今回は、JR「お茶の水」駅で下車、「湯島」界隈を探索して、大江戸線「本郷三丁目」駅まで。13:50~15:50、 約2時間の行程。
相生坂
神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。
「東京案内」に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある、そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。
昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
これやこの孔子の聖堂あるからに
幾日湯島にい往きけむはや 法月歌客
文京区教育委員会 昭和53年3月
斯文会・斯文会館。 孔子像。世界一大きいらしい。
昌平坂
湯島聖堂と、東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂を、ひとしく「昌平坂」と読んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。
元禄7年(1694)9月、ここを訪ねた桂昌院(徳川五代将軍綱吉の生母)は、その時のことを次のような和歌に詠んだ。
万代の秋もかぎらじ諸ともに
もうでて祈る道ぞかしこし
文京区教育委員会 平成18年3月
「相生坂」を下り、「湯島聖堂」の角を左に曲がったところにある坂道。左側が湯島聖堂になる。そのまま進むと、
湯島坂(本郷通り=国道17号・中山道)。左側が「湯島聖堂」。
坂の右手には神田明神への入り口がある。
「地域案内図」。
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
湯島聖堂の構内に文部省、国立博物館(現在の東京国立博物館及び国立科学博物館)、東京師範学校(東京教育大学を経た現在の筑波大学)及びその附属学校、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)及びその附属学校が一時同居していたころのようす。
「神田明神」門前のお店。「←旧中山道」の表示も。門前の湯島坂を指すか?
しばらく西の方へ進みます。
東京医科歯科大学北門付近、「本郷通り」を右に折れます。
樹木谷坂
地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は、東京医科歯科大学の北側の裏門から、本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の路を北へ、新妻恋坂まで下る坂である、そして、新妻恋坂をはさんで、横見坂に対している。
「御府内備考」には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。尭恵法印の「北国紀行」のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・ならびに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵野の遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社の周辺のようすである。
徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷の名が生まれた。
地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
なお、湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎氏(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創設した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。
文京区教育委員会 平成10年3月
「蔵前橋通り(「新妻恋坂」)との角地にあるのが、「おりがみ会館」。
1858年(安政5年)
初代・小林幸助 創業(現在地)
襖師・表具師の腕を磨いた初代・幸助は、上野寛永寺の仕事などを手掛けた。和紙全般の加工技術を修得すると、新しく「染め紙業」として東京本郷の新しい土地(お花畑の由来から、新花町という)に工場(約150坪の土地に3階建て)を設けた。今の湯島1丁目である。落語家の故・桂文楽師匠も17歳の頃、初代・幸助(大根畑の幸助)の使用人として「染め紙」職人として席を置いていた事は、彼の自叙伝『あべらかべっそん』(昭和32年・青蛙房刊)に記されている。
「岩や絵の具」から「化学染料」による染色業開始。
戦時の赤紙、レコード版の中心に貼られたラベル等を染色。
1885年(明治18年)
文部省(学用品課)より折紙制作の依頼。
森有礼(初代文部大臣・もりありのり)は、合理的教育制度として英米に留学した経験を活かして幼稚園の創始者フレーベル(ドイツ1782~1852)の教育要領(恩物の一つ・折り紙)を参考に、畳紙(折り紙)を教育に採用。
※フレーベル (1782~1852年 ドイツ生まれ)
ベスタロッチ(近代教育の父)に師事し、遊具を考案。1840年世界最初の幼稚園を誕生させた。
《フレーベル20の恩物の中より》
第11 刺紙 第15 貼紙 第19 豆細工
第12 縫取 第16 織紙 第20 粘細工
第13 画き方 第17 組紙
第14 せん紙 第18 畳紙
1919年(大正8年):折紙の折り方の本が出版される。
《教科書に掲載された色《》
(紅、牡丹、ひわ、朽葉、藤、蒲、飴)
(以上、「」HP参照。)
150年以上の歴史と伝統を持つ専門店でした。
そのまま、「蔵前橋通り(「新妻恋坂)」を渡ると、「横見坂」。
坂の上から望む。右手に富士が見えた、という。
横見坂(横根坂)
『御府内備考』に
