を日本に取り入れました。
当時の海水浴は、潮流で身体に刺激を与え、海辺の清涼な空気を吸うことで、「泳ぐ」というのではなく、岩の所々に差してある鉄棒につかまって「海水につかっている」だけだったそうです。
海水浴の始まりは、治療のためでした。心身共にリフレッシュできる海水浴。開放感溢れる海で、夏を満喫してみてはいかがでしょうか。

(以上、
HPより)
ところが、倉敷市のHPでは「日本最初の海水浴場 沙美海水浴場」と紹介されていました。
日本で最初に沙美海水浴場を開いたのは健康のために海水浴が良いとの「医師坂田待園」の考えに共感した吉田村長が協力し漁師たちを説得して実現しました。「村長吉田親之君碑」が番所山のふもとに建立されています。
(以上「倉敷市」HPより)
というわけで、はたしてどこが「日本初の海水浴場」か?
「アオバト」の集団飛来地としても有名。アオバトは海水を飲むらしい。
ちょっと見つけられなかったので、「大磯観光協会」のポスターを拝借。

西湘バイパス下の標識「太平洋岸自転車道」(↓)。スケールが大きい。

再び、「国道1号線」に戻って、しばらく行くと、左手に「鴫立庵」があります。入口の手前には、しゃれたお店がありました。


「鴫立庵」。 「鴫立沢」。

寛文4年(1664)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。
現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。
崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石に“著盡湘南清絶地”と刻まれていることから、湘南発祥の地と注目を浴びています。
こころなき 身にもあはれは 知られけり
鴫立沢の 秋の夕暮れ (西行法師)
正面のお堂は、「円位堂(西行堂)」。

「俳諧道場」。
齊藤寛之氏の作品が展示されている。古代の船にかかる白い帆(あるいはちぎれ雲かさざ波か)に煌めく光の淡い変化・・・。不思議な空間を醸し出している。
「鴫立沢」標石。
この裏に「著盡湘南 清絶地」と刻まれていて、これが「湘南」という言葉の始まり、とか。(ただし、この標石は複製で本物は大磯町が保存しているらしい。)
また、この地域―鎌倉から西側―を「湘南」と名づけられた由来には諸説があるようだ。

芭蕉(と弟子達)句碑(円筒形の珍しいもの)、西行銀猫碑、佐佐木信綱自作歌碑、比翼塚、歴代庵主の墓碑など庭には90近くの石像物が存在していて、数々の興味深い石碑が所狭しと建っていて、飽きない。


外に出ると、葬儀場施設建設反対の幟が。「鴫立庵」と大磯町役場との間に建設されている。その先には、「跡地の黒松を守れ」の幟も。自然環境、地元住民の住環境との調和が難しい昨今ではある。



1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。右下、岩礁のある付近が「照ヶ崎海岸」。



1970年代のようす(「同」より)。
「大磯港」の建設、「西湘バイパス」の完成によって、海岸が狭くなって、海水浴場の中心が西方に移っていく。40年以上経過した現在、海岸線にはそれほど変化は見られないが、陸地は一段と緑が少なくなっている。↓が「照ヶ崎海水浴場」碑が建っているところ。国道1号線と旧東海道との分岐点付近。
現代。(「今昔マップ」より)。








明治18年天与の自然に恵まれた大磯照ヶ崎海岸に日本で最初に海水浴場を開いた軍医総監 松本順先生は国民の健康増進と体力の向上をはかるため 海水浴が良いと説き その頃の有名な歌舞伎役者を大勢連れて来て祷龍館に泊まらせ海水浴をさせて 大磯町の名を日本中に広めました 昭和59年6月24日
親しまれて百年 逢いに来て 大磯の夏


「祷龍館繁栄の図」。 「明治中期から後期の海水浴場」。
(以上、

1885年(明治18年)初代軍医総監だった松本順氏は、日本人の健康を高めるために西洋で流行っていた「海水浴」を日本に取り入れました。
当時の海水浴は、潮流で身体に刺激を与え、海辺の清涼な空気を吸うことで、「泳ぐ」というのではなく、岩の所々に差してある鉄棒につかまって「海水につかっている」だけだったそうです。
海水浴の始まりは、治療のためでした。心身共にリフレッシュできる海水浴。開放感溢れる海で、夏を満喫してみてはいかがでしょうか。

(以上、

ところが、倉敷市のHPでは「日本最初の海水浴場 沙美海水浴場」と紹介されていました。
日本で最初に沙美海水浴場を開いたのは健康のために海水浴が良いとの「医師坂田待園」の考えに共感した吉田村長が協力し漁師たちを説得して実現しました。「村長吉田親之君碑」が番所山のふもとに建立されています。
(以上「倉敷市」HPより)
というわけで、はたしてどこが「日本初の海水浴場」か?

ちょっと見つけられなかったので、「大磯観光協会」のポスターを拝借。

西湘バイパス下の標識「太平洋岸自転車道」(↓)。スケールが大きい。

再び、「国道1号線」に戻って、しばらく行くと、左手に「鴫立庵」があります。入口の手前には、しゃれたお店がありました。



「鴫立庵」。 「鴫立沢」。


寛文4年(1664)小田原の崇雪がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、元禄8年(1695)俳人の大淀三千風が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となりました。
現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれています。
崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石に“著盡湘南清絶地”と刻まれていることから、湘南発祥の地と注目を浴びています。
こころなき 身にもあはれは 知られけり
鴫立沢の 秋の夕暮れ (西行法師)



「俳諧道場」。
齊藤寛之氏の作品が展示されている。古代の船にかかる白い帆(あるいはちぎれ雲かさざ波か)に煌めく光の淡い変化・・・。不思議な空間を醸し出している。

この裏に「著盡湘南 清絶地」と刻まれていて、これが「湘南」という言葉の始まり、とか。(ただし、この標石は複製で本物は大磯町が保存しているらしい。)
また、この地域―鎌倉から西側―を「湘南」と名づけられた由来には諸説があるようだ。


芭蕉(と弟子達)句碑(円筒形の珍しいもの)、西行銀猫碑、佐佐木信綱自作歌碑、比翼塚、歴代庵主の墓碑など庭には90近くの石像物が存在していて、数々の興味深い石碑が所狭しと建っていて、飽きない。




外に出ると、葬儀場施設建設反対の幟が。「鴫立庵」と大磯町役場との間に建設されている。その先には、「跡地の黒松を守れ」の幟も。自然環境、地元住民の住環境との調和が難しい昨今ではある。








「大磯港」の建設、「西湘バイパス」の完成によって、海岸が狭くなって、海水浴場の中心が西方に移っていく。40年以上経過した現在、海岸線にはそれほど変化は見られないが、陸地は一段と緑が少なくなっている。↓が「照ヶ崎海水浴場」碑が建っているところ。国道1号線と旧東海道との分岐点付近。
