街道沿いにあった魚屋さん。新鮮な魚介類、地元産の新鮮な魚介類の名前が張り紙で。
いさき、天然いなだ、天然かんぱち、真いわし(以上には、「小田原産」と表示)、近海 ほうぼう、真さば、・・・
「酒匂(さかわ)川」は河口を望む。
この辺りは、川幅が広く、中瀬も点在していた。徒歩で渡ることも不可能ではなかったか。
ところが現実はそう甘くはない。
「江戸時代、小田原を流れる酒匂川には橋がなかった。旅人は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければならなかった。雨が降り続き、水深が胸あたりになると、川留めとなった。川留めは、旅を急ぐ人々にとって大変な難儀であった。東海道を上方へ向かう旅人は、酒匂川が川留めとなると、付近の農家を借りたり、野宿して川明けを待ちわびた。」
(岩崎宗純)
小田原に行くには、手前に描かれた酒匂川を渡らなければならない。幕府が架橋や渡し舟を認めなかったので、旅人が輦台(れんだい。板に棒二本をつけて四人で担ぐもの)に乗ったり、人夫に肩車されたり、徒歩などで夕暮れに近い川を渡っていく様子が描かれている。遠景には小田原城や箱根山系が描かれている。箱根山系は逆光を受け、色彩や線などで険しさが表現されている。
(「」HPより)。
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
現代の橋よりもう少し上流、「連歌橋」からほぼ直線上に橋(中瀬を挟んで架けられていた)があった。
大正期の小田原「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より(「知足美術館」HP)
ほぼ同じところの1970年頃のようす(「同」より)。橋の位置が少し下流になり、より西南の方向になっている。
「酒匂橋」のたもとにある食事処で昼食。
すぐ目の前の土手沿いに「酒匂川の渡し」碑。
酒匂川の渡し
酒匂川の渡しは、東海道五十三次道中の難所の一つで、古くは船渡しが行われていたが、延宝二年(1669 注:「1674」の誤り)船渡しが禁止されて徒渉(かちわたり)制が施行され、冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが、夏の時期は夏川と称し橋を架けないので必ず手引・肩車・輦台(れんだい)など有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。この制度は明治四年(1871)に廃止された。
対岸を望む。遠くに箱根連山。
遠くに富士山(↓)。
「酒匂橋」からの酒匂川上流。
「酒匂川の渡し」碑がある東岸を望む。
旧東海道とおぼしき道。「八幡神社」(新田義貞の祠がある)脇。 (ガソリンスタンド脇)。
82㎞ポスト。
そのまま「1号線」を渡り、「小田原ビジネス高校」脇の道に入ります。ほんのわずかな区間・カギ型の部分が旧東海道。
「案内図」に従って行くと、住宅地の一角に「新田義貞の首塚」があります。
「新田義貞の首塚」
建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。
義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。
すぐに1号線に合流して歩を進め、「山王橋」を過ぎると、「東海道 小田原宿」の標柱。
まもなく「山王口」。
「文部省指定史跡 小田原城址江戸口見附跡」。(右手)
「案内板」。
大正時代のようす(西方)。 現在のようす(東方)。
江戸の昔から幅の広い道路だったようです。左の写真(大正時代)には、路面電車の軌道が写っています。廃線「鉄」ちゃんには興味津々。
道路を挟んで反対側(左手)には、「江戸口見附並一里塚址」碑。
ここが江戸・日本橋から20番目の一里塚。
・・・天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高6尺5寸幅5間ばかり、塚上榎樹ありしが中古槁(か)れ、今は松の小樹植ゆ、古は双堠なりしに隻堠となれり、けだし海辺の革(あらた)まりし頃、一堠は海中に入りしならん、これより東は小八幡村、西は風祭り村の里堠に続けり」とされている。
しばらく進むと、「新宿」の交差点。旧道は左に折れ、しばらくして右に折れます。
江戸口見附付近の1880年頃のようす(「同」より)。
「山王橋」から城内に入ると広い道になった西付近が「江戸口見附跡」。。左下カギ型に曲がるところが「新宿」。中央、小田原城の土塁が残っている。
