今年初めての、というか久々の映画鑑賞でした。誘われて「岩波ホール」へ。ほとんどが中年以上の女性達。中には男性の姿もちらほら。老夫婦の方々も。平日の午前11時なのに、けっこうな人出。
2時間20分ほどの上映時間でしたが、時間が経つのも忘れて映画にひたる、なんて、本当に久々の体験。
パンフレットでは、
1907年、ヴィオレットは私生児として生まれた。母親からの愛情に飢え続けた彼女は、やがて小説を書き始める。ボーヴォワールに才能を認められ、彼女の助けを得ながら、戦後間もない1946年に女性として初めて自らの体験や性を赤裸々に記した処女作『窒息』を刊行。しかしカミュやサルトル、ジャン・ジュネといった大物作家の支持を得たが、社会からは受容されなかった。傷つき果てたもののボーヴォワールの支えによって再びペンを取った彼女は、パリからプロヴァンスに向かい、新作『私生児』を書き始める。母との関係、愛の渇望、ボーヴォワールとの関係、……ヴィオレットは人生のすべてを注ぎ込むようにペンを走らせていく。
とありましたが、どういう内容の小説を書いたのか題名も含め、まったく知りませんでした。私が知らないだけでなく、多くの人から、ましてや日本ではほとんど知られていない、ある意味、すっかり忘れ去られた作家だったのでしょう。
この映画に登場するカミュやサルトル、ジュネ、そして最大の理解者、ボーヴォワールはその作品にも少しはふれたことがありますが。
ストーリーはなかなか巧みにつくられていて、主人公の葛藤、屈折、憤怒、甘え、挫折、成長をスリリングに描いています。
私生児として生まれ、子ども時代から母親の愛情に飢え、それでいて母親との縁を断ち切ることができない。かつては裕福な家庭に育った人間が闇商売をしながら、ゲイの男友達との愛憎半ばする生活。その中で、自らの生きた(生きている)証しとして記録することを勧められ、ペンを執る。ここから彼女の世界が広がっていきます。
自らを語る中で、自らの心の奥底が開けていく。しかし、それは簡単な道筋ではありません。ボーヴォワールと巡り会い、励まされながらも、華やかで美しいボーヴォワールに対するコンプレックス・・・。悶々とする日々が続く。
ヴィオレットの自伝的小説が出版されますが、赤裸々な性や感情を語る内容の本は売れない。それでも、書き続けます。精神的にもろく、容貌も美しくはない(そんな劣等感を持つ)中年女性作家。その彼女の才能を認め、金銭的に援助してくれる人間の存在・・・。
戦争中でありながら、同棲中の男がドイツで殺された、という挿話以外は、まったく第二次大戦・対独戦、ヨーロッパ戦線という苛酷な様相はどこにも登場しない。唯一、闇商売で生活をする、ということくらいか。
そういう意味では、時代状況に翻弄されながらも徹底して確固とした「自分」を確立しようと悪戦苦闘する他の登場人物も同じです。
彼女に関わる人や土地の名が章立てになって進行します。使われている音楽は、室内楽。心地よく響く弦楽器・・・、バックミュージックに引き込まれます。ラストの方でかなり通俗的な曲が流れてきたのには、がっかり。でも、そろそろ終幕になるかな、と安心感を与えてくれましたが。
フランスの豊かな自然、様々な表情を見せるフランスの都会の街角、戦前、戦後と人事は移ろいを見せても、一貫した美しさ、伝統を秘めた世界。フランス語の美しい調べも含め、久々にフランス映画の神髄を味わった感じです。
真実ほど誠実なものごとはない、かな。
映画の後は、少し歩いて「水道橋」駅近くの「庭のホテル東京」で食事。落ち着いた雰囲気のホテル。知りませんでした。中庭の小さな池に小鳥が。・・・
今年もいったいどういう出逢いがあるでしょうか? 人生、つくろわず、おもねらず、あるがままに生きること。もちろん難しいけど。では、また。
注:写真は、「予告編」(YouTube)より
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