おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

本郷菊富士ホテル。かねやす。油坂。建部坂。・・・(本郷の坂。その3。)

2014-10-21 22:38:01 | 都内の坂めぐり

 「菊坂」を左に折れ、「本妙寺坂」の途中にあるマンション「プラウド本郷」の正面玄関には、本郷にゆかりの「文人」の名前と句が刻まれています。
 
蔵のうちに はるかくれ行 ころもがえ  一葉    生きのびて 又夏草の 目に沁みる 秋声

「近代文学発祥の地 本郷 近隣に住んだ人々」

樋口一葉 石川啄木 坪内逍遙 徳田秋声 宮沢賢治 二葉亭四迷 竹久夢二 大杉 栄 谷崎潤一郎 直木三十五 宇野浩二
広津和郎 伊藤野枝 高田 保 宇野千代 尾崎士郎 宮本百合子 石川 淳 月形竜之介 坂口安吾 他

「坂」を左に曲がった、奥の突きあたり。

  
                      「本郷菊富士ホテルの跡」碑。

 宇野浩二・宇野千代・尾崎士郎・直木三十五・広津和郎・竹久夢二・谷崎潤一郎・宮本百合子・坂口安吾・大杉栄・伊藤野枝…、菊富士ホテルに止宿した錚々たる顔ぶれです。菊富士ホテルは、明治29年より下宿・菊富士楼を経営していた岐阜県大垣出身の羽根田幸之助・菊江夫妻が、大正3年、菊富士楼隣地に開業したものです。同年開催の東京博覧会に訪れる客をあてこんでの経営でしたが、次第に文人たちの集まる宿となり、さまざまなドラマが繰り広げられる舞台となりました。建物は戦災を受け焼失、跡地には昭和52年、羽根田家により止宿者の名を刻む石碑が建立されました。
(「」HPより)

 「菊坂」に戻り、「本郷通り」へ向かいます。
  
東南(本郷通り)方向。                    西北(歩いてきた)方向。

「本郷通り」。中央奥の右に「赤門」。

 この通りは、現在の「春日通り」を境にして、「見返り坂」「見送り坂」と呼ばれていました。

「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・太田道灌(1432~86)の頃在任など此所よりおひはなせしかは、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
 この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた、『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
 江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。・・・

 その交差点の南西角にあるのが「かねやす小間物店」。日用雑貨を扱うお店。休業日のようで、シャッターが閉まっていました。

  
                      「本郷もかねやすまでが江戸の内」。

かねやす

 兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、 乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった(御府内備考による。)。
享保15年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は、 塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ、瓦で葺くことを許した。 江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、 それからの中仙(中山)道は板や茅葺の家が続いた。
 その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。
 「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」 と古川柳に歌われた由縁であろう。
 芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。 時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。 それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。
     文京区教育委員会 昭和61年3月

「本郷通り」を南に向かう。

 「壱岐坂上」の交差点を右に曲がり、一本目を左に曲がります。

「東京都水道歴史館」。

  

 その脇の坂道を南下すると、左右に「順天堂大学」校舎に出ます。この日は、記念行事があるようで、関係者がたくさん警備・誘導に当たっていました。

「油坂」。

油坂(揚場坂)

 この坂は、油坂または揚場坂と呼ばれている。坂の左側は本郷給水所公苑である。『油坂、元町1丁目と東竹町辺の間を南に下る坂あり、油坂と呼ぶ』(新撰東京名所図会)とあるが、その名の起りは不明である。
 この坂は別名『揚場坂』といわれているが、その意味は神田川の堀端に舟をつけて、荷物の揚げおろしをするため、町内地主方が、お上に願って場所を借りた荷あげ場であった。この荷揚場所に通ずる坂位置を揚場坂道と呼んだのがのちに『揚場坂』と言われるようになった。
 『揚場坂と申し、里俗に近辺には無御座候得共、町内、持揚場御茶ノ水河岸内に有之候に付、右揚場坂道を他所の者、揚場坂と唱候儀も有之趣に御座候』(御府内備考より)
    文京区教育委員会 昭和62年3月

北方向を望む。

 すぐ西側にある坂。
「富士見坂」。といっても、全く富士山は見えない。外堀通り(お茶の水坂)を望む。 

  
 「建部坂(初音坂)」。もう一つ西側にある坂。右の公園は、「元町公園」。(「関東大震災」での復興を意図した)「震災復興52小公園」のうちの一つで、原型に近い形で復元された。
 すでに当blogで一連の「震災復興小公園」52ヶ所を紹介済み。

建部坂(初音坂)

 『新撰東京江戸名所図会』に「富士見坂の北(注・西)にある坂を建部坂といふ。幕士建部氏の邸地あり因て此名に呼び做せり」とある。嘉永3年(1850)の『江戸切絵図』で近江屋板を見ると、建部坂の上り口西側一帯(現在の元町公園)に建部氏の屋敷が見える。直参、千四百石で、八百八十坪(約2900㎡)であった。
 『御府内備考』に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋舗は、河岸通りまであり、河岸の方はがけになっている。がけ上は庭で土地が高く、見晴らしが良い。がけ一帯にやぶが茂り、年々鶯の初音早く、年によっては十二月の内でも鳴くので、自然と初音の森といわれるようになった。明和9年(1772)丸山菊坂より出火の節、やぶが焼けてしまったが、今でも初音の森といっている。初音の森の近くで、一名初音坂ともいわれた。
    文京区教育委員会 平成14年3月

「元町公園」正面。

 前の通り「外堀通り」の坂が「お茶の水坂」。順天堂大からは「水道橋」(「白山通り」)までの下り坂。

二連式のすべり台。

隣接して建てられた旧「元町小」校舎。この校舎も「震災復興校舎」の一つ。

 昨年の今頃、このblogで掲載したとき、この一帯の再開発(旧校舎を取り壊して総合体育館を建設する?)計画が持ち上がっていました。その後、どうなっているのでしょうか? 公園自体には手を加えないようですが。
コメント
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