このあいだ、台風が来る前にでかけました。平塚・花水橋からスタート。高麗山が印象的。JR「平塚」~「二宮」。
「平成の一里塚」。橋のたもとに設置されている。あちこち作られているわけでなく、ここだけの感じ。紛らわしくなってしまいそうだが、そういえば「茅ヶ崎」にもありました。ただし、もともとあった一里塚跡のほぼ反対側の交差点に。
左手の山が「高麗山」。その山麓にあるのが「高来神社」。明治の廃仏毀釈で神社として成立。音では「こうらい」だが、読みは「たかく」と。
日本橋から66㎞。
国道1号沿いに残された藁葺き屋根の家。
小さなお堂。「虚空蔵」。
説明板によると、虚空蔵のお堂があり(現存)、ここに下馬標が立っていて、大名行列もここで下馬し東照権現の併祀された高麗寺(神仏混淆の頃)に最敬礼して静かに寺領内を通った、という。
また「御料傍示杭」があり、高麗寺村と大磯宿との境を示す高さ約三㍍の杭があったらしい。
右に入る道が「化粧(けわい)坂」。こちらが、旧東海道。
「化粧坂」の両側は、静かな住宅地で、生活道路になっている。車の行き来の激しい1号線とは大違い。
まもなく左側に「化粧井戸」。
「説明板」
「化粧」については、高来神社との関係も考えられるが、伝説によると鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。当時の大磯の代表的女性「虎御前」もこの近くに住み、朝な夕なこの井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたといわれている。
「一里塚」跡。
江戸日本橋より十六里。海側に榎を山側にせんだんを植えた、という。
海側(左手」が小高くなっていたので、行ってみたが特になし。そこから街道を見おろす。
「安藤広重・東海道五拾三次之内・大磯『虎ケ雨』」。
説明板。
本図は初代歌川広重が天保4年(1883)頃に制作した浮世絵『東海道五三次大磯虎が雨』です。
空は鼠色に曇って秋雨が降る仲、大磯宿堺の榜示杭が建つ入口近くを合羽を被って馬ので行く旅人や野良仕事帰りのお百姓さん、傘を差した町人など、街道も濡れて寂げです。 画面左の稲作を杭掛けして干している田んぼの先は海岸とで磯の松、その向こうに広がる相模灘。
水平線近くの沖合が白く明るく見えるのも、海岸でよく見る風景です。
大磯の海岸は、「万葉集」にも詠われた「よろぎの浜」、「古今集」でも、「こゆるぎの磯」とよばれる歌枕の景勝地です。また、この辺りは鴫立浜とも呼ばれ、西行法師の歌「心なき身にもあはれは知られけり鴫立浜の秋の夕暮」は「三夕の和歌」の一つとして有名です。
また、大磯は歌舞伎で正月の吉例狂言といわれる、曾我十郎と大磯の廓の遊女・虎(虎御前)が、仇討のため二人が別れ、仇討ちの果てに陰暦五月二十八日、曾我十郎が命を落とした悲恋物語の曾我之狂言でよく知られ、虎御前の流した涙が雨になったといい、そこから梅雨時のしとしとと降る雨を「虎ヶ雨」とも呼ばれます。いうのである。このお話の真偽は不明ですが、この土地に由縁する伝説の情趣でしょう。
画題横に『虎が雨」とあるように、そぼ降る雨を涙雨に見立てています。
大磯では5月28日に虎御前の涙雨が降ると云われているそうだ。
子供の頃、曾我兄弟の仇討ちの話はよく見たり聞いたりしたことがありました。富士の裾野巻き狩りの場面など、絵本のようにしてあった・・・。
今の若者は知らないでしょうね。
曾我兄弟の仇討ち
建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていたことが窺える。
所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されている。
祐泰の妻の満江御前(満行とも。なお『吾妻鑑』にも『曽我物語』にも名は表記されていない)とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。兄弟は雁の群れに亡き父を慕ったと伝えられる。
その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。
祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。
文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。
箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。
建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれた。弟の時致は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。
翌5月29日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡す。時致は従容と斬られた。
この事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ範頼は伊豆修善寺に幽閉され、のちに自害したと伝えられている。
工藤祐経を討った後で、曾我兄弟は頼朝の宿所を襲おうとしており、謎であるとされてきた。そこで、兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした暗殺未遂事件でもあったという説がある。
この事件は後に『曽我物語』としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得た。(以上、「Wikipedia」より)
「大磯八景の一 化粧坂の夜雨〕の碑。
雨の夜は 静けかりけり 化粧坂 松の雫の 音ばかりして 敬之
《大磯八景》
大磯八景は、明治40年頃、大磯町第5代町長・宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書として出版したのが始まりです。
その後、大正12年に大磯小学校第二代校長・朝倉敬之が自作の歌を刻んだ記念碑をそれぞれ八景の位置に建立しました。
現在は、「小淘綾(こよろぎ)の春嵐」を除く「高麗寺の晩鐘」「花水橋の夕照」「唐ヶ原(もろこしがはら)の落雁」「化粧坂の夜雨」「鴨立沢の秋月」「照ヶ崎の帰帆」「富士山の暮雪」の7景が現地に残っています。「歴史と緑の散歩路パンフレットより」
化粧坂を振り返る。
小休止。
東海道線をくぐります。
「大磯江戸見付跡」「御料傍示杭」。
ここが、江戸方の宿入口となっていた。石垣(高さ約1.6m)の上に竹矢来を組む。「御料傍示杭」は、大磯宿北組のはずれを示すもの。
松並木が地域とマッチしてすばらしい。