いよいよ島田宿への道のりです。
国道沿いで見かけた鶏白湯ラーメン屋「燕がえし」。
こちらは古風でしゃれた趣のお店。
「(日本橋から)206㎞」標示。けっこう歩いて来たものです。
「六合」で、国道から離れて右の道に進みます。
このあたりが「阿知ヶ谷」。
しばらくして、再び「国道1号線」に合流。向かいは、お茶問屋さん。
古風な店構え。
この付近には、お茶屋さんの問屋が目に付きます。さすが本場!
栃山土橋
大津谷川と伊太谷川が、この橋の川上で合流して栃山川と名を変えます。昔は「島田川」とも呼ばれていました。
享和3年(1803年)に書かれた「島田宿書上控」によると、江戸時代の「栃山橋」は土橋で、長さ17間(36.6米)、横幅3間(5.4米)、橋杭は三本立て七組で支えていました。
土橋とは板橋の上に柴(木の枝)を敷き、その上に土を貼ったものでした。
この橋の東端が、当時の道悦島村と島田宿の境となっていました。
島田宿史跡保存会
「栃山橋」を振り返る。
しばらく進むと、小さな水路の近くに。「監物川と監物橋」。
旧東海道は、国道1号線から離れ、左の「島田駅」方向の道に進みます。しばらく行くと、「島田宿東見付跡」。
「升形跡(宿東入口)」。
宿場の出入口には「見付」とよばれた施設がありました。もともとは城門の見張施設のことをいいました。宿場の見付は、上に咲くや竹矢来を設けた石段や土手で、街道に直角や鍵の手に区画したり、または三方をコの字型に囲った升形の見付もありました。
島田宿の東入口には、例の少ない升形の見付が設けられていました。広さは5間四方(約80㎡)ほどです。ここには宿場の番人を置いたという記録はありませんので、宿場の境界として設けられ、本陣の主人や町方の役人が大名行列の送り迎えをした場所だったようです。
島田市教育委員会 島田宿・金谷宿史跡保存会
そこから街道筋を振り返る。
次第に商店街に入っていきます。足元にはタイルが。「帯まつり」。
日本三奇祭のひとつ、三年に一度の島田大祭(帯まつり)は、元禄8年から始まり本年で107回目を迎えます。
繁栄と豊穣の願いをこめた帯まつりは300年余の間、島田の街に華を添え続けています。
その昔、島田に嫁いできた花嫁は、晴れ着姿で大井神社へお参りし、その姿で町を歩き披露するのが習わしとされていました。それは気の毒ではないかと花嫁を気遣う心から、女の命「帯」を大奴が木太刀に飾り、安産祈願とあわせて、人々への披露を行うことになりました。
そうなると親たちは嫁入り道具の中でも特に帯に気を配るようになり、娘を気づかい、はるばる親が来る。逸品を見ようと商人が来る。さながら帯のファッションショーとなったのが帯まつりの始まりです。
現代では、25人の大奴が2本の帯を下げながら、傘を片手に街中を練り歩きます。
(HPより)
ちなみに「日本三大奇祭」といえば、、「なまはげ(秋田県)」、「吉田の火祭り(山梨県)」、「西大寺会陽の裸祭り(岡山県)」? でも、うちこそは「三大奇祭」と名乗りを上げる祭は他にもたくさんあるようです。
商店街にある「島田宿」。
島田宿の説明板。
1、島田宿の成立
慶長6年(1601) 徳川家康により、東海道の「伝馬駅」として指定される
慶長9年(1604)頃 大井川の大洪水で宿駅施設はすべて押し流され、北の「元島田」で仮に継立てを行った。
元和元年(1615) 元の島田宿に戻り復興した。
1、位置
江戸へ 52里2町45間(約204㎞)
藤枝宿へ 2里8町(約8.7㎞)
金谷宿へ 1里(約3.9㎞)
1、宿内往還(道悦島村境より大井川堤まで)の長さ
34町53間(3.8㎞)
