おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

今井坂(新坂)。三百坂。千川通り。吹上坂。播磨坂。・・・(春日・小石川の坂。その3。)

2014-10-26 14:20:54 | 都内の坂めぐり

 金富小学校の脇の坂を上って行きます。
  

今井坂(新坂)

『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺の西なり、案(あんずる)に此坂は新に開けし坂なればとてかかるなあるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711~16)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。
 今井坂の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。
 この坂の上、西側一帯は、現在「国際仏教大学院大学」になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年(1913)に没した。現在、その面影を残すものは、入り口に繁る大公孫樹のみである。
 この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈 迢空)
                (この町とは旧金富町をさす)
   文京区教育委員会   平成13年3月

上部付近から坂下を望む。

 左手の「国際仏教大学院大学」北東のはずれのところに、
「徳川慶喜終焉の地」碑。

 徳川幕府最後の将軍 徳川慶喜は、水戸徳川藩主斉昭(なりあき)の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現在の小石川後楽園一帯)で生まれた。
 その後、御三卿の一橋家の家督を継ぎ、ついで、幕末の動乱の中、長州攻めの陣中で没した第14代将軍家茂(いえもち)のあとを継ぎ、慶応2年(1866)第15代将軍となった。
翌、慶応3年大政奉還し、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に恭順(きょうじゅん)の意を表して水で謹慎、明治維新後、駿府(すんぷ)(静岡)に隠棲(いんせい)した。明治30年(1897)東京の巣鴨、さらに明治34年誕生地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
 慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大綬章を授けられ、大正2年(1913)11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。

文京区教育委員会  平成19年3月


 再び丸ノ内線を越えます。

 長くて急な坂。

 そのまま道なりに進み、「春日通り」を渡り、「小石川郵便局」の脇抜け、「東京学芸大学附属竹早小・中学校」を回り込むように進むと、「三百坂」に。都立竹早高校の脇に続く坂道。
  


三百坂(三貊坂)

 『江戸志』によると、松平播磨守の屋敷から少し離れた所にある坂である。松平家では、新しく召抱えた「徒(かち)の者」を屋敷のしきたりで、早く、しかも正確に、役立つ者かどうかをためすのにこの坂を利用したという。
 主君が登城のとき、玄関で目見えさせ、後衣服を改め、この坂で供の列に加わらせた。もし坂を過ぎるまでに追いつけなかったときは、遅刻の罰金として三百文を出させた。このことから、家人たちは「三貊坂」を「三百坂」と唱え、余人もこの坂名を通称とするようになった。

     文京区教育委員会   昭和55年1月

竹早高校方向を望む。
 
 何だか実にユニークな試みです。今なら社員いじめ(パワハラ)になりそう。有無を言わせぬ制度だった。 

 そのまま下って行くと、「千川通り」。下の地図では、「小石川」となっている。


 上部東西に走っている水色の線が千川(小石川)で、絵図の右側で下に曲がって水戸屋敷を横切り神田川に合流しています。
 最上部中央緑色が「小石川御菜園」現・小石川植物園です。その南に新福寺、小石川を挟んで松平播磨守屋敷(現・播磨坂)があります。傳通院が右側の大きな面積を占めています。(1857年「東都小石川絵図」人文社)

 以上、「ginjo.fc2web.com/193usihome/koisikawa_map.htm」より引用させてもらいました。

「小石川植物園」付近の1880年(明治13年)頃のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓が「千川(小石川)。

 「千川」と「千川上水」とはべつのもの。ただし、「千川上水」の長崎村分水が現在の有楽町線「千川」駅付近から樋で落とされて「谷端川」に流れていました。

 「千川上水」(人工の川)

 元禄9年(1696年)、玉川上水を現在の西東京、武蔵野両市境で分水したものです。北の石神井川と南の妙正寺川の分水界上をぬって練馬から板橋を抜け、巣鴨までを開渠(素掘り)とし、それから先を木樋(木管=土中埋設)で江戸までつないでいます。
 「千川上水」は、はじめ小石川白山御殿、湯島聖堂、上野寛永寺および浅草寺への給水を主な目的とし、その周辺の武家屋敷や町家への飲料水にも利用されていました。宝永4年(1707年)には川沿いの村々から出された灌漑用水への利用願いが許可され、多磨郡6か村、豊島郡14か村に分水が引かれることになりました。
・・・(以上、「練馬区」のHPより)
 
