東京大空襲。1945(昭和20)年3月10日未明。東京下町地区、現在の台東・墨田・江東区を襲った米軍による焼夷弾・無差別絨毯爆撃による死者、約10万人とも。その正確な死傷者の数は、いまだに分かりません。
特に、本所深川地区は数万に及ぶ死者とたくさんの負傷者が出ました。ここは、もともと木造家屋が密集していた地域。次々と火の手が上がっていきましたが、四方から迫る炎で逃げまどう人々。その被災民の避難路を断ったのが、この地域に縦横に走る、隅田川などの河川・運河でした。
逃げまどう人はこれらの河川にかかる橋に両側から殺到しました。橋の上で焼死する者、逃げ場を水に求めて川に飛び込む人。その水中もけっして安全ではなく、高熱の火流が川の上をなめるように渡ったといいます。また、3月中旬の真夜中、冷たい水の中に身を浸し、水死した者もいました。
翌朝、隅田川など下町の橋の上や水中には、黒こげの死体や水死体が浮かび、地獄そのもの様相を呈しました。
府立三中(現在の都立両国高校)は、錦糸町駅の南西、大横川にかかる橋・江東橋のたもと付近にある学校。この時の空襲で校舎の一部が 焼失することになります。当時、錦糸町駅の方向から西へ向かう避難民と両国方面から江東橋を渡り、三中に逃げ込もうとする人々は、校門から学校の中に入ることが出来ず、再び江東橋へ戻ろうとする人も多かったといいます。避難場所として多くの住民が避難して来る中、学校では、校長をはじめ教職員が必死に消火活動や避難民受け入れに当たります。この学校の「創立百周年記念誌」(2002年発行)には、当時の生々しい体験(当時の生徒達の声)がたくさん掲載されています。この日の真夜中の惨状、阿鼻叫喚の地獄を知ることが出来ます。
(その一)
「一面の火の玉、火の塊は一体何が燃えているのであろうか。大きいのはドラム缶ほどの物体が炎を上げながら十数米の高さを飛んで行くのである。多分、火の勢いは既に北側は電車通りの向かい側、西側は江東橋の架かっている辺りまで迫っていたのではなかろうか。避難してきた人々の必死の叫びや、バリバリと物の燃える音、・・・」
次々と校舎が延焼する中、南側に位置するプールに飛び込んで、凍るような冷たい水の中で一夜を明かし、命が助かった者もいました。一瞬の運・不運が、人の生死を分けました。
(その二)
「人と煙に追われ、逃げ惑う群衆の中で私達家族はその波に呑み込まれた。家の近くの江東橋の上は火焔と熱風に追われる狂乱の大群衆、それはまさに煮えたぎる地獄の釜の中の様相である。人々は酷熱風火に耐えられず我先に厳寒の死の川へ飛び込んだ。私達家族も猛火に追われ次々に飛び降りた。母は、3歳の弟を背に身をひるがえした。幸い川岸の筏の上に助けあげることが出来た。
・・・その時岸辺の家々があっという間に猛火に包まれた。その熱気で我が身は湯気のかたまりとなった。焼け落ちた家々の向こうを仰ぎ見ると、我が母校は窓々から火焔と黒煙を吹き上げ炎上中であった。
・・・猛烈な火焔と火の粉は川面へ吹き付け、筏にも火が付いた。我々は必死で消火に努めた。呼吸はつまり、目ははれふさがりこの世の姿ではなかった。猛火と熱風との闘いもやっと終わり空も白んできた。3月十日の寒空に朝日が差し込んできたころ、辺りは完全に焼き尽くされていた。」
この筆者一家は、幸いにも生き延びましたが、生きて夜明けを迎えた人は少数でした。三中の教員で、当日、宿直していた方は、十日朝の江東橋下(大横川)の惨状を「熱風に耐えられず飛び込んだ人々はほとんど全員が寒さで命を落とし、水面がみえなくなるまで死体で埋めてしまった」と、後日、記しています。
それから、64年の月日が経ちました。
写真は、現在の江東橋のようすです。橋の下に、大横川の流れはなくなり、一帯が親水公園として広い管理された水面があるだけです。
