にぎやかな「戸塚」駅西口方面へ。
「東口」まで、旧東海道の道筋らしい雰囲気がまだ残っています。
完成したばかりの歩道橋。
戸塚駅西口側を望む。駅の東西を結ぶ歩道橋の完成で駅周辺の再開発も加速するはず。
駅前通りにある「内田本陣跡」碑。
旧東海道【内田本陣跡】
本陣とは、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できた施設です。この辺りに、戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つ内田本陣がありました。内田本陣は間口十八間(三十二・八m)・奥行十四間(二十五・五m)で、畳数は百五十二畳もあったということです。
旧東海道。
「本陣」の他、戸塚宿には3軒の脇本陣がありました。
「澤邊本陣跡」。
「戸塚消防署」手前の民家の前。この民家の表札は澤邊となっていて、現在も同じ場所に澤邊家が続いているようです。
「旧東海道・澤邊本陣跡」。
澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一角に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社があります。弘治2(1556)年に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。
戸塚区役所
説明板。
戸塚が東海道の宿場になったのは慶長9年(1604年)11月のことであった。澤邊本陣の初祖 澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者である。
本陣とは公郷、門跡、大名などの宿泊する公の宿のことをいう(云ふ)。
戸塚観光協会
「明治天皇戸塚行在所阯」碑。
道路を挟んで真向かいにある「おもてなし館・きじま本陣」。
おもてなし館 きじま本陣は「戸塚宿」ゆかりの地に、東海道五十三次をコンセプトにつくったお店です。
「品川」のお部屋から始まり、「大磯」「小田原」を通り終点「京の間」まで続く各地の宿場町の名を冠し、趣向をこらしたお部屋をしつらえております。
四季折々のお祝い事や、法事など改まったお席から、家族の記念日などにも、大切な人と心ゆくまでゆったりくつろげるお店です。
(以上、HPより)
立地条件は、お見事! 立ち寄る機会は、まずないと思いますが。
その店先から「澤邊本陣」跡を望む。左手が「戸塚消防署」。
道はほぼ南に進んでいきます。
道が少し西に曲がっていく辺りにあるのが、「富塚八幡宮」。
「旧東海道・冨塚八幡宮」。
戸塚宿の総鎮守で祭神は誉田別命(応神天皇)と冨属彦命の二柱です。源頼義・義家父子がここに野営し夢で応神天皇の神託を受け戦に勝利した事に感謝し延久4(1072)年に社殿を造りその御霊を勧請したとのことです。
山頂の古墳は冨属彦命の古墳とされており、「冨塚」と呼ばれ、これが「戸塚」の地名の起こりとも言われています。境内には松尾芭蕉の句碑もあります。
戸塚区役所
「芭蕉句碑」。
「鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(かつお) 芭蕉翁」
当時鎌倉で水揚げされた初鰹は戸塚を通り江戸に運ばれました。嘉永2年、当地の俳人達によって戸塚にちなんだこの句の碑が建てられました(「解説板」)。
「上方見付跡」(右手のもの)。四角い石積の上に楓が植えられている。
「同」(左手のもの)。昔に因んで、「松」が植えられている。「サイゼリア」駐車場脇。
旧東海道 【上方見付跡】
江戸方見付から、約2・2㎞の距離にある戸塚宿京方の出入口です。 現在は道の両側に1・5mほどの石の囲いがあり、昔と同じように京に向って左に松の木、右に楓の木が植えられています。ここから京方は数々の浮世絵の背景に登場する長大な大坂の上りが続いています。
戸塚区役所
「安藤広重 戸宿塚」(銘板)。
この銘板の浮世絵は、嘉永(1848~1853)時代に安藤広重が東海道五十三次の戸塚宿を描いたものです。宿場町として栄えていた頃の様子がうかがえます。
平成元年4月 横浜市戸塚区役所、戸塚土木事務所
この絵は、「一番坂」と呼ばれた現在の大坂台付近か。
いよいよ「大坂」の長い上りにさしかかる。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「八幡社」とあるのは、「富塚八幡宮」。「親縁寺」は、現在も同じ場所にある。右上の「東海道」から東に分かれる道は、「鎌倉」への道(現「八坂神社前」交差点)。
「東口」まで、旧東海道の道筋らしい雰囲気がまだ残っています。
