おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

中島飛行機武蔵製作所

2011-11-29 21:23:00 | 歴史・痕跡
 中島飛行機株式会社は、1917年から1950年まで存在した日本の航空機・エンジンのメーカー。創業者は元海軍機関将校であった中島知久平。エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、太平洋戦争終戦までは三菱重工業を凌ぐ東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。
 武蔵製作所は海軍用の西工場、陸軍用の東工場、病院、その他の付属設備から成っており、主に発動機(エンジン)の生産を行う最重要軍需拠点だった。
 昭和19年11月24日から終戦までの間に十数回の銃・爆撃を受け爆弾五百発以上が命中し、200名以上の殉職者と500名以上の負傷者を出して、工場は全くの廃墟と化した。
東伏見稲荷神社(東京都保谷市)には、「殉職者慰霊碑」がある。

「建碑之由来」
中島飛行機株式会社は大正六年十二月群馬県太田町に創立され 終戦後富士産業株式会社と改称した
昭和十三年五月北多摩郡武蔵野町西窪に武蔵野製作所が建設され 昭和十六年十一月隣接地に多摩製作所が増設され陸海軍に分かれ生産を行った
昭和十八年十月時局の要請により両製作所を合併して武蔵製作所と呼称するに至った。
この間従来の従業員に日本全国からの徴用工員男女動員学徒を加へその総数は五万人に及び日夜生産に励み国内第一の航空発動機工場となった。 
米軍は日本空軍の補給力を全滅するため武蔵製作所を本土編隊爆撃の第一目標とし 昭和十九年十一月二十四日の空襲以来終戦まで十数回の爆撃が行われ爆弾五百発が命中し 二百余名の殉職者と五百名を越える負傷者を出し工場は全く廃墟と化してしまった
武蔵製作所はこの爆撃のため終戦後平和産業に転換することが出来ず富士産業株式会社武蔵整理部として整理業務に専念し 毎年十一月二十四日を迎える度に戦争の恐怖と罪悪を想起すると同時に平和日本の礎となった殉職者の霊を慰める祭祀を行った
昭和二十三年十月占領下であるにも拘らず慰霊碑の建立を企図 中島飛行機武蔵製作所殉職者慰霊碑建設委員会を組織し有志の浄財をもって武蔵製作所稲荷神社跡に慰霊碑の建立を行い 同時に殉職無縁者永代供養のため武蔵野市源正寺に供養碑を建立した 
昭和二十三年十二月東伏見稲荷神社司祭により遺族を迎え除幕式並びに慰霊祭を挙行した
爾来旧武蔵整理部従業員有志によってささやかながら祭祀を続けてきたが 慰霊碑の完全な保存と永代祭祀のため当所より多大の助力をされた東伏見稲荷神社の好意により境内に遷座することになった 
昭和三十九年十一月に遷座を完了し 翌十二月全国より遺族を招き遷座祭並びに二十年祭を挙行した
茲に慰霊碑建立の由来を記述して後世に伝え平和日本の礎となった中島飛行機株式会社武蔵製作所殉職者の霊を永えに慰めんとするものである
昭和三十九年十二月五日 中島飛行機株式会社武蔵製作所 殉職者慰霊碑建設委員会

 

日本の軍事力の強化とともに急速に発展を遂げた「中島飛行機」だが、米軍による戦略爆撃の主要な攻撃目標とされ、各地の工場は灰燼と帰した。敗戦でGHQによって航空機の生産を禁止され、二度と軍需産業に進出できないよう、12社に解体された。技術者の多くは自動車産業へ転進。日本の自動車産業の発展に多大な貢献をした。
 終戦後の10年間、慶應義塾大学基礎学科の研究室を置いていた。また、1953年(昭和28年)には三鷹研究所跡地に国際基督教大学(ICU)が設置され、一部の建造物は現在も用いられている。また武蔵製作所は、NTT武蔵野研究開発センター、武蔵野中央公園、武蔵野陸上競技場(武蔵野総合体育館を併設)として用いられている。
 中島飛行機から解体された会社は多くが現在でも存続しており、その代表格が、富士重工業 (SUBARU)。中島飛行機東京工場→富士精密工業→プリンス自動車工業→日産自動車に吸収合併。
 戦後、自動車製造に挑戦したメーカーは多くあったが、戦前からの自動車メーカーであったトヨタや日産でさえも独自開発が難しく、海外メーカーの模倣や、ノックダウン生産方式と呼ばれるライセンス生産で凌いでいた時代において、中島飛行機を前身とする富士重工業とプリンス自動車工業の2社のみが、技術提携に頼らず自力開発を行う素地を有していた。

