おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

清水坂。妻恋坂。立爪坂。三組坂。ガイ坂。実盛坂。・・・(湯島の坂。その2。)

2014-10-29 20:31:15 | 都内の坂めぐり

 この界隈は、本郷台地の東南のはずれ付近。どこを歩いても坂道に出くわします。
 「傘谷坂」を下って上り、坂上を右折してしばらく進んで右折すると、「清水坂」。「妻恋神社」の西側の坂。

  

清水坂

 江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。
 この霊山寺の敷地は、妻恋坂から神田神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永6年(1853)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になって、その敷地は清水精機会社の所有となった。
 大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。
 そこで、町の人が、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。

 文京区教育委員会   平成11年3月


1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
 赤い○一帯が上記の敷地跡と思われる。右上の「妻恋神社」で途切れていた道が、敷地内を南下してお茶の水方面と結ばれた。

 「妻恋神社」の南側にある坂が、「妻恋坂」。特に標識は見当たりませんでした。

 別名を多く持つ坂であったようだが、坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657年)後に浅草に移り、坂の北側に「妻恋神社(妻恋稲荷)」が旧湯島天神町から移ってきてからである、ということらしい。

 現在、「新妻恋坂」と命名されているのが、「蔵前橋通り」の坂。

 妻恋坂の中程を左に曲がったところにあるのが、「立爪坂」。

  
上部と下部が石段になっている。               上から見下ろしたもの。
右は崖下になる。

 「立爪坂」は、『江戸と東京の坂』(山野勝)によると、「昔は、爪先を立てなければ上れないほどの急坂だった」とある。現在は、上部の石段はともかく、それほどきつい坂ではない。

 この坂を上り、「東都文京病院」(旧「東京日立病院」2014年4月1日付け)の脇を通り、小さな石段を下りると、広い道にでます。

  



三組坂

 元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間(ちゅうげん)、小人(こびと)、駕籠方(かごかた)の「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。
 その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を三組町と改めた。
 この町内の坂であるところから「三組坂」と名づけられた。
 元禄以来、呼びなれた三組町は、昭和40(1965)4月以降、今の湯島三丁目となった。

  文京区教育委員会   平成19年3月

 「三組坂」の中程から北へ向かう坂が「ガイ坂」。


「三組坂」の東側から見ると、「ガイ坂」は右に折れる。

「ガイ坂」。

ガイ坂 
  三組坂の中腹を北に、実盛坂の下の方へ下る坂である。
 『江戸切絵図』(嘉永六年・尾張屋清七板)には、立爪坂の北、三組の御家人衆の拝領地内(三組町)に「ガイサカ」と記されている。ガイは芥の濁音である。
「ぶんきょうの坂道」(東京都文京区教育委員会社会教育課編、発行、昭和55年7月1日第二刷)より。
(「http://saka.30maps.com/」HPより)

 「ガイ」とは芥(ごみ)のこと。「立爪坂」と同様に、ここにもごみ捨て場があったようですが、実際に歩いたようすでは、地形的に「東都文京病院」付近(東)の崖地辺りがこんな名称にふさわしい印象です。上記の説明からもうかがわれます。ことによると、当時の坂と異なっているのではないか。



←に「芥坂」とある。位置関係から、現「立爪坂」と思われる。地図上で破線が現在の文京区と千代田区の区界。

 「ガイ坂」を進むと、左手奥に急な石段があります。



  
下から仰ぎ見る。                     上から見下ろす。
 けっこう急な石段であることがよくわかる。

実盛坂

 「江戸志」によれば「・・・湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説めいた話が「江戸砂子」や「改撰江戸志」にのっている。この実盛のいわれから、坂の名がついた。
 実盛とは長井斎藤別当実盛のことで、武蔵国に長井庄(現・埼玉県大里郡妻沼町)を構え、平家方に味方した。寿永2年(1183)、源氏の木曽義仲と加賀の国篠原(現・石川県加賀市)の合戦で勇ましく戦い、手塚太郎光盛に討たれた。
 斎藤別当実盛は出陣に際して、敵に首をとられても見苦しくないようにと、白髪を黒く染めていたという。この話は「平家物語」や「源平盛衰記」に詳しく記されている。
 湯島の‘実盛塚’や‘首洗いの井戸’の伝説は、実盛の心意気にうたれた土地の人々が、実盛を偲び、伝承として伝えていったものと思われる。

    文京区教育委員会    平成14年3月

                     
コメント
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