「右坂は町内より湯島三組町え上り候坂にて、当町並本郷新町家持に御座候・・・・・・里俗に横根坂と相唱申候」とある。
坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かって樹木谷といわれ、樹木が茂っていた、この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。
町の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を登るとき、富士を横見するところから、誰いうとなく横見坂と名づけられたといっている。
坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。ここに明治30年頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の教師として移って行った。
その作品『春』の中に、
「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。・・・・・・大根畠は麹の香のする町で」とある。ローム層の台地は、麹室(こうじむろ)には最適で『文政書状』には、百数十軒の麹屋が数えられている。
文京区教育委員会 昭和56年3月
「蔵前橋通り」と「本郷通り」とが合流する付近で右折します。
「傘谷坂」入口。
傘谷坂
傘谷をはさんで、向き合う二つの坂をいう。改選江戸志という書物によると、傘谷は、金助町(旧町名)の北の方にあって、傘づくりの職人が多く住んでいた窪地である。それで傘谷、傘坂の名がついた。
金助町に生まれた歌人・岡麓は、大正12年の大震災で家が焼け、その焼け跡で、
“あさはかに 家居移しし 悔心(くいごころ)
このやけあとに 立ちて嘆かゆ”
とよんだ。
文京区教育委員会 平成3年3月
この坂の途中にあるのが、「日本サッカーミュージアム」。
この通りを「サッカー通り」と呼んでいます。
「日本サッカーミュージアム」
日本サッカー協会が2002年FIFAワールドカップ日韓大会の開催を記念して2003年12月22日に開設した日本サッカー協会ビル(JFAハウス)に設けられたサッカーの展示施設。愛称は「11+(イレブンプラス)」、運営は公益財団法人日本サッカー協会。
施設は地上1階、地下1階、地下2階の3フロアーから成り立っている。
《地上1階 「アッパースタンド」》
2002年ワールドカップの試合の模様を大型映像装置「ヴァーチャルスタジアム」で再現する他、日本協会加盟各団体の関連情報を閲覧できる。また、かつて日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に所属していた横浜フリューゲルスのマスコット「とび丸」が展示されている。
《地下1階 「ロアースタンド」》
2002年ワールドカップに関連した写真や資料の展示、Jリーググッズ(フラッグスタウン)販売店など。また日本サッカー殿堂の表彰者のモニュメントも設置されており、その先にあるレファレンスルームではサッカーに関する蔵書を閲覧(有料・要予約)することができる。
《地下2階 「ピッチ」有料ゾーン》
日本サッカーがこれまでに経験した様々な歴史、あるいは2002年ワールドカップの関連資料などを展示している他、日本代表のロッカールームを再現したコーナーなどもある
だそうです。時代遅れでほとんど興味・関心のない小生は素通り。館内から生き生きとした少年達がユニフォーム姿で出てきました。
南側の坂の途中から、北へ上る坂を望む。
今回歩いた地域の1880年頃(明治13年)のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
現在の文京区と千代田区、台東区の区界付近となる地域で、探索は文京区内(右下が「千代田区」、右上が「台東区」)。
相生坂
神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。
「東京案内」に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある、そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。
昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
これやこの孔子の聖堂あるからに
幾日湯島にい往きけむはや 法月歌客
文京区教育委員会 昭和53年3月
斯文会・斯文会館。 孔子像。世界一大きいらしい。
昌平坂
湯島聖堂と、東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂を、ひとしく「昌平坂」と読んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。
元禄7年(1694)9月、ここを訪ねた桂昌院(徳川五代将軍綱吉の生母)は、その時のことを次のような和歌に詠んだ。
万代の秋もかぎらじ諸ともに
もうでて祈る道ぞかしこし
文京区教育委員会 平成18年3月
「相生坂」を下り、「湯島聖堂」の角を左に曲がったところにある坂道。左側が湯島聖堂になる。そのまま進むと、
湯島坂(本郷通り=国道17号・中山道)。左側が「湯島聖堂」。
坂の右手には神田明神への入り口がある。
「地域案内図」。
1880年頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
湯島聖堂の構内に文部省、国立博物館(現在の東京国立博物館及び国立科学博物館)、東京師範学校(東京教育大学を経た現在の筑波大学)及びその附属学校、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)及びその附属学校が一時同居していたころのようす。
「神田明神」門前のお店。「←旧中山道」の表示も。門前の湯島坂を指すか?
