おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「おんな泣かせ」。川越遺跡町並。「川会所」。(藤枝駅から金谷駅まで。その3。)

2015-02-18 21:59:13 | 旧東海道

 県道34号線を西に向かいます。正面には、「特種東海製紙島田工場」の大きな煙突が見えます。

 右手にあった酒蔵。「大村屋」。

 徳利をもった若鬼が目印。「大村屋酒造」は、島田で残された唯一の酒蔵で、ここの銘柄酒は、「若竹鬼ころし」、「おんな泣かせ」。特に「おんな泣かせ(純米大吟醸)」は、静岡地酒の中で、そのユニークなネーミングと、ラベルに配された歌麿の美人画で有名、らしいです。
 そういえば、「藤枝宿」からの街道筋、酒屋さんの看板にありました。今度、スカイツリータウンにある地酒屋さんに行ってみよう。

道標。「西 大井川渡船・・・」。判読不能

 ただ「大井川」の渡船は、明治以降なので、この道標は、江戸時代の東海道に関わる、古い道標ではありません。

ここで、「大井川」の渡しの歴史を。木橋の「蓬莱橋」についても。

《歴史》
1870年(明治4年) - 川越人足廃止に伴い、渡船が運行開始。
1875年(明治9年) - 木製の仮橋を架設するが、しばしば増水で流された。
1883年(明治16年) - 本設の木橋が完成。
1895年(明治29年) - 増水で流失し、渡船が復活。
1928年(昭和3年) - 鉄橋(トラス橋)が完成。

 大井川の徒渉し(かちわたし)の制度は幕府の交通政策の整備と連動して整えられていった。旅行者が少ない時代は自力で川を渡るのが原則であったが、公儀御用の通行が増えると、川を渡す専門の人を一定数確保しておく必要が生じ、その費用を大名や一般の人からの通行料によって賄う制度がつくられた。その結果、専業の川越人足が定着し、高い料金が設定されることになった。そしてこの制度を守るために幕府は他の場所で渡るのを禁止した。
 こうなれば渡船事業などを申請する人があったとしても、地元の人々の権益を保護し、伝馬制度を守る立場から官民がこぞって反対し、新規事業の申請をことごとく握りつぶすことになった。また当時の大井川に1000メートルを越える長大橋を架けて維持できるほどの費用対効果がなかったことも橋が架けられなかった大きな要因である。
 このように官民一体となって維持されてきた大井川の徒渉しも幕府の崩壊にともなってその基盤が失われた。明治になると、宿駅制が廃止され、ついには渡河の方法や位置までもが自由化されることになると、その命運は一気に尽きることになる。時代の変革によって職を失うことになった川越人足の千数百人、家族を含めると三、四千人の人たちが転職を余儀なくされた。地元の有力者の尽力や県の援助によって丘陵地を開墾することになったが、新しい作物を生み出す苦労は並大抵ではなく、たくさんの離脱者を出しながら茶の栽培が軌道に乗せられていった。こうして日本一の茶所・静岡の基盤が築かれたのである。
 明治新政府は希望者には有料の橋の架設や渡船の設置を認める通達を出した。大井川でも地元の有力者が中心となって架橋計画が立てられ、明治15年に延長1,255メートルの有料の橋が完成した。しかし、その経営は楽ではなかったようで、20年ほどで廃絶してしまった。その後は渡船にもどり、大井川に近代的な道路橋が完成するのはようやく昭和3年のことである。鉄道に比べて道路の整備はずいぶん遅かった。これが現在の大井川橋である。
 大井川橋から4キロほど下流に蓬莱橋という日本最長の木橋が架かっている。この橋には明治維新の際、時流に取り残された徳川家直参の武士たちの苦難の歴史が秘められている。大井川の右岸に位置する牧之原は、現在では見事な茶園が広がっているが、もとは耕作に適さない荒地であった。大政奉還の後、駿府城主となった徳川家達(いえさと)にしたがって駿河へ移住した直参の御家人たちが家族とともに入植し、茶づくりに取り組んだ。また大井川の徒渉しがなくなって失職した人々も開墾事業に加わった。
 苦難の末、ようやく茶の生産も安定してくると、対岸の島田の町へ渡る橋が必要になってきた。このため島田宿の開墾人総代を始め40名余りの人々が中心になって架橋仲間出資組合がつくられ、明治十二年一月に竣工した。出資者以外は有料であった。この橋を「蓬莱橋」と命名したのは元の城主、徳川家達であったといわれる。

