おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

隕石直売所。御行の松。音無川跡をたどる。(台東区と荒川区の区界。その3。)

2013-09-15 22:54:00 | 河川痕跡
 明治通りを越えて南に。常識的には東京下町の地形から考えると、南に向かうのは少し違和感があります。王子から南に下ってきた流れが今度は北東の方向に流れ、さらに東に向かうのですから。
 そこで、「今昔マップ」さんの標高を追っていくと、西側(JR線側)は上野台地(忍ヶ丘)からの低丘陵地帯があり、高低差から北に向かう(もちろん、「石神井用水」として田畑を潤すという灌漑用水の役目をしているので、低湿地にある田んぼ・農業地帯へ水を流すことは当然でもありますが)ようになります。

《標高のデータ》「今昔マップ」さんより。
・台東区根岸二丁目付近(上野の山からの続き)4~6㍍。
・東日暮里四丁目付近(東北側)2~3㍍。
・根岸五丁目付近2~3㍍。
・東日暮里一丁目付近1㍍。
・浄閑寺付近1㍍。
・明治通り0㍍。

 という具合でした。なお、「日本堤」は2㍍で盛り土をしたことが分かります。いずれも、現在は、道路整備・舗装工事あるいは大きなビル建設、整地などの関係で、上記のような標高差はまったく実感できません。
 しかし、たしかに水は、当然、高きから低きに流れていくわけです。

「明治通り」を越えたところにあった家屋。昔ながらの切妻造りでした。川沿い(暗渠沿い)に古くから商店街をなしていたことが分かります。周囲が近代的な建築になっている中で、さりげない存在感がありました。

「切妻造り」

街道沿いの商家等の町屋建築によく見られます。出入口によって、「平入り」(平入、ひらいり)や「妻入り」(妻入、つまいり)とは、建物のいずれの面に正面出入口があるかによって分類した様式。(以上、「Wikipedia」参照。)

広い道ですが、少し左右にカーブしていて、かつての河川跡らしい道のようす。右が荒川区、左が台東区。
通りに面したところにあった冠木門。古い感じだが、特に説明などはなかった。「ラホール根岸」というマンション。
その先を少し行くと、区界は左に折れて狭く曲がりくねった道へ。ここからしばらく細く曲がる道が続く。右が荒川区、左が台東区。
「粋な」黒塀。かつての水路跡沿い。
事務所、民家などの建ち並ぶ広い路地を右に左に進みます。
振り返って下流跡を望む。
けっこう曲がっていますが、かつての流れの曲がり具合よりも整然としている感じ。
角にあったお店。このお店は、台東区根岸。右が荒川区。

隕石☆隕石ジュエリーショップ Big'Bang' Meteorshower
HPより。
 
隕石☆隕石ジュエリー☆願いが叶う不思議なパワーを込めてオーダーメイドのジュエリーを企画、製作、販売
 ☆大宇宙の流れ星パワー☆http://meteorshower-shop.com/

「kakaku.com › テレビ紹介情報」によると、「テレビ朝日」の「若大将のゆうゆう散歩」でも紹介された、とか。‎

 2012/05/11放送。
- 台東区鶯谷を散歩する東幹久は「隕石直売所」と書かれた看板が気になり、隕石を使用したジュエリー「鉄質隕石ギベオン ペンダントトップ」などを販売する「Big Bang」に立ち寄る。東幹久は店内に置いてある数千年前の隕石を見せてもらい、...

 こちらは立ち寄らずに、先に進みました。興味のある方はHPにアクセスして下さい。

下町らしい路地裏。
お寺の脇から振り返ったところ。道(水路跡)は左に曲がっていきます。
左奥から来て少し広い道路を横切って進みます。正面が「御行の松」で有名な西蔵院。右が台東区、左が荒川区。

「御行(おぎょう)の松」(「www.taito-culture.jp/city/landscape/si_216/085/s1.html」より)

 台東区根岸四丁目九番五号 西蔵院境外仏堂不動堂内。
 江戸期から、根岸の大松と人々に親しまれ、『江戸名所図会』や広重の錦絵にも描かれた名松。現在の松はその三代目である。初代の松は、大正十五年に天然記念物の指定を受けた当時高さ十三・六三メートル、幹の周囲四・〇九メートル、樹齢三五〇年と推定された。枝は大きな傘を広げたようで、遠くからもその姿が確認できたという。しかし、天災や環境悪化のため昭和三年に枯死。同五年に伐採した。
 二代目の松は、昭和三十一年に上野中学校敷地内から移植したが、これも枯死してしまい、昭和五十一年八月、三代目の松を植えた。戦後、初代の松の根を土中より堀り出して保存し、不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。
 御行の松の名の由来に定説はないが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれる。また、この地を時雨が岡()といったところから、別名時雨の松とも呼ばれた。

「御行の松」。
(「TAITOおでかけナビ | 上野・浅草・谷中・浅草橋・徒蔵など台東区の公式観光情報サイト」より。)

:「今昔マップ」によると、この辺りは標高3~4㍍。川の流域一帯は2㍍ほどなので、上野、谷中台地から派生した、川沿いの微高地だったという風に読み取れる。

直角に曲がる。奥が台東区、手前が荒川区。
少し広く車も行き来する通りに出てきました。通り沿いの古い建物。切り妻造りの家の格好がそのまま。裏の方にも古いお家が残されています。
振り返ったところ。ゆるく曲がった道がかつての「音無川」の流路を想像させます。奥が下流。左が荒川区、右が台東区。
「尾久橋通り」にぶつかります。「竹台高校前」という信号機。「音無川」は通りを越えた右の奥の方から流れてきました。

(「歴史的農業環境閲覧システム」より)曲がりながら東北へ向かう流れが「音無川」。その北側が「北豊島郡」(荒川区)側。町家も川を境に広がっていきません。市中と市外との関係?

(「同」)上の地図の続き。日暮里付近のようす。道に沿って西北から流れてきています。左が谷中・上野台地。まだ鉄道は通っていません。

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