道幅4間(7m24cm 向かいの車道に鋲で表示してあります)
1、宿内家並東西長さ
9町40間(約1.1㎞)
1、宿内人口(天保14年・1843年)
6727人 内 男3400人 女3327人 (当時の静岡県内では、府中についで人口が多かった)
1、宿内総家数(天保14年・1843年)
1461軒
1、宿泊施設
本陣 3軒 上本陣 村松九郎次家(3丁目)、中本陣 大久保新右衛門家(3丁目)、下本陣 置塩藤四郎家(4丁目)
脇本陣 なし
旅籠屋 (大6軒・中7軒・小35軒)
1、問屋場 1ヶ所(5丁目)
宿建て人馬人足 (人足 136人 馬 100疋)
1、高札場 1ヶ所(西入口北側・大井神社南鳥居横)
1、郷倉 1ヶ所(5丁目南裏)
「東海道宿村大概帳」より
島田宿・金谷宿史跡保存会
右手に「島田宿一里塚跡」碑。
島田宿一里塚
慶長9年(1604年)徳川家康は、東海道の一里(36町)ごとに塚を築かせました。塚は5間四方(直径約9米)、上に榎を目印として植え、通常は街道の両側に対で築かれました。
島田宿一里塚は天和年間(1681~1684年)に描かれた最古の「東海道絵図」の中で、江戸から50里と記され、北側の塚しか描かれていません。
幕末の文献「島田宿並井両裏通家別取調帳」では幅5間2尺で北側のみ、塚の上には榎が植えられていたことが記されています。
島田宿史跡保存会
ここでは、江戸(日本橋)から「50里」(=約200㎞)、と記されていますが、現在の数え方だと、25里目の「箱根山中(なし)」と36里目の「富士川中(なし)」の二つを数えることが多い。それに従うと、「52番目」となります。日本橋からの実距離では、「52里」(=約208㎞)、の方がより正確だと思います。
閑散とした印象の商店街。
駅前近くなると、道幅も広くなり、整然とした町並みに。
案内図。道のかたちはほとんど変わらない。
旧来の商店街方向を振り返る。
「五丁目まちかど物語」。
1932年、日本で最初の私設天文台がこの地に開設されました。
その5年後、1937年1月それまで行方不明となっていたダニエル彗星が、開設者・清水真一氏(島田市名誉市民第1号 1889‐1986年没)により再発見されたのです。
それは、アマチュア天文家の周期彗星検出第一号という世界的快挙となりました。
これにより、日本天文学会天体発見賞を授与され、その功績が大いに讃えられました。
「問屋場跡」。
「問屋場」は、宿駅の中心となる施設で、主に公用の文書や物品、旅行者に人足や電場を提供し、継立てを行う施設。
島田宿の問屋場が間口8間(約14.5M)、事務所は間口5間半(約10M)奥行き5間(9M)の建物でした。・・・常備の人足は136人、伝馬は100疋、飛脚は10人が常駐していました。・・・
その隣にある碑が「島田刀鍛冶」の碑。
島田刀鍛冶の由来
・・・
島田鍛冶集団は、中世末期から近世にいたる島田の歴史のなかでも、とりわけ燦然と輝いている。
島田の刀鍛冶は室町時代より江戸時代末期にわたる約四百年間の歴史をもち、繁栄期にはこの島田に多くの刀工が軒を連ね、鍛冶集団を形成していたという。その系譜は義助、助宗、広助を主流とし、作風は相州風、備前風、などのみえる業物打ちであった。 江戸時代になると、貞助系、忠広系が派生し、信州などに進出していった刀工たちもある。彼ら島田鍛冶は地方的な存在であったが、戦国大名の今川・武田・徳川氏などに高く評価され、多くの武将に珍重された。
「からくり時計」のある通り。
島田宿下本陣置塩(おしお)藤四郎家跡です。
島田宿本陣跡
