街道筋にしゃれたお店。カレー屋さん。
「旧島崎藤村邸」。
東海道から「案内」にしたがって路地を入って行く。
前の緑地にある案内板。
大磯駅より東海道線路沿いに徒歩 5 分。町屋園と呼ばれた藤村の旧宅は、三間の平屋建ての民家 で外壁には杉の皮、引き戸には大正ガラス ( 現在は希少 ) が使われている。小さい素朴な冠木門に割竹垣に囲まれた小庭。 カナメやモチの若葉、朝顔や萩、湯河原から取り寄せた寒椿が花を咲かせる小庭の眺めは藤村の心の慰めで、この家を「靜の草屋」と呼んでいた。また簡素を信条とする藤村の気配りが今も感じられる。
《島崎藤村(1872~1943)》
1872年信州木曽の馬籠村(現・岐阜県中津川市)に生まれる。 ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。『落梅集』の一節にある『椰子の実』や『千曲川旅情の歌』は歌としても親しまれている。
《最期の日 昭和18年8月21日》
朝9時半頃、藤村は廊下に立って庭を眺めながら静子夫人に 「まだあすこを書いているんだよ、しかしこんどは思うように出たと思うがね、あすこが出来てしまえば、あとは雑作ない、和助が東京を立つだけだから…一寸今、読んで見てもらおうか。」
「原稿を読んでしまったら、きょうはお菓子をつくってくれ。」
茶の間で静子婦人が茶棚をうしろに机に向かい、藤村が机をはさんで端座して聞いている。
「青山半蔵には、中世の否定ということがあった…」その行から三四行読んだ頃、
「ひどい頭痛だ」と藤村の小さな声。藤村は茶棚にある常備薬を取りに行くが、静子夫人に倒れかかった。
「どうしたんだろうね。」いつも通りの静かな藤村の声。
「気分もよくなってきた、頭痛もしないよ…眼まいはちっともしない…涙を拭いて…」
「原稿が間に合うかね、そう 50 枚あるし…あそこで第三章の骨は出ているしね…」 東の方の庭に眼をやってじっと見ているかと思うと、
「涼しい風だね」 庭から眼を離さず気もちよさそうに涼風の過ぎるのを感じているようです。もう一度
「涼しい風だね」と……。
そのまま深い昏睡、意識はかえらず、翌22日午前0時35分に大磯の地で永眠。
『東方の門』は「和尚が耳にした狭い範囲だけでも」までで遂に未完で終わりました。
町屋園は藤村亡き後静子夫人が住んでいましたが、終戦間近の切迫した状況により箱根に疎開しました。
町屋園が空家になってしまうことから昭和 24 年から高田保が住み始め、著作の『ブラリひょうたん』は大部分が町屋園で書かれました。
高田保は昭和27年にこの町屋園、藤村邸で没しました。その後静子夫人が昭和48年に亡くなるまでお住まいになりました。
(以上、HPより)
外壁のつくり 庭
離れ。
また東海道に戻って西に向かいます。
「上方見附」跡。
バス停「統監道」。
この付近にあって、大磯宿の西のはずれになっていた。
「大磯中学校」の前から見事な松並木が続きます。
「東海道松並木」。
解説板。
【東海道の松並木】
江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。
松並木は、今から約400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主により保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられてきたものです。
この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産です。
【小陶綾(こゆるぎ)ノ浜】
『ゆるぎ』とは波の動揺をあらわし、かつては余呂伎、余綾(よろぎ)と書かれ、今の大磯町と二宮町は相模国余綾郡(よろぎごうり)と呼ばれていました。
万葉集には、『相模道の余呂伎の浜の真砂なす児らはかなしく思はるゝかも』とよまれています。
平安時代の古今和歌集には『こよろぎ』とよまれていましたが、その後の歌集には『こゆるぎ』とよまれました。
歌枕の小余綾ノ磯は、今の大磯から国府津あたりまでの海岸一帯をさすといわれています。
環境庁・神奈川県
「こゆるぎの浜」への案内板に誘われて向かったが、「西湘バイパス」を地下道でくぐったその先だったので、断念。
見事な景観。道路は車が激しく行き来しているが・・・。
松涛庵。お蕎麦屋さん、ここでお昼のお蕎麦。
植樹してあるクロマツの中で一番背が高い松。高さ25㍍、樹齢150年。
一方で、枯れてしまった古木。
この切り株は、1994(平成6)年11月、樹齢217年で松の天敵のマツクイムシにやられてしまったそうです。
松並木も終わって、ひたすら東海道(国道1号線)を西に向かう。
「日本橋から69㎞」との標識。
「伊藤公滄浪閣之旧蹟」。
今は、結婚式場と中華料理の大磯プリンスホテル別館滄浪閣としてあるが、元々は伊藤博文の居宅。
さて、しばらくは国道1号線をひたすら歩きます。
「関東ふれあいの道―大磯高麗山コース―」。
かつて、職場のOBたちと「湘南平」に行ったことを思い出した。
「切通し橋」(この下に流れる川の名は「血洗川」というおどろどろしい名前)を越え、「城山公園前」という三叉路を右に上って「大磯城山公園」方向に向かう道が旧街道。
「県立大磯城山公園」。