しばらく西の方へ進みます。
東京医科歯科大学北門付近、「本郷通り」を右に折れます。
樹木谷坂
地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は、東京医科歯科大学の北側の裏門から、本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の路を北へ、新妻恋坂まで下る坂である、そして、新妻恋坂をはさんで、横見坂に対している。
「御府内備考」には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。尭恵法印の「北国紀行」のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・ならびに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵野の遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社の周辺のようすである。
徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷の名が生まれた。
地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
なお、湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎氏(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創設した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。
文京区教育委員会 平成10年3月
「蔵前橋通り(「新妻恋坂」)との角地にあるのが、「おりがみ会館」。
1858年(安政5年)
初代・小林幸助 創業(現在地)
襖師・表具師の腕を磨いた初代・幸助は、上野寛永寺の仕事などを手掛けた。和紙全般の加工技術を修得すると、新しく「染め紙業」として東京本郷の新しい土地(お花畑の由来から、新花町という)に工場(約150坪の土地に3階建て)を設けた。今の湯島1丁目である。落語家の故・桂文楽師匠も17歳の頃、初代・幸助(大根畑の幸助)の使用人として「染め紙」職人として席を置いていた事は、彼の自叙伝『あべらかべっそん』(昭和32年・青蛙房刊)に記されている。
「岩や絵の具」から「化学染料」による染色業開始。
戦時の赤紙、レコード版の中心に貼られたラベル等を染色。
1885年(明治18年)
文部省(学用品課)より折紙制作の依頼。
森有礼(初代文部大臣・もりありのり)は、合理的教育制度として英米に留学した経験を活かして幼稚園の創始者フレーベル(ドイツ1782~1852)の教育要領(恩物の一つ・折り紙)を参考に、畳紙(折り紙)を教育に採用。
※フレーベル (1782~1852年 ドイツ生まれ)
ベスタロッチ(近代教育の父)に師事し、遊具を考案。1840年世界最初の幼稚園を誕生させた。
《フレーベル20の恩物の中より》
第11 刺紙 第15 貼紙 第19 豆細工
第12 縫取 第16 織紙 第20 粘細工
第13 画き方 第17 組紙
第14 せん紙 第18 畳紙
1919年(大正8年):折紙の折り方の本が出版される。
《教科書に掲載された色《》
(紅、牡丹、ひわ、朽葉、藤、蒲、飴)
(以上、「」HP参照。)
150年以上の歴史と伝統を持つ専門店でした。
そのまま、「蔵前橋通り(「新妻恋坂)」を渡ると、「横見坂」。
坂の上から望む。右手に富士が見えた、という。
横見坂(横根坂)
『御府内備考』に
「右坂は町内より湯島三組町え上り候坂にて、当町並本郷新町家持に御座候・・・・・・里俗に横根坂と相唱申候」とある。
坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かって樹木谷といわれ、樹木が茂っていた、この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。
町の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を登るとき、富士を横見するところから、誰いうとなく横見坂と名づけられたといっている。
坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。ここに明治30年頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の教師として移って行った。
その作品『春』の中に、
「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。・・・・・・大根畠は麹の香のする町で」とある。ローム層の台地は、麹室(こうじむろ)には最適で『文政書状』には、百数十軒の麹屋が数えられている。
文京区教育委員会 昭和56年3月
「蔵前橋通り」と「本郷通り」とが合流する付近で右折します。
「傘谷坂」入口。
傘谷坂
傘谷をはさんで、向き合う二つの坂をいう。改選江戸志という書物によると、傘谷は、金助町(旧町名)の北の方にあって、傘づくりの職人が多く住んでいた窪地である。それで傘谷、傘坂の名がついた。
金助町に生まれた歌人・岡麓は、大正12年の大震災で家が焼け、その焼け跡で、
“あさはかに 家居移しし 悔心(くいごころ)
このやけあとに 立ちて嘆かゆ”
とよんだ。
文京区教育委員会 平成3年3月
この坂の途中にあるのが、「日本サッカーミュージアム」。
この通りを「サッカー通り」と呼んでいます。
「日本サッカーミュージアム」
日本サッカー協会が2002年FIFAワールドカップ日韓大会の開催を記念して2003年12月22日に開設した日本サッカー協会ビル(JFAハウス)に設けられたサッカーの展示施設。愛称は「11+(イレブンプラス)」、運営は公益財団法人日本サッカー協会。
施設は地上1階、地下1階、地下2階の3フロアーから成り立っている。
《地上1階 「アッパースタンド」》
2002年ワールドカップの試合の模様を大型映像装置「ヴァーチャルスタジアム」で再現する他、日本協会加盟各団体の関連情報を閲覧できる。また、かつて日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に所属していた横浜フリューゲルスのマスコット「とび丸」が展示されている。
《地下1階 「ロアースタンド」》
2002年ワールドカップに関連した写真や資料の展示、Jリーググッズ(フラッグスタウン)販売店など。また日本サッカー殿堂の表彰者のモニュメントも設置されており、その先にあるレファレンスルームではサッカーに関する蔵書を閲覧(有料・要予約)することができる。
《地下2階 「ピッチ」有料ゾーン》
日本サッカーがこれまでに経験した様々な歴史、あるいは2002年ワールドカップの関連資料などを展示している他、日本代表のロッカールームを再現したコーナーなどもある
だそうです。時代遅れでほとんど興味・関心のない小生は素通り。館内から生き生きとした少年達がユニフォーム姿で出てきました。
南側の坂の途中から、北へ上る坂を望む。
今回歩いた地域の1880年頃(明治13年)のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。
現在の文京区と千代田区、台東区の区界付近となる地域で、探索は文京区内(右下が「千代田区」、右上が「台東区」)。