本陣とは幕府の高官や公家・大名・旗本・高僧など支配層の人々が休憩・宿泊するために各宿場に設けられた施設です。
はじめは「大名宿」と呼ばれていた、各宿場の広い家屋敷を持つ富裕な家を寛永12年(1635年)頃、参勤交代が制度化されると、幕府は「本陣」に指名しました。
島田宿には、西から上本陣村松九郎治家・中本陣大久保新右衛門・下本陣置塩藤四郎家の3軒がありましたが、脇本陣はありませんでした。享和3年(1803年)の「島田宿明細書帳」によると、上本陣は建坪262坪、中本陣は建坪244坪、下本陣は建坪271坪とそれぞれの規模が記されています。
諸大名は、各宿場の本陣を指定し、定宿としていました。本陣へは藩主と側近の一部が泊まり、その他の家臣団、女中、中間などは宿内の旅籠や商家、民家、寺院あるいは農家などにも分散して泊まりました。
参勤交代の行列は、数百人から千人以上にも及び、戦のときの行軍と同じと考えられていたため、大名の泊まる宿を戦場と同じく「本陣」と呼んだと言われています。
島田市教育委員会 島田宿史跡保存会
屋敷跡を広い整備された通りにし、「東海道」を挟んで南側にも同じような「観光」施設を設けています。もちろん、かつての東海道とは直角に交わっています。
平日のお昼前のせいか、ほとんど人通りもなく、お店も閉まっているようです。駅前再開発計画の一環としてつくられた施設です。
「本陣跡」(二ヶ所)。
この付近には、かつての宿場を記念する立て札、史跡碑が道の左右にあって、通りを渡ったり、戻ったりです(幸いに車も人もほとんど通らないので助かりますが、町としてはこれでいいのかどうか? )。
通りの左側にある「塚本如舟邸跡」。
【句碑】 俳聖芭蕉翁遺跡 塚本如舟邸跡(如舟と芭蕉と連句碑)
やはらかにたけよ今年の手作麦 如舟
田植とゝもにたひの朝起 はせを
元禄七(年)五月雨(さみだれ)に降こめられてあるし(あるじ)のもてなしに
こころうこ(動)きて聊(いささか)筆とる事になん
塚本家は島田宿の名家であり、芭蕉は二度ばかりこの如舟の家を訪れています。はじめは元禄四年十月、「奥の細道」の旅を終えて江戸へ帰るときで、二度目は元禄七年、故郷の伊賀上野へ向かう最後の旅のときです。このときはたまたま大井川の川止めにあい、塚本邸に四泊しているようです。碑に刻まれているのは、二度目の訪問のときに詠まれた如舟と芭蕉の連句とその後書き。
聖芭蕉翁遺跡 塚本如舟邸址標識について
塚本如舟は通称を孫兵衛と云い元禄の頃川庄屋を勤めた島田の名家であり俳人であり好事者でもあった。芭蕉翁は元禄4年10月東下りの際初めて如舟邸を訪れて
宿かりて名を名のらする時雨かな 馬方はしらじ時雨の大井川
などの句を残したが越えて元禄7年5月西帰の際それは芭蕉翁最後の旅ともなったが再び如舟邸を訪れたまたま大井川の川止めにあい4日間も滞在して
さみだれの雲吹きおとせ大井川 ちさはまた青葉なからになすび汁
など詠じ更に興に乗じて田植の連句
やはらかにたけよことしの手作麦 の如舟の発句に翁は 田植とともにたびの朝起
と付句し、且、元禄年五月雨に降りこめられてあるじのもてなしに心うごきて聊筆とる事になん
と後書まで添えた真跡が260年後の今日までそのまゝ塚本家に伝えられたことは何ともあり難い事である。この標識の碑面は其連句の真跡を写真模刻したものである。願うにわが島田の地に俳聖の佳吟が残され又はやくから蕉風の唱えられたのも如舟交遊の賜であった。誠に郷土として永く伝うべき文化史跡というペきである。
昭和28年発已芭蕉忌 島田 早苗会同人誌
注:「ちさ」=苣(萵)<チシャ>