いさき、天然いなだ、天然かんぱち、真いわし(以上には、「小田原産」と表示)、近海 ほうぼう、真さば、・・・
「酒匂(さかわ)川」は河口を望む。
この辺りは、川幅が広く、中瀬も点在していた。徒歩で渡ることも不可能ではなかったか。
ところが現実はそう甘くはない。
「江戸時代、小田原を流れる酒匂川には橋がなかった。旅人は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければならなかった。雨が降り続き、水深が胸あたりになると、川留めとなった。川留めは、旅を急ぐ人々にとって大変な難儀であった。東海道を上方へ向かう旅人は、酒匂川が川留めとなると、付近の農家を借りたり、野宿して川明けを待ちわびた。」
(岩崎宗純)
小田原に行くには、手前に描かれた酒匂川を渡らなければならない。幕府が架橋や渡し舟を認めなかったので、旅人が輦台(れんだい。板に棒二本をつけて四人で担ぐもの)に乗ったり、人夫に肩車されたり、徒歩などで夕暮れに近い川を渡っていく様子が描かれている。遠景には小田原城や箱根山系が描かれている。箱根山系は逆光を受け、色彩や線などで険しさが表現されている。
(「」HPより)。
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)
現代の橋よりもう少し上流、「連歌橋」からほぼ直線上に橋(中瀬を挟んで架けられていた)があった。
大正期の小田原「東海道(東海道五拾三次 広重と大正期の写真)」より(「知足美術館」HP)
ほぼ同じところの1970年頃のようす(「同」より)。橋の位置が少し下流になり、より西南の方向になっている。
「酒匂橋」のたもとにある食事処で昼食。
すぐ目の前の土手沿いに「酒匂川の渡し」碑。
酒匂川の渡し
酒匂川の渡しは、東海道五十三次道中の難所の一つで、古くは船渡しが行われていたが、延宝二年(1669 注:「1674」の誤り)船渡しが禁止されて徒渉(かちわたり)制が施行され、冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが、夏の時期は夏川と称し橋を架けないので必ず手引・肩車・輦台(れんだい)など有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。この制度は明治四年(1871)に廃止された。
対岸を望む。遠くに箱根連山。
遠くに富士山(↓)。
「酒匂橋」からの酒匂川上流。
「酒匂川の渡し」碑がある東岸を望む。
旧東海道とおぼしき道。「八幡神社」(新田義貞の祠がある)脇。 (ガソリンスタンド脇)。
82㎞ポスト。
そのまま「1号線」を渡り、「小田原ビジネス高校」脇の道に入ります。ほんのわずかな区間・カギ型の部分が旧東海道。
「案内図」に従って行くと、住宅地の一角に「新田義貞の首塚」があります。
「新田義貞の首塚」
建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、足利尊氏によってその首級を晒されていた。
義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。
すぐに1号線に合流して歩を進め、「山王橋」を過ぎると、「東海道 小田原宿」の標柱。
まもなく「山王口」。
「文部省指定史跡 小田原城址江戸口見附跡」。(右手)
「案内板」。
大正時代のようす(西方)。 現在のようす(東方)。
江戸の昔から幅の広い道路だったようです。左の写真(大正時代)には、路面電車の軌道が写っています。廃線「鉄」ちゃんには興味津々。
道路を挟んで反対側(左手)には、「江戸口見附並一里塚址」碑。
ここが江戸・日本橋から20番目の一里塚。
・・・天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高6尺5寸幅5間ばかり、塚上榎樹ありしが中古槁(か)れ、今は松の小樹植ゆ、古は双堠なりしに隻堠となれり、けだし海辺の革(あらた)まりし頃、一堠は海中に入りしならん、これより東は小八幡村、西は風祭り村の里堠に続けり」とされている。
しばらく進むと、「新宿」の交差点。旧道は左に折れ、しばらくして右に折れます。
江戸口見附付近の1880年頃のようす(「同」より)。
「山王橋」から城内に入ると広い道になった西付近が「江戸口見附跡」。。左下カギ型に曲がるところが「新宿」。中央、小田原城の土塁が残っている。