 一方、「谷端川(やばたがわ)―千川―小石川」は、東京都豊島区および北区、文京区をかつて流れていた河川。

 豊島区千早と豊島区要町の境界付近にある粟島神社境内の弁天池が水源。
 千川上水の長崎村分水が現在の有楽町線千川駅付近から樋で落とされ、粟島神社の湧水先で谷端川に合わせて南流する。西武池袋線を椎名町駅西側で越えると流れは東に曲がって山手通りと交差し、一転して北に流れを変える。再び西武池袋線を越えて、山手通りの東側を道に並行するように北東に進む。現在の立教大学の西側、有楽町線要町駅の東側を北に向かって流れ、以降板橋区と豊島区の区界に沿って行く。
 東武東上線の手前で支流を交えると、東に転じて下板橋駅の際で東上線を越え、板橋駅の北側で赤羽線の線路を潜る。今度は北区と豊島区の区界に沿って東南へ流れ、山手線大塚駅の北側に出る。大塚駅の東側で山手線を潜った後、大塚三業通りを経て千川通りに沿って小石川植物園脇を流れる。文京区千石、小石川と流れ、現在の富坂下を横切り、旧水戸藩上屋敷(現・東京ドーム一帯)を通って、外堀通りの仙台橋の下(水道橋の西)で神田川に注ぐ。
 延長約11kmで、上流では武蔵野台地の河川としては珍しく南北方向の流れを持っていた。
 現在、川の全域が暗渠化され、豊島区北大塚3丁目付近から文京区小石川2丁目付近までの大部分のルートを都道436号線が通っている。この通りは東京都心・下町と東京西北部とを急坂もなく緩やかに連絡する重要な路線。
 もともと谷端川は粟島神社の弁天池などの湧水を集めて流れる細流であったが、千川上水の余水を流し込むようになってから水量が急激に増えた。それにともなって全流域で水田の開拓が行われ、水田耕地が増えた。千川上水の分水口は現在の地下鉄千川駅のところにあり、樋口(とよぐち)という名が残っている。
 豊島区、板橋区では谷端川と呼ばれ、文京区内では小石川(こいしかわ)または礫川(こいしかわ、れきせん)と呼ばれていた。小石川の語源については『江戸砂子』に、「小石多き小川幾筋もある故小石川と名づけし」とある。
 大正、昭和の時代になると、下流部は千川(せんかわ)と呼ばれることが多くなる。千川上水と小石川(谷端川)は別のものであるが、千川上水が廃止されてからその余水が流れ込む小石川のほうを千川と呼ぶようになったとする説がある。
(以上、「Wikipedia」参照)

 西に進むと、右手奥に「小石川植物園」の緑が見えてきます。

 「植物園前」交差点に掲示されている「小石川植物園の錦絵」。

  
 地域案内図。                          南北にあわせるとほぼこんな位置関係。 

 地図上にはないが、「千川通り」の南側にあるのが、「共同印刷」。ここは、徳永直「太陽のない街」のモデルになった会社。

 『太陽のない街』は『蟹工船』が発表された同じ昭和4年、同じ雑誌「戦旗」に発表された、プロレタリア文学の最高傑作。著者自らが体験した労働争議。その争議をめぐる、闘い、日和見、裏切り、挫折、希望などの人間模様は『蟹工船』を凌駕すると評されました。現代は「格差社会」といわれますが、当時はいま以上の「格差社会、階級社会」。しかもストライキはしばしば官憲の弾圧を伴いました。

 【あらすじ】 東京小石川にあった大印刷会社が労働組合を無力化するため、1926年、労働者をリストラしたことによって始まった、有名な大労働争議が題材となっている。会社と官憲に対し、当時の労働者たちはいかに闘ったのか。労働者たちの生活は困窮をきわめ、彼らが住む居住地区は「太陽のない街」と呼ばれた……。『太陽のない街』は海外でも翻訳され、また映画にもなりました(昭和29年)。いまはDVDがあります。

(以上、「Amazon」より引用) 