「旧島崎藤村邸」。
東海道から「案内」にしたがって路地を入って行く。
前の緑地にある案内板。
大磯駅より東海道線路沿いに徒歩 5 分。町屋園と呼ばれた藤村の旧宅は、三間の平屋建ての民家 で外壁には杉の皮、引き戸には大正ガラス ( 現在は希少 ) が使われている。小さい素朴な冠木門に割竹垣に囲まれた小庭。 カナメやモチの若葉、朝顔や萩、湯河原から取り寄せた寒椿が花を咲かせる小庭の眺めは藤村の心の慰めで、この家を「靜の草屋」と呼んでいた。また簡素を信条とする藤村の気配りが今も感じられる。
《島崎藤村(1872~1943)》
1872年信州木曽の馬籠村(現・岐阜県中津川市)に生まれる。 ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。『落梅集』の一節にある『椰子の実』や『千曲川旅情の歌』は歌としても親しまれている。
《最期の日 昭和18年8月21日》
朝9時半頃、藤村は廊下に立って庭を眺めながら静子夫人に 「まだあすこを書いているんだよ、しかしこんどは思うように出たと思うがね、あすこが出来てしまえば、あとは雑作ない、和助が東京を立つだけだから…一寸今、読んで見てもらおうか。」
「原稿を読んでしまったら、きょうはお菓子をつくってくれ。」
茶の間で静子婦人が茶棚をうしろに机に向かい、藤村が机をはさんで端座して聞いている。
「青山半蔵には、中世の否定ということがあった…」その行から三四行読んだ頃、
「ひどい頭痛だ」と藤村の小さな声。藤村は茶棚にある常備薬を取りに行くが、静子夫人に倒れかかった。
「どうしたんだろうね。」いつも通りの静かな藤村の声。
「気分もよくなってきた、頭痛もしないよ…眼まいはちっともしない…涙を拭いて…」
「原稿が間に合うかね、そう 50 枚あるし…あそこで第三章の骨は出ているしね…」 東の方の庭に眼をやってじっと見ているかと思うと、
「涼しい風だね」 庭から眼を離さず気もちよさそうに涼風の過ぎるのを感じているようです。もう一度
「涼しい風だね」と……。
そのまま深い昏睡、意識はかえらず、翌22日午前0時35分に大磯の地で永眠。
『東方の門』は「和尚が耳にした狭い範囲だけでも」までで遂に未完で終わりました。
町屋園は藤村亡き後静子夫人が住んでいましたが、終戦間近の切迫した状況により箱根に疎開しました。
町屋園が空家になってしまうことから昭和 24 年から高田保が住み始め、著作の『ブラリひょうたん』は大部分が町屋園で書かれました。
高田保は昭和27年にこの町屋園、藤村邸で没しました。その後静子夫人が昭和48年に亡くなるまでお住まいになりました。
(以上、HPより)
外壁のつくり 庭
離れ。
また東海道に戻って西に向かいます。
「上方見附」跡。
バス停「統監道」。
この付近にあって、大磯宿の西のはずれになっていた。
「大磯中学校」の前から見事な松並木が続きます。
「東海道松並木」。
解説板。
【東海道の松並木】
江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。
松並木は、今から約400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主により保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、立枯れしたものは村々ごとに植継がれ大切に育てられてきたものです。
この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産です。
【小陶綾(こゆるぎ)ノ浜】
『ゆるぎ』とは波の動揺をあらわし、かつては余呂伎、余綾(よろぎ)と書かれ、今の大磯町と二宮町は相模国余綾郡(よろぎごうり)と呼ばれていました。
万葉集には、『相模道の余呂伎の浜の真砂なす児らはかなしく思はるゝかも』とよまれています。
平安時代の古今和歌集には『こよろぎ』とよまれていましたが、その後の歌集には『こゆるぎ』とよまれました。
歌枕の小余綾ノ磯は、今の大磯から国府津あたりまでの海岸一帯をさすといわれています。
環境庁・神奈川県
「こゆるぎの浜」への案内板に誘われて向かったが、「西湘バイパス」を地下道でくぐったその先だったので、断念。
見事な景観。道路は車が激しく行き来しているが・・・。
松涛庵。お蕎麦屋さん、ここでお昼のお蕎麦。
植樹してあるクロマツの中で一番背が高い松。高さ25㍍、樹齢150年。
一方で、枯れてしまった古木。
この切り株は、1994(平成6)年11月、樹齢217年で松の天敵のマツクイムシにやられてしまったそうです。
松並木も終わって、ひたすら東海道(国道1号線)を西に向かう。
「日本橋から69㎞」との標識。
「伊藤公滄浪閣之旧蹟」。
今は、結婚式場と中華料理の大磯プリンスホテル別館滄浪閣としてあるが、元々は伊藤博文の居宅。
さて、しばらくは国道1号線をひたすら歩きます。
「関東ふれあいの道―大磯高麗山コース―」。
かつて、職場のOBたちと「湘南平」に行ったことを思い出した。
「切通し橋」(この下に流れる川の名は「血洗川」というおどろどろしい名前)を越え、「城山公園前」という三叉路を右に上って「大磯城山公園」方向に向かう道が旧街道。
「県立大磯城山公園」。