京葉道路に架かる橋もきれいに強固な橋として一新され、阿鼻叫喚の地獄図は想像もできません。
特に、本所深川地区は数万に及ぶ死者とたくさんの負傷者が出ました。ここは、もともと木造家屋が密集していた地域。次々と火の手が上がっていきましたが、四方から迫る炎で逃げまどう人々。その被災民の避難路を断ったのが、この地域に縦横に走る、隅田川などの河川・運河でした。
逃げまどう人はこれらの河川にかかる橋に両側から殺到しました。橋の上で焼死する者、逃げ場を水に求めて川に飛び込む人。その水中もけっして安全ではなく、高熱の火流が川の上をなめるように渡ったといいます。また、3月中旬の真夜中、冷たい水の中に身を浸し、水死した者もいました。
翌朝、隅田川など下町の橋の上や水中には、黒こげの死体や水死体が浮かび、地獄そのもの様相を呈しました。
府立三中(現在の都立両国高校)は、錦糸町駅の南西、大横川にかかる橋・江東橋のたもと付近にある学校。この時の空襲で校舎の一部が 焼失することになります。当時、錦糸町駅の方向から西へ向かう避難民と両国方面から江東橋を渡り、三中に逃げ込もうとする人々は、校門から学校の中に入ることが出来ず、再び江東橋へ戻ろうとする人も多かったといいます。避難場所として多くの住民が避難して来る中、学校では、校長をはじめ教職員が必死に消火活動や避難民受け入れに当たります。この学校の「創立百周年記念誌」(2002年発行)には、当時の生々しい体験(当時の生徒達の声)がたくさん掲載されています。この日の真夜中の惨状、阿鼻叫喚の地獄を知ることが出来ます。
(その一)
「一面の火の玉、火の塊は一体何が燃えているのであろうか。大きいのはドラム缶ほどの物体が炎を上げながら十数米の高さを飛んで行くのである。多分、火の勢いは既に北側は電車通りの向かい側、西側は江東橋の架かっている辺りまで迫っていたのではなかろうか。避難してきた人々の必死の叫びや、バリバリと物の燃える音、・・・」
次々と校舎が延焼する中、南側に位置するプールに飛び込んで、凍るような冷たい水の中で一夜を明かし、命が助かった者もいました。一瞬の運・不運が、人の生死を分けました。
(その二)
「人と煙に追われ、逃げ惑う群衆の中で私達家族はその波に呑み込まれた。家の近くの江東橋の上は火焔と熱風に追われる狂乱の大群衆、それはまさに煮えたぎる地獄の釜の中の様相である。人々は酷熱風火に耐えられず我先に厳寒の死の川へ飛び込んだ。私達家族も猛火に追われ次々に飛び降りた。母は、3歳の弟を背に身をひるがえした。幸い川岸の筏の上に助けあげることが出来た。
・・・その時岸辺の家々があっという間に猛火に包まれた。その熱気で我が身は湯気のかたまりとなった。焼け落ちた家々の向こうを仰ぎ見ると、我が母校は窓々から火焔と黒煙を吹き上げ炎上中であった。
・・・猛烈な火焔と火の粉は川面へ吹き付け、筏にも火が付いた。我々は必死で消火に努めた。呼吸はつまり、目ははれふさがりこの世の姿ではなかった。猛火と熱風との闘いもやっと終わり空も白んできた。3月十日の寒空に朝日が差し込んできたころ、辺りは完全に焼き尽くされていた。」
この筆者一家は、幸いにも生き延びましたが、生きて夜明けを迎えた人は少数でした。三中の教員で、当日、宿直していた方は、十日朝の江東橋下(大横川)の惨状を「熱風に耐えられず飛び込んだ人々はほとんど全員が寒さで命を落とし、水面がみえなくなるまで死体で埋めてしまった」と、後日、記しています。
それから、64年の月日が経ちました。
写真は、現在の江東橋のようすです。橋の下に、大横川の流れはなくなり、一帯が親水公園として広い管理された水面があるだけです。
京葉道路に架かる橋もきれいに強固な橋として一新され、阿鼻叫喚の地獄図は想像もできません。
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