ヨーロッパ原産で「レタス」のこと。キク科の植物。平安時代に中国から日本に渡来した。この時代には春の食材とされ、「なすび」は夏のもので、春と夏が汁の具として共にあるのを示して、主の心遣いを詠っています。「島田市博物館」の庭にこの句の句碑があるようです。
塚本如舟邸跡
塚本家は代々孫兵衛を名乗り、元禄9(1696)年、初代の川庄屋を代官から任命されています。その他にも組頭、名主、問屋場の年寄、六代目からは問屋を務めるなど代々宿役人の養殖を務めました。当時の屋敷は、間口5間余、奥行き49間余でした。
三代目孫兵衛は「如舟」と号して俳諧を嗜みましたが、後に子孫が、彼のことを「家業に精を出し、酒造・製茶を営んで、江戸に送り、東叡山(上野寛永寺)への献茶の御用を蒙るるなど繁盛して富貴になり、宿高の150石を持っていた」と伝えています。塚本家は主に茶商と大地主として財を成したようです。
また彼は、島田出身の連歌師宗長を偲んで、長休庵という草庵を建てましたが、後に宗長庵という寺になっています。
元禄4(1691)年、俳諧師芭蕉が江戸に向かう途中、俳人として知られていた如舟宅を訪れました。このとき芭蕉48歳、如舟51歳でした。
また、元禄7(1694)年、芭蕉は、江戸から郷里伊賀上野へ向かう途中、再び如舟宅を訪れ、川留めのため、4泊5日滞在しています。このときにも、石碑に記されているような有名な句をいくつか残しています。
なお芭蕉は、この年10月に永眠しましたが、芭蕉没後も塚本家には、芭蕉ゆかりの跡を求めて、親友の素堂や高弟の嵐雪・桃隣・支考・許六・涼菟らが訪れています。
島田宿・金谷宿史跡保存会 島田市教育委員会
【句碑内容】
するかの国に入て
するかちやはなたち花もちやのにほひ はせを
この句も元禄七年、芭蕉の最後の旅のときに詠まれたものです。
この他にも、島田市内には「駅前緑地」「博物館」など数カ所に芭蕉の句碑があります。
「宿かりて名を名乗らするしぐれ哉」
「馬かたはしらじしぐれの大井川」
「たはみては雪まつ竹のけしきかな」
「道のべの木槿は馬に喰われけり」
「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」
さて、12時半も回ったので、そろそろ昼飯にでも。コンビニのおにぎりもありますが、けっこう風も冷たく強いし、このあたりにお店があれば入ろうか、と駅方向に向かいました。が、1軒、「ラーメン屋」さんがあるだけ。他に何か、と探すも、「魚民」「千年の宴」「山内農場」とか飲み屋のチェーン店ばかり。もちろん、開店前。
「ラーメン屋」のおやじが出前の帰り、こちらをじろじろ見ながら通り過ぎます。つい入りそびれて・・・。もう少し行ってみるかと、東海道に戻ることに。
左手にあるのは、創業300年の「清水屋」さん。名物の小饅頭は、こし餡の酒饅頭。これはこれでいいけれど・・・。
ふと店の前には「饅頭で 人を尋ね与 山佐くら 其角」と、芭蕉の門人、宝井其角の句碑がありました。つい、この句碑で満足!
「宝井其角句碑」。
其角には、「切られたる ゆめはまことか のみのあと」なんて、けっこうこじゃれた句があります。
結局、西に向かって歩き、「大井神社」前のバス停のベンチで、おにぎりを食べて、大井川に向けて出発です。
そこには、「島田宿西見付」。
升型跡(宿西入口)
・・・島田宿の西入口には、川沿いに土手で囲い、東側は正覚寺入口の小路で囲った、例の少ない升形の見付が設けられていました。・・・
この付近までが厳密な意味での「島田宿」内ということになります。
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