完成したばかりの歩道橋。
戸塚駅西口側を望む。駅の東西を結ぶ歩道橋の完成で駅周辺の再開発も加速するはず。
駅前通りにある「内田本陣跡」碑。
旧東海道【内田本陣跡】
本陣とは、大名、勅使、公卿、宮門跡、公用の幕府役人などだけが宿泊や休息できた施設です。この辺りに、戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つ内田本陣がありました。内田本陣は間口十八間(三十二・八m)・奥行十四間(二十五・五m)で、畳数は百五十二畳もあったということです。
旧東海道。
「本陣」の他、戸塚宿には3軒の脇本陣がありました。
「澤邊本陣跡」。
「戸塚消防署」手前の民家の前。この民家の表札は澤邊となっていて、現在も同じ場所に澤邊家が続いているようです。
「旧東海道・澤邊本陣跡」。
澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。本陣創設時の当主、澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。明治天皇の東下の際には行在所になりました。敷地の一角に戸塚宿の鎮守の一つ羽黒神社があります。弘治2(1556)年に澤邊河内守信友が羽黒大権現を勧請したのが始まりと言われています。
戸塚区役所
説明板。
戸塚が東海道の宿場になったのは慶長9年(1604年)11月のことであった。澤邊本陣の初祖 澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者である。
本陣とは公郷、門跡、大名などの宿泊する公の宿のことをいう(云ふ)。
戸塚観光協会
「明治天皇戸塚行在所阯」碑。
道路を挟んで真向かいにある「おもてなし館・きじま本陣」。
おもてなし館 きじま本陣は「戸塚宿」ゆかりの地に、東海道五十三次をコンセプトにつくったお店です。
「品川」のお部屋から始まり、「大磯」「小田原」を通り終点「京の間」まで続く各地の宿場町の名を冠し、趣向をこらしたお部屋をしつらえております。
四季折々のお祝い事や、法事など改まったお席から、家族の記念日などにも、大切な人と心ゆくまでゆったりくつろげるお店です。
(以上、HPより)
立地条件は、お見事! 立ち寄る機会は、まずないと思いますが。
その店先から「澤邊本陣」跡を望む。左手が「戸塚消防署」。
道はほぼ南に進んでいきます。
道が少し西に曲がっていく辺りにあるのが、「富塚八幡宮」。
「旧東海道・冨塚八幡宮」。
戸塚宿の総鎮守で祭神は誉田別命(応神天皇)と冨属彦命の二柱です。源頼義・義家父子がここに野営し夢で応神天皇の神託を受け戦に勝利した事に感謝し延久4(1072)年に社殿を造りその御霊を勧請したとのことです。
山頂の古墳は冨属彦命の古墳とされており、「冨塚」と呼ばれ、これが「戸塚」の地名の起こりとも言われています。境内には松尾芭蕉の句碑もあります。
戸塚区役所
「芭蕉句碑」。
「鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(かつお) 芭蕉翁」
当時鎌倉で水揚げされた初鰹は戸塚を通り江戸に運ばれました。嘉永2年、当地の俳人達によって戸塚にちなんだこの句の碑が建てられました(「解説板」)。
「上方見付跡」(右手のもの)。四角い石積の上に楓が植えられている。
「同」(左手のもの)。昔に因んで、「松」が植えられている。「サイゼリア」駐車場脇。
旧東海道 【上方見付跡】
江戸方見付から、約2・2㎞の距離にある戸塚宿京方の出入口です。 現在は道の両側に1・5mほどの石の囲いがあり、昔と同じように京に向って左に松の木、右に楓の木が植えられています。ここから京方は数々の浮世絵の背景に登場する長大な大坂の上りが続いています。
戸塚区役所
「安藤広重 戸宿塚」(銘板)。
この銘板の浮世絵は、嘉永(1848~1853)時代に安藤広重が東海道五十三次の戸塚宿を描いたものです。宿場町として栄えていた頃の様子がうかがえます。
平成元年4月 横浜市戸塚区役所、戸塚土木事務所
この絵は、「一番坂」と呼ばれた現在の大坂台付近か。
いよいよ「大坂」の長い上りにさしかかる。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。「八幡社」とあるのは、「富塚八幡宮」。「親縁寺」は、現在も同じ場所にある。右上の「東海道」から東に分かれる道は、「鎌倉」への道(現「八坂神社前」交差点)。
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