代表的な航空機
日本陸軍向け
偵察兼練習機
1919年(大正8年) - 中島式五型
戦闘機
1923年(大正12年) - 甲式四型戦闘機(ニューポール・ドラージュ 29C型機ライセンス生産)
1931年(昭和6年) - 九一式戦闘機
1937年(昭和12年) - 九七式戦闘機
1941年(昭和16年) - 一式戦闘機 「隼」
1942年(昭和17年) - 二式単座戦闘機 「鍾馗」
1943年(昭和18年) - 四式戦闘機 「疾風」
1945年(昭和20年) - キ87 試作高々度戦闘機
爆撃機
1940年(昭和15年) - 百式重爆撃機 「呑龍」
特殊攻撃機
1945年(昭和20年) - キ115 特殊攻撃機 「剣」
日本海軍向け
戦闘機
1928年(昭和3年) - 三式艦上戦闘機
1930年(昭和5年) - 九〇式艦上戦闘機
1936年(昭和11年) - 九五式艦上戦闘機
1942年(昭和17年) - 二式水上戦闘機
1942年(昭和17年) - 二式陸上偵察機 / 1943年(昭和18年) 夜間戦闘機「月光」
1943年(昭和18年) - 十八試局地戦闘機「天雷」(試作)
 その他、三菱内燃機の設計である九六式陸上攻撃機と零式艦上戦闘機のライセンス生産も行っており、なかでも零戦は、生産期間が1年以上短いにもかかわらず、設計元の三菱を上回る、全体の約2/3を量産した。
攻撃機
1937年(昭和12年) - 九七式艦上攻撃機
1938年(昭和13年) - 十三試陸上攻撃機「深山」(試作)
1943年(昭和18年) - 艦上攻撃機「天山」
1943年(昭和18年) - 十八試陸上攻撃機「連山」(試作)
陸上攻撃機「富嶽」(計画)
偵察機
1936年(昭和11年) - 九五式水上偵察機
1944年(昭和19年) - 艦上偵察機「彩雲」
輸送機
1940年(昭和15年) - 零式輸送機(ダグラス DC-3) 昭和飛行機との並行生産
特殊攻撃機
1945年(昭和20年) - 特殊攻撃機「橘花」(試作)
(注:この項は、「零戦」くらいしか分からない。すべて資料からの借り物)

 また、中島飛行機武蔵製作所と田無町にあったエンジンテスト工場(中島航空金属)の間を結び、製造されたエンジンを運ぶ目的で敷設された鉄道が、ごく短期間ではあったが存在したとのこと。
 武蔵野中央公園の西北端部、都立武蔵野北高校のあたりから敷地外へと出た線路は、北高前の関前橋交差点あたりで、伏見通りを横切って行った。その先の千川上水(玉川上水から分岐、はるばる都内の板橋区まで続いている)を渡っていったが、その痕跡は無い。
廃線・痕跡探訪記の詳細は、hkuma.com/rail/nakaji01.html を参照。
唯一残っている中島飛行機時代の建物。東工場の変電所で、団地の自治会の施設として利用されている。自治会事務所の奥に存在。団地の改築工事が始まり、周囲は立ち入り禁止となっている。いずれ解体される運命に・・・。
武蔵野北高校前の交差点。この辺りを左から右に線路が走っていたという。
千川上水。
JR中央線・武蔵境駅から中島飛行機武蔵製作所へ引き込み線があった。そのモニュメント。
 後、戦後の一時期「武蔵野競技場線」として三鷹駅からの引き込み線となる。玉川上水に架かる人道橋にこの線路が設置されている。この廃線は、随所に国鉄時代の痕跡が残っている(以前掲載したことがある)。

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