久々に午後から、東京の坂めぐり。前回も参考にさせてもらった「『江戸と東京の坂』(山野 勝)日本文芸社」掲載の案内図を頼りに。
「京急・品川」駅から「都営・三田」駅まで。距離的には、5㎞足らずでしたが、上ったり、下ったりで、ほどほどの歩きでした。「高輪」「三田」付近は想像以上に坂道続き、アップダウンの多い街でした。
車の激しい通り、高校や小中学校の集まる文教地区、静かで落ち着いた住宅街、小さな商店が並ぶ通りと変化にも富んだところでもありました。
左下・品川駅方向を望む。
考えてみたら、乗り換え駅としてはけっこう利用しますが、品川駅で下車して、となると今までほとんど縁がありませんでした。そんなわけで、いきなり最初の「柘榴坂」に行くのに迷って(駅西口ロータリーの前の広い通りを素直に上っていけばよかったのですが)、「ウィング高輪WEST」のところを左に曲がってしまい、さて、上に向かう道がない。
やっと見つけて、少し上って行くと、右手には急な石段。それもけっこうな高さ。そこを上って振り返ると、左手下にJRの線路が。「品川プリンスホテル」のすぐ南側に沿った道に出ました。
ラジオでしょっちゅう宣伝を流している「再春館製薬所(東京営業所)」はここか! とその前を通って、本来の「柘榴坂」へ。
「柘榴坂」。
(ざくろざか)
坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか、江戸時代はカギ形に曲り、明治に直進して新坂と呼んだ。
1880年代のようす(「歴史的農業環境閲覧システム」より)。↓の部分がカギ形になっている。この後、改修したと思われる。「東海道」(現在の「第一京浜」)のすぐ東には東京湾が広がっていた。海岸線を通る直線は、新橋からの鉄道線路。
坂上の左手にある「カトリック高輪教会」にある殉教碑。
1623年12月4日、徳川3代将軍家光は、外国人宣教師を含むキリシタンを、迫害政策により江戸市中を引き回したうえ、東海道沿いの札の辻(現在の田町駅付近)の小高い丘で火刑に処しました。その後数年にわたり、女性や子供、キリシタンをかくまった人々も巻き込み、100名近くの人々が処刑され、江戸全体では、2000名近くの人が殉教しました。世にいう「江戸の大殉教」です。
その中の一人ヨハネ主水(もんど)は、2008年、信仰の証し人として福者に列せられました。・・・
その先を左に曲がります。この付近は、「高輪台」という高台にあたります。
「味の素グループ高輪研修センター」の表門?
その建物の角を右に曲がります。塀もなかなか趣ある雰囲気。
ここには、があるようです。
右に左に折れながら下って行くと、「高輪公園」。
公園附近沿革案内
この公園の付近は三方を丘で囲まれた静かなくぼ地で、江戸入口の大木戸から南方に
当たり国道東側まで海があって、景色のよい所だった。
今から約300年前寛永13年(1636年)に近くの東禅寺が赤坂から移った。この禅寺を中心として多くの寺が建ち、その周辺には有名な大名井伊、本多家などの下屋敷があった。
幕末には東禅寺は最初の英国公使館となった。附近の一部は江戸時代を通じ荏原郡高輪村であったが、明治5年東禅寺、宝蔵寺、法蓮寺、浄業寺等の寺地と、本多家下屋敷の一部を合併し下高輪町となった。
高輪の地名は、高い所にある、まっすぐな道という意味の高縄手道が略されたものとも、岬を意味する高鼻というのがなまったものといわれる。・・・
「東禅寺」。
国指定史跡 東禅寺
東禅寺は、幕末の安政6年(1859)、最初の英国公使館が置かれた場所です。・・・
幕末の開国に伴い、安政6年6月、初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコックが着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(1865)6月まで7年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(1861)5月には尊皇攘夷派の水戸藩浪士に、翌2年5月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが著した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。
現在の東禅寺の寺域は往時に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館員の宿舎となっていた「「僊源亭」やその前の庭園などは良好に残っています。庭園と僊源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。
幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。
平成24年3月 東京都教育委員会
門前を右に曲がり、細い路地を行く。緑に囲まれた落ち着いた住宅地。
「洞坂」。
(ほらざか)
法螺坂、鯔坂とも書く。この辺の字(あざ)を洞村(ほらむら)と言った。洞村とは、昔ホラ貝が出たともまたくぼ地だから、洞という等様々な説がある。
上がりつめた広い道が「桂坂」。
(かつらざか)
むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。
この坂を上ると、正面右奥に「二本榎」。
二本榎の由来
その昔、江戸時代に東海道を日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高輪手(たかなわて)」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目標になっていたそうです。
誰いうことなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになりました。
それがそのまま「二本榎」(にほんえのき)という地名になって続き、榎が枯れた後でもt地名だけは残りました。
戦後、地番変更で高輪4丁目などと地名は変わりましたが、「榎」は幾度となく植樹・移植が行われ、町の人々の大切な象徴となっています。
平成17年(2005年)12月
通りを挟んだ向かい側にあるのが、「高輪消防署」。
庁舎は昭和8年(1933年)に完成し、現在、「東京都選定歴史的建造物」に指定されています。現役の消防署として活躍中。
正面の円筒形の3階部分の上に、灯台のような火の見櫓が立っています。正面入口には「署防消輪高」と右側から書かれていました。
どこかで見たことがあるような建築物。「(関東大)震災復興小学校・公園探索」で訪ねた、旧「台東区立小島小学校」や旧「中央区立京華小学校」などの構造とよく似ています。昭和の初期、ほぼ同じ頃に建てられた建て物であることが分かります。
注: 旧「小島小学校」校舎。
半円柱状(丸い搭状)の外観。屋上は完全な円形で、物見塔(火の見櫓?)のよう。
旧「京華小学校」校舎。
曲線に特徴が。
その角を右に折れて、東海大学関連施設を右に見ながら行きます。そこにも古めかしい建物が。
「とらや」。
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