 大井川で簡易な木橋を維持していくことは容易なことではなかった。何度となく流失の被害を受けながら地元の人達の努力で存続されてきた。現在では大半の橋杭はコンクリート製になっているが、上部は長さ約900メートルの日本一長い木の橋である。

(以上、HPより)

 日本一のお茶処「静岡」誕生の秘話を初めて知りました。
 「蓬莱橋」は、ぜひ渡って見たい橋です。せっかくの機会を逃してしまいました。何とかまた来よう!

 街道筋には、興味深いお店も。ピザの店「あいおい」。

「大善寺・時の鐘」。
 明け六ッ(日の出の時刻)と暮れ六ッ(日の入りの時刻)の鐘の音は、大井川川越しの始まりと終わりの合図ともなっていたそうです。
 もともとあった鐘は戦時中に供出され、現在のは、戦後つくられたものだそうです。そういえば、三島宿にあった「時の鐘」も同じような運命をたどっていました。

   
                    低層で二重で庇の大きい屋根など、特徴のある家屋。

「島田宿」という表示。通りには小松。

 三叉路を左の道に進み、「東海製紙工場」の脇を行きます。しばらく行くと、旧街道らしい雰囲気になっていきます。

    
                       上段の間が現存する塚本家

 「上段の間」とは、奥の一室が一般の座敷より一段高くなっていて、身分の高い人をお迎えする特別な部屋のことです。江戸時代、大名や公家などの宿泊する本陣に必ず備えられていました。
 塚本家に伝わる文書によると、九州肥前(長崎県)で古い家柄を持つ泰妙、大村藩によって建てられた家です。そして大村藩の参勤交代や大村藩とゆかりのある諸大名や武家が、大井川を渡るときに、特別の便宜をはかり、川越しの準備や手続きを代行しました。その間大名を座敷の上段の間にお通しして接待し、休憩や昼食をとったことが伝えられています。・・・
 塚本家の主人の多くは「三太郎」を名乗り、家系の記録では、元禄までさかのぼりますが、川越し場が開設した当時からの旧家と思われます。

 島田宿・金谷宿史跡保存会 島田市教育委員会

 その先の道ばたに道標。
                     「国指定 島田宿大井川 川越遺跡町並」。

          「川越遺跡・全体絵図。

「六番宿」。
 川越し人足たちが詰めていた番宿。一番宿、二番宿と通りの左右にありました。
   
「島田市博物館分館」。

 上空は青空ですが、何となく風花が舞ってきて、薄ら寒い天気に。人っ子一人いないところを歩きました。建物に入ると、等身大の人足や品々が置いてあります。 
 車が停まっていて、生活している家もありますが、復元・保存され見学自由な建物が並んでいます。
      

一方で、生活しているおうちも。

    
                                        室内から琴の音色が。 

「仲間の井戸」(左奥)。右手には「手押しポンプ」。

「関川庵」。八百屋お七の恋人吉三郎の墓がある、とか。

    
                           「札場」。

 川越し人足が川札を換金するところで、昔ながらの位置に保存されています。
 一日の川越しが終了すると、それぞれの番屋において川札を回収して、札場で現金に換えた後、人足たちに分配しました。 

       町並み。

    
                    「川会所(かわかいしょ)」。       

 川越しの料金を決めたり、川札を売った所。元禄9(1696)年に川越制度が確立されてから、川役人が川越業務を行なってきた建物です。現存する建物は安政3(1856)年に建てられたもので、明治以降数回の移転を経て、昭和45(1970)年、川会所跡の西側の現在地に復元保存されました。

芭蕉の句碑。「馬方はしらじ時雨の大井川」

 この句は、まさに「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」ですね。なお、水深4尺5寸(1.5m)、人足の肩を超えると全面的に渡河禁止(「川留め」)となった、ようです。

「せぎ跡」。大井川の増水を食い止めるための堰。
 両側にあって、板を差し込めるような溝があります。

振り返って望む。


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