おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「国府津」駅。小八幡一里塚。酒匂宿・旧川辺本陣跡。・・・(二宮から小田原まで。その2。)

2014-10-12 21:11:29 | 旧東海道

 
 路傍には、「道祖神」がいくつも置かれている。男女一対のものや表面がすっかりかすれてわかりにくいものなど旧街道筋らしい雰囲気。

77㎞ポスト。

 
 この森の向こうにJR「国府津」駅がある。

「一夜城まつり」のポスター。

 ※「一夜城」(石垣山一夜城歴史公園)

 石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
 この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。
  秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。
 この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されています。
 この地は国立公園区域および国指定史跡に指定されています。(以上、「小田原市」公式HPより)

 小田原城の西南約3㎞、JR「早川」駅から徒歩40分くらいのところに位置する城跡公園。興味深いところですが。簡単には行けそうにもない!

「一夜城」から小田原城を望む(「Wikipedia」より)。

78㎞ポスト。

「国府津駅」。
「丹那トンネル」(熱海~三島)が開通する以前、「東海道本線」の中心的駅として賑わっていた。当時は、小田原市街、熱海には通らず、箱根山を迂回し、「御殿場」を通って沼津へ抜けていた。現在は、「御殿場線」としてローカルな味わいを残す鉄道線として存在。

 《歴史》

 1887(明治20)年、初代横浜駅(1915年以降は桜木町駅)から当駅までの鉄道路線の開通に伴い、国府津駅が開業。
 その2年後の1889年には当駅から御殿場駅・沼津駅を経て静岡駅までが開通したが、国府津駅から御殿場駅までの区間は勾配がきついため、列車を後押しする機関車を連結することとなり、当駅は機関車の基地として重要な役割を有することとなった。
 1888年には、駅前から小田原・湯本までを結ぶ小田原馬車鉄道も発着するようになったが、後に小田原電気鉄道と社名を改め、1900年には日本で4番目の電気鉄道(路面電車)となった。1925年には、横浜駅から当駅までが電化され、電気機関車と蒸気機関車を付け替える駅としての役割も担うようになる。
 しかし、御殿場回りのルートは勾配がきついため、速度向上のネックとなっており、また、トンネル掘削技術が向上したことにより、熱海を経由する新しい路線を建設しようとの機運が高まった。まず、1920年に熱海線として当駅から小田原駅までが開業。これに伴い小田原電気鉄道線は廃止された。熱海線はその後、1922年には真鶴駅まで、1924年には湯河原駅まで、1925年には熱海駅までと次々に延伸が重ねられた。
 1934(昭和9)年12月に丹那トンネルが完成し熱海 - 沼津間が開通、これを機に新線と熱海線が東海道本線に編入され、東海道本線は御殿場駅経由から熱海駅経由に変更された。
 国府津 - 沼津間全通までは、「つばめ」や「さくら」といった当時最速とされた列車でさえも機関車連結のために停車していたが、東海道本線のルートが熱海経由になったことにより当駅は本線の後押し機関車の連結駅としての役割を終え、また新ルートは当初から電化されていたため機関車を付け替える駅としての役割をも終えることとなった。
 国府津 - 御殿場 - 沼津のルートはこの時に御殿場線として分離され、1943年には戦時中の金属供出により単線となった。以後、国府津駅は東海道本線から御殿場線の分岐する小さな接続駅としての役割のみを持つ駅となった。

「国府津駅開業100周年記念碑」。

「周辺案内図」。

「寄りあい処こうづ」。
 二階は、「小田原鉄道歴史研究会 国府津鉄道資料室」。のぞいてみたかったが、閉館中でした。う~ん! 残念!
 帰宅してホームページを開くと、興味深いことが盛りだくさんでした。イベントの機会があれば、ぜひ来よう!



  
                            「相模湾」。
 目の前には海が広がっているはずなのに、建物のため見えず。「東海道」沿いの駅入り口正面にあるマンションの駐車場に入ってパチリ。

 街道筋のところどころには、レトロな雰囲気の建物が残っています。

  
 正面奥。                            正面中央。

街道筋らしい家屋が並んでいる。
 
  
 「うなぎ」の看板。        その奥にある新店舗。

 「国府津」の街は、建物など見所がまだまだありそうですが、先を急ぎます。

「親木橋」から海岸を望む。

「西湘バイパス」国府津IC。

「歩道橋」から遠く富士山を望む。

マンホールの絵柄。「酒匂川」を渡るようすが描かれている。

「沼津46㎞ 箱根12㎞」。

 
 松の古木が見えてくると、その先に「一里塚」跡の碑。

「小八幡一里塚」跡。江戸から19番目の一里塚。

 ・・・小八幡の一里塚について天保年間の相模国風土記稿に「東海道中の東にあり、左右相対せり。高二間 舗六七間、塚上に松樹あり、上は小田原宿入口一里塚、下は淘綾郡山西村小字梅沢の一里塚に続けり」とある。・・・

バス停名も「一里塚」。

 しばらく行くと、松並木が現れます。
  
        
       

             神奈川県内でこうしてまとまった松並木はこれが見納めに。

 しばらく進むと、大変立派な門構えが見えてきます。


 鎌倉時代の宿、酒匂宿に建てられた「旧川辺本陣」(建物は江戸時代後期のもの)。現在は、社会福祉法人ゆりかご園(児童養護施設)。

(「・著者:新村 衣里子 」HP参照より)
  
 特に史跡等の指定はなく、江戸時代の宿場でもないため、説明板もなさそう。ただ、上記では、ここを舞台にした、なかなか義経と頼朝との興味深い関係が描かれています。 

振り返って望む。
 左側の緑のところが「旧川辺本陣」跡。

 いつしか81㎞ポスト。

 「連歌橋」を越えていよいよ「酒匂川」にさしかかります。そろそろ正午をだいぶん回った時分ですが。
 
 
 ところで、「連歌橋」という風流な名前がついた由来を知りたいものです。かの連歌師・宗祇に関わりがあるのか、それとも?
コメント
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