 この印刷工場は、北側の「小石川植物園」の高台、南の高台にはさまれた小石川の谷間にあった。地形的に状況的にも、まさに「太陽のない街」のイメージがあるところ。

 この交差点・「千川通り」から南は二つの坂に分かれます。「吹上坂」を上がり、「播磨坂」に回るというルート。

右奥が「播磨坂」、左手前が「吹上坂」。 

  

吹上坂

 このあたりをかって吹上村といった。この地名から名づけられたと思われる。
 吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり(改選江戸志)。なお、別名「禿(かむろ)坂」の禿は河童に通じ、都内六ヶ所あるが、いずれもかっては近くに古池や川などがあって寂しい所とされている地域の坂名である。
 この坂も善仁寺前から宗慶寺・極楽水のそばへくだり、坂下は「播磨たんぼ」といわれた水田であり、しかも小石川が流れていた。
 この水田や川は、鷺の群がるよき場所であり、大正時代でもそのおもかげを止めていた。
      雑然と鷺は群れつつおのがじし
            あなやるせなき姿なりけり  古泉千樫(1886~1927)

   文京区教育委員会  昭和61年3月

 緩やかで長い坂。

  

播磨坂

 この道路は、「春日通り」から「千川通り」を結ぶ全長460メートル、幅40メートルほどの区間。通称「播磨坂桜並木」「環三通り」「環状3号線」と呼ばれている。「播磨坂」の名は、この付近にかつて存在した松平播磨守の上屋敷にちなんだものである。
 戦災復興都市計画として計画した、広幅道路と緑地帯を整備する構想が実現した数少ない箇所の一つ。なお、この区間は、東京都道319号環状三号線ではなく、文京区道(893号線)に指定されている。
 1960年(昭和35年)、当時の「全区を花でうずめる運動」の一環として、中央部とその両側の歩道にソメイヨシノなどおよそ120本の桜が植えられた。桜並木の周囲は幅の狭い中央分離帯になっていたが、交通量が少ないことから、1995年(平成7年)に遊歩道が新たに設けられ、坂の北東半分を和風のイメージとし、南西半分を洋風のイメージとして整備された。毎年3月下旬から4月上旬に開かれる「文京さくらまつり」の会場にもなっている。

 「環状三号線」については、「www.miwachiri.com › 東京発展裏話「東京発展裏話 #6東京放射環状道路網の夢 ~文京区小石川の環3通り~」HPに詳しく掲載されています。

 それによると、この「播磨坂」以外の文京区内を中心に事業凍結されて全線開通にはいたっていません。言問橋付近で水戸街道から分岐する「三つ目通り」が「環三」の一部だということを初めて知りました。「東京オリンピック」関連で事業計画が復活するとなると、沿線住民との間で一大騒動になるのは必至です。

地域住民の憩いのスペース。

 「小石川図書館」へ向かいます。途中、「石川啄木終焉の地」があるはずですが、該当するところが建設工事中なため、確認できませんでした。

  

団平坂(丹平坂・袖引坂)

「町内より東の方 松平播磨守御屋敷之下候坂にて、里俗団平坂と唱候 右は先年門前地之内に団平と申者 舂米(つきまい)商売致住居仕罷(しまいつかまつりあり)候節より唱始候由申伝 年代等相知不申候」と『御府内備考』にある。
 団平という米つきを商売とする人が住んでいたので、その名がついた。
 何かで名の知られた人だったのであろう。庶民の名の付いた坂は珍しい。
 この坂の一つ東側の道の途中(小石川5-11-7)に、薄幸の詩人石川啄木の終焉の地がある。北海道の放浪生活の後上京して、文京区内を移り変わって四か所目である。明治45年(1912)4月13日朝、26歳の若さで短い一生を終わった。
  椽先(えんさき)にまくら出させて
  ひさしぶりに、
  ゆふべの空にしたしめるかな 
        石川啄木(直筆ノート最後から2首目)
 
文京区教育委員会   平成5年3月

 こうして小石川地区(丸ノ内線の北側)を探索しました。つるべ落としの秋の日。暮れなずむ茗荷谷の街を「茗荷谷」駅まで。
 次は、文京区の湯島地区です。
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