おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

56 旧墨堤通りと桜並木

2009-05-14 22:57:15 | 歴史・痕跡
 隅田川は、旧荒川。「荒」の字が示すように、荒れる川だった。昔からしばしば洪水を起こし、沿岸住民を苦しめた。明治に入って「荒川放水路」を開削して流れを変え、さらに戦後、1963(昭和38)年から沿岸の土手に、高くコンクリートで固めた堤防を建設し、水害、高潮防止に。10数年後に完成した以降は、隅田川(岩淵水門下流)本体では、水害の被害はなくなった。
 その代わり、鉄骨とコンクリートで固めてつくった堤防によって、直接、人間は隅田川の川面を見ることが出来なくなってしまう。特に、京成本線の鉄橋(千住大橋~町屋)付近などは、人と水とのかかわりを拒むかのように、鋭くそそり立っている。
 それから下流、台東区、墨田区両区にまたがる隅田公園付近などでも、汚れきって淀んだ水は、悪臭を漂わせ、桜などの自然環境を汚しながら、人々を拒絶した。
 人間の方も、表現しようもないようなとてつもなく「臭い」隅田川を、ますます厭うようになっていった。人間の生活・文明そのものが、そこまで川を汚してきたはずだっただが。
 近年、隅田川の水質が急速に改善され、それとともに、人と水とのかかわり、すなわち自然と人間との関係を作り出す努力がなされてきている。
 そこには、人間の知恵とテクノロジーによる、このままではどうしようもないどぶ川浄化へのどろどろで長い闘いがあった、と言っても過言でない。
 下町全域の下水道の完備、生活排水や工場排水の規制や新河岸、小台、三河島の下水処理場などの下水道濾過装置の改善というハード面。
 さらには、コンクリート舗装の表面を土に入れ替える、川辺に広く長いテラスを設け、水面との接近、遊歩道やランニングコースを土手の上に造る・・・。水害防止という視点からのみのアプローチから、出来る限り、自然と人間との共存、共栄という視点からの河川政策への転換であった。
 特に桜橋(人道橋)から吾妻橋にかけて、(隅田)公園等の整備を行って、桜の名所復活が実現した。頭上には高速道路が走っていて、空間的広がりは阻害されてはいるが、桜の季節や夏の花火の時期には、出店も出るなど大いに賑わっている。
 しかし、現在ある墨堤の桜・ソメイヨシノは、1970(昭和45)年頃から堤防沿いに植えられたもの。
 これまでの「墨堤の桜」には、幾多の変遷がある。
 当初、4代将軍家綱が現在の茨城県稲敷市桜川(旧稲敷郡桜川村)地区から取り寄せ、木母寺(梅若伝説で名高く、現在は、東武鐘ヶ淵駅で下車、水神大橋付近にある寺)あたりに植えさせたのが始まりで、8代吉宗は木母寺から南の方へ植えさせた。その後、地元の人々が熱心に桜を植え、安政年間(1854~60年)には、桜堤が三囲(みめぐり)神社(墨田区側の隅田公園・桜橋付近に現存する神社)までできあがり、江戸の末期には、桜の名所として江戸随一を誇るまでになった、という。
 植えた桜がソメイヨシノではなかったのは、当然のこと。
 その後(明治に入ってからも)、たびたびの洪水のために桜に被害が出たが、そのつど、地元の人々によって植え直された。しかし、1923(大正12)年の関東大震災によって、壊滅的な被害を受ける。その復興事業として隅田公園(旧水戸藩下屋敷の庭園跡)が建設され、ソメイヨシノが植えられた。
 1940(昭和20)年の東京大空襲では、奇跡的に被害を免れたものの、次第に公害のために被害を受けることに。さらに、その後の堤防のかさ上げコンクリート工事のため、多くの桜は姿を消す。1966(昭和41)年には高速道路の工事のために、墨田区側はすっかり伐採されてしまった。そして復活した今日に至るわけである。こう見ると、墨堤の桜も受難の歴史であることが知れる。
 写真は、かつての墨堤通りで、地蔵坂通りの突き当たり付近。現在の通りよりもぐっと東にカーブしている。残念ながら、桜並木の面影は全くない。正面に見える神社は、白髭神社。なお、この地蔵坂通り、大昔は、海岸線だったとのことである。(太古の時代、このあたりに、隅田川の河口付近の土砂が堆積され、次第に陸地化されていった。)

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